第7話 家族にしかできないこと
第7話 家族にしかできないこと
三月最初の日曜日、綾乃は宅配便で届いた大きな段ボール箱を玄関で開けた。中から出てきたのは、青と黄緑のバランスボールだった。空気を入れると想像以上に大きくなり、二つ並べただけで廊下がふさがった。
「綾乃、これ、どこに置くつもりだ?」
「居間よ。お義父さんの運動に使えると思って」
「二つも必要か?」
「一つでは、みんなで遊べないでしょう」
達也が青いボールを押すと、壁へ当たって戻ってきた。避けた先には黄緑のボールがあり、達也は二つに挟まれて動けなくなった。綾乃は助ける前に笑い、スマートフォンで写真を一枚撮った。
その日は、茂と敏恵を初めて新居の食事へ招待することになっていた。綾乃は薄桃色のニットに白いエプロンを重ね、朝からちらし寿司を作った。酢飯へ煮た椎茸、ニンジン、レンコンを混ぜると、甘酸っぱい匂いが台所いっぱいに広がった。
錦糸卵は、最初の一枚だけ厚くなった。綾乃が細く切ろうとすると、卵焼きのような黄色い棒になったため、達也が横から一本つまんだ。残りは細く焼けたが、太い錦糸卵も捨てず、二人の皿へ多めに載せることにした。
「菜の花は、ゆですぎないでね」
「分かってる。去年も同じことを言われた」
「去年は、菜の花を緑色のひもにしたでしょう」
「食べられたんだから、いいじゃないか」
庭では白いクリスマスローズがうつむいて咲き、鉢植えの沈丁花が小さな蕾を膨らませていた。綾乃は桃の枝を細い花瓶へ生け、食卓の中央に置いた。食器はそろいの物ではなく、結婚前から二人が使っていた青い皿や、佐和子にもらった桜模様の小鉢を並べた。
昼前になると、玄関の呼び鈴が鳴った。達也が扉を開けると、茂は紺色のジャケットに茶色い帽子をかぶり、片手に杖を持って立っていた。敏恵は薄紫色のカーディガンを着て、手土産の苺が入った紙袋を抱えている。
「いらっしゃい。段差があるから、ゆっくり入って」
「五分しか歩いていないのに、大げさだ」
「お父さん、帽子を取って。お店に来たんじゃないのよ」
敏恵は玄関へ上がった途端、廊下に並ぶ二つのバランスボールを見つけた。黄緑のボールがわずかに動き、敏恵のスカートへ触れる。敏恵は紙袋を胸元へ引き上げ、眉を寄せた。
「こんな大きな物を二つも買ったの? 邪魔でしょう」
「今日は、これで遊ぼうと思って」
「お父さんを乗せるつもり? 転んだらどうするのよ」
「いきなり座らせないわ。作業療法士さんに教えてもらった方法で、椅子に座ったまま使います」
居間へ入ると、茂は物珍しそうに部屋を見回した。窓際には綾乃の仕事机があり、読みかけの資料と赤いマグカップが置かれている。ソファの背には乾ききらなかった洗濯物が二枚掛けられ、部屋の隅には掃除機が出したままになっていた。
「新しい家なのに、ずいぶん物が出ているな」
「朝から料理をしていたからよ。見学用の家ではなく、私たちが暮らしている家ですもの」
「この掃除機は、しまわないのか?」
「お義父さんが帰ってからしまいます」
綾乃が答えると、敏恵は何か言いかけて口を閉じた。この家では、掃除機をどこへ置くかも、洗濯物をいつ畳むかも、綾乃と達也が決める。敏恵は合鍵を持っていないため、二人の留守中に片づけ直すこともできなかった。
昼食のちらし寿司には、海老、イクラ、錦糸卵、菜の花を彩りよく載せた。蛤の代わりに手頃なアサリで澄まし汁を作り、敏恵が持ってきた苺も洗って小鉢へ盛った。茂はちらし寿司を一口食べ、レンコンを箸で持ち上げた。
「レンコンは、もう少し厚い方が歯応えがある」
「お父さんは、歯応えがあると残すでしょう」
「残してはいない。あとで食べようと思って、端へ置いているだけだ」
「それを残すと言うのよ」
達也が吹き出し、綾乃も笑った。敏恵まで口元を押さえたため、茂は不服そうにレンコンを食べた。酢飯が少し冷める頃には、器の柄が見えるほど四人の皿が空いていた。
食後、綾乃は椅子を向かい合わせに置いた。茂と達也が座り、その間へ青いバランスボールを挟む。転倒しないよう、茂には深く腰掛けてもらい、杖もすぐ手が届く場所へ置いた。
「まず、手で押すだけです。お義父さん、達也へ転がしてください」
「子どもの遊びじゃないか」
「では、落とした人が苺を一つ減らされることにしましょう」
「食べ物を賭けるのは感心せんな」
そう言いながら、茂は両手でボールを押した。青い球は床を転がり、達也の膝へ当たる。達也が少し強く押し返すと、茂は両足で床を踏ん張り、笑いながら受け止めた。
「おい、強すぎるぞ」
「親父が弱く押すからだよ」
「次は本気でいくからな」
敏恵は黄緑のボールを抱えたまま、二人の様子を見ていた。綾乃が隣の椅子を指すと、「私は運動なんて必要ないわ」と断った。しかし青いボールが横へそれて足元まで転がってくると、反射的に両手で押し返した。
「お義母さん、上手です」
「たまたまよ。そっちへ行ったから返しただけ」
「では、もう一度お願いします」
今度は綾乃と敏恵が向かい合った。黄緑のボールを押し合ううちに、敏恵の力が少しずつ強くなる。綾乃が受け損ねると、ボールは台所へ転がり、食器棚の前で止まった。
「綾乃さん、ちゃんと見ていないからよ」
「もう一回です。今度は負けません」
「勝ち負けではないでしょう」
四人で二つのボールを転がすと、青と黄緑が何度もぶつかった。達也が受け損ねたボールは桃の枝が入った花瓶へ向かい、綾乃が慌てて抱き止める。茂は笑いすぎて咳き込み、敏恵は背中をさすりながら、自分も肩を揺らしていた。
しばらく遊んだあと、茂は作業療法士から教わった立ち上がり運動を三回行った。達也が数を数え、綾乃は椅子が動かないよう背を支える。敏恵は余った苺を皿へ並べ直し、最も大きな一粒を茂へ渡した。
「訪問看護の人に、今日のことを話してもいいか?」
茂が尋ねると、綾乃はうなずいた。以前の茂なら、専門職へ自分の暮らしを話すことさえ嫌がっただろう。今は、作業療法士に教わった運動を家族と一緒にできたことを、自分から報告しようとしていた。
「野中さんも喜ぶと思います。でも、無理に回数を増やしたとは言わないでくださいね」
「遊んでいただけだから、運動には数えなくていいだろう」
「お父さん、さっきから足をずいぶん使っていたわよ」
夕方、敏恵は空になった苺の紙袋を畳み、鞄へ入れた。帰り際、玄関に並んだ二つのバランスボールを振り返る。来たときには邪魔だと言ったのに、黄緑の方を指で軽く押した。
「次は、うちへ一つ持ってきてもいいわよ」
「置く場所を、野中さんに確認してからにしましょう。転ぶ原因になったら困るから」
「遊ぶ日だけ運べばいいじゃない。徒歩五分なんでしょう?」
達也が青いボールを抱え、綾乃が黄緑のボールを押さえた。二つとも玄関を通りそうになく、空気を少し抜かなければ外へ出せない。茂は杖をついたまま笑い、敏恵は「だから大きすぎると言ったのよ」と靴を履いた。
訪問看護師には、体調や薬を確認してもらえる。作業療法士には、安全な運動や暮らし方を教えてもらえる。けれど、ちらし寿司を囲み、転がったボールを追いかけ、誰が苺を多く食べたかで笑うことは、家族にしかできなかった。
同じ屋根の下で暮らさなくても、その時間は作れる。五分の道を歩いて訪ね、日が暮れる前に自分の家へ帰る。玄関の扉を自分たちで開け、自分たちで閉められるからこそ、四人は次も会いたいと思えた。




