第9話 予祝いの春菊鍋
# 第9話 予祝いの春菊鍋
翌日の夕方、綾乃は会社帰りに商店街の八百屋へ立ち寄った。店先には春キャベツ、新玉ねぎ、菜の花が並び、赤い札に太い字で値段が書かれている。黒い通勤用コートの裾を風に揺らしながら歩いていた綾乃は、籠へ山積みにされた春菊の前で足を止めた。
「春菊、一束三十円?」
「今日は仕入れすぎたのよ。二束なら五十円でいいよ」
白い割烹着を着た店主が、輪ゴムで束ねた春菊を持ち上げた。濃い緑色の葉は張りがあり、近づけると青い香りがした。綾乃は二束とも買い物かごへ入れ、太い春大根も一本選んだ。
「ずいぶん大きな大根ですね」
「春の大根は水分が多くて、少し辛いよ。煮てもいいし、すって食べてもおいしい」
綾乃は、敏恵が温かい手料理を欲しがっていたことを思い出した。命じられた昨日は作りに行かなかったが、今日は自分から四人で食べたいと思った。鶏むね肉、豆腐、細ねぎ、鮮やかな橙色の皮をした柑橘も買い、重い袋を左右の手で持ち替えながら新居へ帰った。
台所には、朝に洗ったマグカップが二つ伏せてあった。椅子の背には乾ききらなかった白いブラウスが掛かり、仕事机には付箋のついた資料が残っている。綾乃はコートを脱いで薄桃色のニットの袖をまくると、達也へ電話をかけた。
「お義母さんの熱はどう?」
「三十七度一分。食欲はあるらしい。でも、まだ治ってないぞ」
「今日は義実家で快気祝いをしましょう。春菊鍋を作るわ」
「まだ治ってないだろう?」
「だから予祝いよ。治ることを先に祝うの」
「そんな言葉、母さんに通じるかな」
「通じなくても、お鍋は食べられるでしょう」
綾乃は春大根をたわしで洗った。薄い土が落ちると、みずみずしい白い肌が現れる。葉は細かく刻んで塩を振り、翌朝の菜飯に使うため保存容器へ入れた。
大根の半分をすりおろし、軽く水気を切った。細かく刻んだ鶏むね肉、片栗粉、塩を混ぜて丸め、フライパンで表面へ焦げ目をつける。大根餅の香ばしい匂いが、まだ冷たい春の台所へ広がった。
残りの大根はいちょう切りにし、鶏肉、豆腐、長ねぎと一緒に土鍋へ入れた。昆布だしを注いで火にかけ、灰色のあくを丁寧にすくう。春菊は茎と葉を分け、濡らした布巾をかぶせておいた。
ポン酢には、柑橘の橙色の皮を薄くそいで混ぜた。細ねぎも刻み、小鉢へ山のように盛る。デザートには林檎を二つすりおろし、レモン汁と蜂蜜を加えた。
仕事を終えた達也が帰宅すると、玄関には土鍋を包んだ大きな風呂敷が置かれていた。綾乃はベージュのパンツへ着替え、春菊の入ったざるを持っている。達也は風呂敷の結び目を持ち上げ、すぐに下ろした。
「重い。これを歩いて持っていくのか?」
「五分でしょう?」
「こういうときだけ、五分を近いことにするんだな」
「運ぶ人が二人いるからよ。一人なら小さい鍋にしていたわ」
達也が土鍋を抱え、綾乃が春菊と薬味を持った。雨上がりの道からは湿った土の匂いがする。住宅の庭では桃の花が咲き始め、濃い桃色の花びらが街灯の下で揺れていた。
義実家では、茂が紺色の部屋着に茶色いベストを重ね、玄関で待っていた。土鍋を見ると杖を置き、手を伸ばしてくる。達也は体を横へ向け、父の手から鍋を遠ざけた。
「呼んでくれれば、俺も運びに行ったのに」
「親父に持たせたら、野中さんに叱られるよ」
「鍋くらい持てる」
「今日は食べる係をお願いします」
敏恵は桃色の寝間着に毛糸の肩掛けを重ね、座椅子へ座っていた。体温は三十七度を下回っていたが、昼に食べた雑炊の空容器がテーブルへ残っている。綾乃が土鍋を置くと、敏恵は肩掛けの端を握った。
「昨日は来なかったのに、どうして急に鍋なの?」
「昨日は病院と雑炊が必要でした。今日は、みんなで温かい物を食べたいと思ったんです」
「それで快気祝い?」
「予祝いです。元気になることを先に祝います」
土鍋の蓋を開けると、昆布だしと鶏肉の湯気が立ち上った。綾乃は卓上こんろへ鍋を載せ、焼いてきた大根餅を一つずつ浮かべる。春菊の茎を先に入れ、最後に柔らかい葉を広げると、鮮やかな緑色が土鍋いっぱいに輝いた。
「春菊は煮すぎると苦くなるわよ」
敏恵は肩掛けを押さえながら、誰よりも早く箸を伸ばした。茂は大根餅を取り、息を吹きかけてから口へ入れる。表面は香ばしく、中はだしを吸って柔らかくなっていた。
「これは餅なのか?」
「大根と鶏肉と片栗粉です」
「餅というほど伸びないぞ」
「伸びなくても大根餅です。お義父さんが食べやすいように作りました」
「それなら大根団子でいいだろう」
達也が笑い、敏恵も春菊を噛みながら口元を緩めた。綾乃は豆腐を敏恵の器へ入れたが、食べるようには勧めなかった。敏恵は自分でポン酢をかけ、橙色の皮と細ねぎを足した。
「いい香りね。これは柚子?」
「安かった柑橘です。名前の札を見忘れました」
「あなた、意外と大ざっぱなのね」
「お義母さんも、昨日は高い熱を我慢していたでしょう」
「それとこれとは違うわよ」
アツアツの鍋を囲むうちに、敏恵の額へ薄く汗がにじんだ。最後の大根餅を誰が食べるかで三人が譲り合い、綾乃が半分に切って義両親の器へ入れた。茂は不公平だと言いながら、自分の半分を先に食べた。
食後には、すりおろした林檎へ蜂蜜を垂らした物を出した。敏恵は「赤ちゃんの離乳食みたい」と言ったが、器の底まできれいにすくった。茂は自分の分を食べ終え、敏恵の器に残っていないか横からのぞいた。
「快気祝いなら、私はもう治ったの?」
「予祝いです。明日の朝に熱が上がっていたら、もう一度受診してください」
「祝いながら、ずいぶん現実的なのね」
「元気になることと、必要な治療を受けることは別ですから」
帰る前に、綾乃と達也は土鍋を洗った。敏恵も立とうとしたが、今日は休んでもらい、代わりに茂へ布巾を渡した。茂は「なぜ俺が」と言いながら、洗い終えた器を一枚ずつ拭いた。
温かい手料理を作っても、綾乃が毎日通う約束にはならなかった。作りたい日に作り、食べたい人が集まり、食べ終えた人も片づける。その鍋には、命令された義務ではなく、四人で元気になる日を先に祝いたいという気持ちが入っていた。
翌朝、綾乃は目覚まし時計を止めようとして、右腕を押さえた。大根一本と林檎二つをすりおろした腕は、肘から手首まで重くなっている。会社でマウスを動かすたびに顔をしかめていると、達也からメッセージが届いた。
『母さん、平熱。予祝い成功』
綾乃は腕をさすり、片手で返事を打った。
『成功。でも、大根餅は毎週作りません』
すぐに、笑っている顔の絵文字が返ってきた。温かい料理には、買い物、下ごしらえ、調理、運搬、片づけ、そして翌日の筋肉痛までついてくる。敏恵には知らせなかったが、達也だけは、その代金をよく知っていた。




