20 紙持ってないかと思って
林道は鞍部を走っていて、その両脇は斜面なのだ。藪に覆われて視線が通らないが、左手は十メートル近く切れ込んでいる。
「痛え、いでででで、ケツが、ケツが……」
一度始まった滑落をとめるすべはなく、悲鳴をあげる山場さんを抱えたまま谷底に転げ落ちた私は、足首をねんざしたことに気づく。
手をべっとりとした生温かいものが濡らす。山場さんの血だ。笹の葉や枝に切り裂かれて、彼(の尻)は傷だらけだ。頭は打っていないはずだが、気を失っているようだ。
藪の中の何かは、急斜面を避けてこちらに近づいてこようとしている。やはり私たちは追われているらしい。
気絶した男を一人抱えて、片足を捻挫した状態で、藪の中を駆け上がって仲間のいるところまで逃げ切れるなら、私はオリンピックに出るべきだろう。向こうがその気になれば一瞬で追いつかれる。
ならば戦う。
その覚悟を見せて熊と向き合うしかない。
発炎筒を思い出した。使い方を知らないことに今更気づいた。やむをえず、高さ三十センチほどのその円筒を木刀のように握りしめる。
笹薮が鳴った。思わぬ方向、思わぬ近さだ。ほんの一瞬、金色の毛が木漏れ日に光るのが見えた。金毛は年を経たしるしで例外なく巨体の持ち主。濃密な獣の匂いが吹き付けてくる。私は叫びだしたいのをこらえて、そいつが近づいてくる方向に向き直った。
「あ、ごめん。邪魔しちゃった?」
英語でそう言われた。
は?
「や、ほら、紙持ってないかと思って」確かにそいつ、身長二メートルをはるかに超える金髪の男は、片手にトイレットペーパーを持っている。「でも、なんか、野暮なことしちゃったかな、ごめんね」
彼は恥ずかしそうに私の顔と、私の腕のなかにある山場さん(の尻)に交互に目をやり、ぽっと頬を染めた。
「ち、ちが……」
「じゃ、俺はこれで」
男はそそくさと背を向け、笹薮に分け入って消えた。
私はしばらく呆然と彼を見送っていたが、やがて怒りと恥ずかしさがこみ上げてきた。
「起きろ、この野郎!」
山場さん(の尻)を地面にたたきつける。みぞおちに肘を打ち込もうとしたところで目をさました。しばらくきょろきょろとあたりをみまわしていたが、
「わわっ」
と叫んで駆け去っていった。
「……ば、ばかばかしい」
とんだとばっちりで、怪我はするわ恥はかくわ。
そういえば、そもそもあの大男はなんだったんだ。髪もヒゲも伸び放題、十日は風呂に入ってない感じだったが。
生態学の学術調査とかだろうか。まあどうでもいい。
さて、帰ろうか、と思ったところで、足を捻挫しているのを思い出した。
しかしまあ、死ぬほど痛いが歩けなくはない。ヒグマの追跡をかわすとか、さしせまった状況でないなら、無理ができないことはない。
とりあえずは、転げ落ちた斜面を這い登ることだ。草をつかんで体をもちあげる。瞬く間に汗まみれになった。
「なんだよ、怪我してるんならそう言ってくれればいいのに」
今度は上から、さっきの金髪の頭が現れた。
"Getoutfrommyway,scum!Whatfuckareyou!"
……あ、いや。そう叫んだのは私である。
私は英語を解するのだが、しゃべるほうはこんな感じなのだ。ガラの悪い米兵くずれに英語を習ったせいなのだが、いや、その話はまた別な機会にしよう。
とにかく、とっさに放った言葉がそんなふうだったのでさすがに後悔したのだが、驚いたことに相手は「ぷぷっ」と吹き出した。
「スェーデン王国から来ました、ヨン・レック・ヨハンセンといいます。お困りのようですね、お嬢さん」
この悪臭を放つ大男はさわやかに微笑むと、そう言って私に手をさしのべたのである。




