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第8話 温かい手料理という要求

第8話 温かい手料理という要求


三月の終わり、義実家の庭では黄色い水仙が咲いていた。定期配送の車が玄関前に止まり、米、牛乳、冷凍弁当の箱を下ろしていく。敏恵は薄紫色のカーディガンの前を合わせ、配達員が帰るまで険しい顔で荷物を見ていた。


「また冷凍弁当なの? 煮魚も野菜も、温め直したら味が落ちるわ」


「毎日食べる必要はないよ。母さんが疲れた日や、買い物へ行けない日に使えばいい」


「私はまだ料理くらいできます。こんな物を頼むくらいなら、綾乃さんが仕事帰りにおかずを持ってくればいいのよ」


達也は、冷凍庫へ弁当を入れる手を止めた。敏恵は先日のちらし寿司が気に入ったらしく、あれほど料理のできる嫁が冷凍弁当を頼むのはおかしいと言う。家族なら毎日顔を出し、温かい物を食べさせるのが思いやりだという理屈だった。


「ちらし寿司は、みんなで食べるために作ったんだ。毎日の家事を引き受けるという意味じゃない」


「家族の食事を作ることまで、家事だの負担だのと言うのね」


「母さんだって、姉ちゃんの家へ毎日夕飯を届けていないだろ」


「香織はお嫁に行った娘でしょう。綾乃さんとは立場が違うわ」


敏恵は冷凍庫の扉を強く閉めた。上に置いてあった小袋の干し椎茸が落ち、床へ散らばる。達也が拾っても、敏恵は手伝わず、流し台に残っていた昼の茶碗を洗い始めた。


その翌週、綾乃は自宅の仕事机で、次の日の会議資料を確認していた。白いブラウスの袖を肘までまくり、髪は黒いゴムで一つに結んでいる。机の脇には飲みかけの紅茶と、夕食に食べるつもりだった菜の花のサンドイッチが置かれていた。


翌朝の会議では、半年かけて開発した新しいシステムを役員へ説明することになっていた。綾乃は画面の数字を一つずつ確認し、資料の誤字を赤い印で直していく。窓の外では雨が降り始め、庭のチューリップが風に揺れていた。


午後八時を過ぎた頃、机の上の電話が鳴った。表示された名前は敏恵だった。綾乃が応答すると、荒い呼吸の間から、かすれた声が聞こえた。


「綾乃さん、今すぐ来て。熱があるの」


「体温は何度ですか?」


「さっき測ったら、三十八度くらいよ。それより、お父さんの夕飯を作れないの。何か温かい物を作ってちょうだい」


「もう一度、体温を測ってください。息苦しさや胸の痛みはありますか?」


「そんなことより夕飯よ。お父さんはお昼にパンしか食べていないの」


電話の向こうから、体温計を探す音がした。引き出しを開ける音に続き、金属製の盆が落ちる。茂が「冷凍弁当でいい」と言ったが、敏恵は「あんな物を食べさせられない」と声を上げた。


「お義父さんは、自分で電子レンジを使えますか?」


「使えるけれど、病人がいる家で冷凍弁当なんておかしいでしょう」


「体温を教えてください」


「三十八度九分。ほら、こんなにあるのよ。だから早く来て」


綾乃は電話をスピーカーにし、達也へ連絡した。達也は残業中だったが、事情を聞くと仕事を同僚へ引き継ぎ、義実家へ向かうと答えた。綾乃はその間に夜間の救急相談窓口へ電話し、敏恵の年齢、体温、呼吸や意識の状態を伝えた。


「私が夕飯を作りに行くより、まず受診が必要です。達也が迎えに向かっています」


「あなたは来ないの?」


「会議の準備中です。それに、今は人数を増やすより、受診の支度をしてください。保険証とお薬手帳を出せますか?」


「冷たい人ね。おかゆくらい、すぐ作れるでしょう」


「おかゆでは熱の原因は分かりません」


綾乃は茂にも電話を代わってもらい、冷凍庫の一番上にある白身魚の弁当を温めるよう伝えた。茂は電子レンジの時間が分からないと言ったが、箱の表示を読んでもらい、一つずつ操作を確認した。数分後、電話の向こうで加熱終了の音が鳴った。


達也が義実家へ着いたとき、敏恵は寝室で横になっていた。桃色の寝間着の上に毛糸の肩掛けを重ね、枕元には飲みかけの水と、皮をむいたままのミカンが置かれている。茂は居間で弁当を食べ、苦手なインゲンだけを容器の隅へ寄せていた。


「父さん、食べられた?」


「冷凍にしては悪くない。魚は少し水っぽいが」


「全部食べなくていいよ。母さんを診てもらってくるから、戸締まりを頼む」


「綾乃さんは来ないの?」


敏恵は布団から顔を出し、最初にそれを尋ねた。達也は水筒へ白湯を入れ、保険証とお薬手帳を鞄へしまった。綾乃から送られてきた受診先の住所も確認した。


「綾乃は明日の会議の準備をしている。俺が連れていくよ」


「仕事より家族の方が大事でしょう」


「だから、息子の俺が来たんだろ」


診察の結果、敏恵は感染症ではなく、疲労によって体調を崩した可能性が高いと言われた。薬を受け取り、翌日も熱が下がらなければ再受診することになった。達也は帰宅後、敏恵の枕元へ水、体温計、薬を並べた。


翌朝の朝食は、定期配送で届いた雑炊だった。茂は自分で温め、敏恵の分を寝室へ運んだ。家事支援については地域包括支援センターへ相談し、その日に利用できる民間の家事代行へ、洗濯と台所の片づけを依頼した。


綾乃は会議を終えた昼休みに電話をかけた。敏恵の熱は三十七度台まで下がり、雑炊も半分食べられたという。必要なことが済んだと知り、綾乃は冷めた紅茶を飲みながら、昨夜食べ損ねた菜の花のサンドイッチを口へ運んだ。


夕方、達也がもう一度義実家を訪れると、敏恵は寝間着のまま起きていた。窓辺には家事代行が干した白いタオルが並び、台所の流しもきれいになっている。それでも敏恵は、雑炊の空容器を指で押しながら口を尖らせた。


「こういうときくらい、綾乃さん本人が来て、おかゆを作るのが普通でしょう」


「雑炊は食べられたんだろ?」


「食べられるかどうかの問題ではないわ。心のこもった物が欲しかったのよ」


「俺が病院へ連れていった。父さんには食事が届いた。家事も終わっている。綾乃は何度も電話で状態を確認した。それでも、綾乃じゃなければ駄目な理由は何?」


敏恵は唇を動かしたが、言葉は出なかった。自分のために息子が仕事を切り上げても、専門家が来ても、夫が雑炊を運んでも足りないという。その不足を埋めるものとして、嫁が仕事を捨てて駆けつける姿を求めていた。


「母さんが欲しかったのは、おかゆじゃない。綾乃が自分の仕事より母さんを優先したという証拠だろ」


「私は、家族なら当然だと思っただけよ」


「綾乃も家族だ。でも、母さんのために自分の生活を捨てる人じゃない」


達也は、空になった水差しへ新しい水を入れた。敏恵は毛布の端を指でつまみ、何度も折っては戻した。窓の外では雨が上がり、水仙の花から大きな雫が一つ落ちた。


温かい手料理は、命令して作らせるものではなかった。ちらし寿司のように、作りたい日に作り、食べたい人が同じ食卓へ集まるから温かい。敏恵は空になった雑炊の容器を見つめ、もう「冷たい嫁」とは言わなかった。


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