21 屈辱というか、なんというか
さて翌日である。
足はまだけっこう痛むが、店や仕事場をうろついているだけなら特に不便はない。台所に行くと、目玉焼きとパンとサラダの朝食がラップを被っていて、それをつくったくるみはもう出勤していた。
エカシはいつもこの時間にはすでに仕事場にいる。私は開店の準備をしなければならない。仕事場の入り口に頭を突っ込み、
「おはようございます」とだけ言って店に向かおうとして、違和感をおぼえた。
エカシとあの男が仕事場で仲良く座ってマリオカートをやっている。
「おお、足はもう大丈夫か」
「ヤア、オハヨウ」
二人とも、食い入るように画面を見つめたまま、コントローラーをカチカチ鳴らしながらのせりふである。
私は何も見なかったことにして、黙って扉を閉めた。
店のシャッターを開け、取り込んでいた屋台を外に出した。
周囲の店も次々にシャッターが開く。観光客の姿は見えないが、チセの朝イチの公演にあわせてスケジュールを組んでいるツアーがあるはずだ。
「おはようっす」
隣のバイトが挨拶をする。
「昨日、たいへんだったんだって」
ニヤニヤしながら余計なことを言いやがった。
私の中では、知らない男におんぶされて助け出されたことが一番の屈辱で、それ以外のことはたいした問題ではなくなっている。
屈辱というか、なんというか。
奴の背中の広さや温度や筋肉の固さが、思い出すつもりもないのによみがえってきて、私は動揺してしまう。その記憶はどうしたって、恥辱の感覚と結びついてしまう。
子供のころからそうだったのだ。普通ならほほえましいはずのシーンが、普通サイズの父あるいは母とこの私をキャスティングすると、とたんに珍妙なコメディにかわってしまう。子馬の背中にきりんを乗せるようなものだ。どうしたって絵にならない。私は幼いころからそういう無様さを自覚していて、だから、他人に体重を預けたりすることのないように、なんでも自力で解決して、どんな苦しいときにも自分の力で歩き続けられるように自分を鍛えてきた。
そういうつもりでいたのだ。
昨日の山中で意地を張り通すことのできなかった自分を、私は呪った。
そうしてまた、思い出してしまう。シャツごしに触れる男の筋肉の分厚さ、温かさ。広い背中に全身を預けきることの安心感……
そもそも、どうしてもあの沢が登れないわけではなかったのだ。
ただ、きっと時間がかかりすぎ、状況を理解していない他の人たちのことを思えば、個人的なプライドを捨ててでもあの男の力を借りるべきで――というのは後付の理屈なのだが、恥を忍んで耐え難きを耐え、我慢に我慢を重ねてあの男の背中に身体を預けたのかといえば、正直なところそうではなく、だからこそ、今こんなふうに煩悶しているわけで、リズミカルに揺れていたあの広い肩、大きな背中、その筋肉の力強いしなやかさ、その温度。
「やあ、あの爺さん強いね。六連敗しちゃったよ」
「わあっ」
工房でエカシとゲームをしていたあの男、ヨン・レック・ヨハンセンが、いつのまにか目の前に立っていた。




