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第5話 家族だけで抱え込まないために

第5話 家族だけで抱え込まないために


十一月最初の月曜日、綾乃と達也は地域包括支援センターを訪れた。区民施設の入口には赤紫色の小菊が植えられ、朝の雨を受けた花びらが歩道へ何枚も落ちていた。綾乃は白いブラウスに黒いパンツ、達也は有給休暇を取ったため、紺色のパーカーに履き慣れた運動靴を合わせていた。


相談室には丸いテーブルと四脚の椅子があり、壁には介護予防教室や配食サービスの案内が貼られていた。棚の上では小さな加湿器が白い蒸気を吐き、かすかに柚子の香りがする。社会福祉士の大森は、茂が転倒した場所や現在の歩行状態を確認しながら、相談票へ書き込んだ。


「父は七十二歳です。郵便局の前で転倒しました。骨折はありませんでしたが、今は杖を使っています」


「日常生活で、ほかに気になることはありますか?」


「薬を飲んだか分からなくなったり、通院日を間違えたりすることがあります。ただ、本人は何も困っていないと言っています」


達也はパーカーの袖口を何度も引っ張った。親の失敗を他人へ話すことが、告げ口のように感じられるらしい。綾乃は代わって説明しそうになったが、ここで自分がすべて引き受ければ、義実家で起きたことと同じになると思い、膝の上で手を組んだ。


「私たちは義父母の家から徒歩五分の場所へ引っ越しました。同居はしていません。今のうちに、どんな準備ができるか教えていただきたいんです」


「地域包括支援センターは、介護が始まってから来る場所だと思っていました」


「要介護認定を受けていない方でも相談できます。ご本人が現在の生活を長く続けるために、何が必要かを一緒に考える場所でもあります」


大森は、自治体の見守り事業、緊急通報装置、配食、介護予防教室について説明した。転倒が続いたり、日常生活に支障が出たりした場合は、要介護認定の申請も検討できる。ただし、茂の同意なしに機器を設置したり、サービスを契約したりすることはできなかった。


「父は、他人の世話になるくらいなら、嫁に頼むと言っています」


達也が言うと、大森はペンを置いた。相談室の外から、電気ポットの湯が沸く音が聞こえる。綾乃は自分の名前が出ても口を挟まず、達也が続きを話すのを待った。


「でも、妻は仕事をしています。俺も会社を辞めることはできません。姉にも家庭があります。家族だけで全部やるのは無理だと思っています」


「無理だと分かっている今だから、相談できるんです。倒れてから慌てて探すより、ご本人が選べるうちに情報を集める方がいいでしょう」


「サービスを利用することは、親を見捨てることにはなりませんか?」


「ご家族にしかできない時間を残すために、専門職へ任せるんです。掃除や入浴介助で疲れ切ってしまえば、一緒にお茶を飲んだり、昔の話を聞いたりする余裕までなくなります」


綾乃は、その言葉をノートへ書いた。介護は家族の愛情を証明する試験ではない。けれど敏恵や茂へそのまま伝えても、他人の理屈として払いのけられるだろうと思った。


相談を終えた二人は、駅前のそば屋へ入った。昼を過ぎていたため店内は空き、窓際の席へ薄い日差しが落ちている。達也は天ぷらそば、綾乃は山菜そばを頼んだが、話に夢中になっているうちに麺が少し伸びた。


「親父は、介護予防教室なんて年寄りが行く所だと言うだろうな」


「七十二歳は、教室では若い方かもしれないわよ。体操へ行くと言わず、転ばないための訓練を見学すると言えばどう?」


「言い方を変えても、同じものだろ」


「同じものでも、受け取る言葉で入口は変わるわ」


綾乃は七味唐辛子を振ろうとして、蓋が外れかけていることに気づいた。危うく中身を全部入れるところだったため、二人で蓋を押さえて笑った。達也は伸びたそばをすすったあと、地域包括支援センターでもらった封筒を鞄へしまった。


「訪問看護をしている知り合いにも、一般的なことだけ聞いてみるわ。利用できる制度は、介護保険だけとは限らないから」


「知り合いだからって、親父の家へ来てもらえるのか?」


「それはできないと思う。正式な利用には手続きが必要でしょう。でも、何を医師へ相談すればいいかは教えてもらえるかもしれない」


その日の夕方、綾乃は大学時代の知り合いで、現在は訪問看護師をしている奈津子へ連絡した。夕食には鮭としめじの炊き込みご飯を作り、食べきれなかった分を保存容器へ移しているところだった。炊飯器の蓋を開けると、鮭と醤油の匂いが台所へ広がった。


「久しぶり。お義父さんが転倒したんだって?」


「ええ。薬を飲んだか分からなくなることもあるみたい。訪問看護で、服薬確認をお願いできるのか知りたいの」


「知り合いだから私が勝手に訪問する、というわけにはいかないの。訪問看護には医師の指示が必要だし、介護保険か医療保険かによっても手続きが違うわ」


「では、まず何をすればいい?」


「かかりつけ医に、転倒したことと服薬の失敗を伝えることね。筋力低下なら介護予防やリハビリが合う場合もあるし、薬の管理だけなら、お薬カレンダーや一包化で改善することもあるわ」


横で聞いていた達也は、冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップへ注ぐ途中で少しこぼし、流し台に掛けてあった布巾で拭く。以前なら綾乃が尋ねなければ親の状態を知らないままだったが、今日は自分から電話へ近づいた。


「息子の達也です。父は、他人を家へ入れるのを嫌がるんですが、どう説明すればいいでしょうか」


「最初から介護してもらうと言うと、抵抗する方は多いですよ。杖の使い方を確認してもらう、家の中の転びやすい場所を見てもらうという、具体的な目的から話すと受け入れやすいです」


「母も、家族がやればいいと言うと思います」


「家族ができることと、続けられることは別です。お母様ご自身への支援も考えてください。ご主人の介護が必要になってからではなく、もし先に亡くなったら生活がどうなるのかも、元気なうちに確認しておくと安心ですよ」


達也は眉を寄せた。茂が亡くなったあとの話を、元気な本人の前ですることには抵抗があった。しかし、敏恵が茂の年金額や銀行口座をどこまで知っているのか、達也にも分からなかった。


「遺族年金のことですか?」


「そうです。ただし、どの年金を受け取れるかや金額は、亡くなった方の加入記録、配偶者の年金、年齢などで変わります。年金事務所で個別に確認してください。通知書や年金証書をそろえて、何を持参すればいいか先に問い合わせるといいですよ」


「父は元公務員です。それでも年金事務所で分かりますか?」


「加入歴によって確認が必要ですから、自己判断で金額を決めないことです。年金だけでなく、預金口座、保険、公共料金、家の名義、緊急連絡先も、お母様が分かるようにしておいた方がいいですよ」


通話を終えたあと、綾乃は新しいノートを一冊出した。表紙には、秋の新商品として買った赤い紅葉の絵が描かれている。最初のページへ「義父母の暮らしの準備」と書き、介護予防、服薬、通院、見守り、その下へ遺族年金と銀行口座を加えた。


「介護の話をしているのに、亡くなったあとの話までするのか」


達也は炊き込みご飯を茶碗へよそい、焦げた部分を自分の方へ入れた。綾乃は大根と油揚げの味噌汁を温め直しながら、鍋の中へ残った大根をお玉でかき混ぜた。


「お義母さんを助けるためよ。お義父さんに何かあったとき、お金がどこから入るのか分からなければ、家賃も光熱費も払えなくなるかもしれない」


「でも、母さんは縁起でもないって怒るぞ」


「怒るでしょうね。それでも、元公務員だったお義父さんの年金が、そのまま全額お義母さんへ移るわけではないわ。お義母さん自身の年金との関係もあるから、私たちが勝手に計算せず、専門の窓口で確認した方がいい」


「俺、親父の年金額も母さんの年金額も知らない」


「私も知らない。だから、まず二人に聞くの。私たちが管理するのではなく、お義母さん自身が分かるように、一緒に調べようと伝えましょう」


翌日曜日、二人は義実家を訪れた。庭の秋明菊は花を終え、代わりに赤い実をつけた南天が目立っている。敏恵は薄茶色のセーターを着て、こたつ布団のほつれた縁を白い糸で縫っていた。


茂は格子柄のシャツに茶色いベストを重ね、新聞のテレビ欄へ赤鉛筆で丸をつけている。テーブルには、敏恵が焼いたサツマイモが新聞紙に包まれていた。皮の焦げた匂いが居間へ広がり、湯飲みの中では緑茶の葉が一枚浮いていた。


「地域包括支援センターへ行ってきた。親父が今の家で暮らし続けるために、何が使えるか聞いてきたよ」


「まだ介護なんか必要ないぞ」


「介護を申し込んだわけじゃない。転ばないための体操や、見守りの方法を教えてもらったんだ」


達也は、見守りセンサー、緊急通報装置、配食、介護予防教室の資料を一枚ずつ見せた。茂は「年寄り扱いするな」と言いながらも、転倒予防教室の写真へ目を止めた。男性参加者が少ないことを確認し、「囲碁くらい置いてあるのか」と小さく尋ねた。


「それから、お母さんのことも一緒に調べたいと思っているの」


綾乃が言うと、敏恵はこたつ布団を縫う手を止めた。針先から白い糸が長く垂れ、畳の上へ触れている。綾乃は、敏恵の顔を見ながら言葉を選んだ。


「もし、お義父さんに何かあったとき、お義母さんが受け取れる遺族年金や、手続きに必要な書類を確認しておきませんか」


「お父さんが死ぬ話をしに来たの?」


「違います。お義母さんが困らないための話です」


「私は、お父さんより先に死ぬかもしれないでしょう」


「その場合も同じです。お義父さんが一人で暮らせるように、お義母さんの年金や家のことを確認しておく必要があります」


茂は赤鉛筆を新聞の上へ置いた。敏恵は針を持ったまま、こたつ布団の同じ場所へ二度刺しかけた。達也は母の手から針を受け取り、裁縫箱の針山へ戻した。


「父さんの年金が、そのまま全部母さんに入るわけじゃないんだろ。母さん自身の年金との関係もあるらしい。俺たちでは正確に計算できないから、一緒に年金事務所へ確認に行こう」


「そんなことまで綾乃さんに知られたくないわ」


「私に金額を教える必要はありません。お義母さん自身が知って、必要な書類の場所を決めてください。達也が同行します」


「綾乃は来ないのか?」


茂が尋ねると、綾乃は首を振った。自分の役割を増やせば、敏恵はまた綾乃が家計を支配したと言うだろう。夫婦の情報を息子へどこまで伝えるかは、義両親が決めることだった。


「私は、質問事項をまとめます。年金事務所へ行くのは、ご本人たちと達也です」


敏恵は、新聞紙の上のサツマイモを一本取り、半分に割った。鮮やかな黄色い中身から湯気が上がり、甘い匂いがこたつの周りへ広がる。敏恵は大きい方を茂へ、小さい方を自分の皿へ置いた。


「年金の通知は、仏壇の下の引き出しに入れてあると思うわ」


「通帳や保険の証書は?」


「通帳は私が持っているけれど、保険はお父さんに任せているから分からない」


「俺が全部預かる必要はないよ。二人が分かるように、一覧を作ろう。置き場所だけ俺にも知らせてくれれば、緊急時に探せる」


達也が答えると、茂は新聞を畳み、仏壇の下を見た。敏恵も裁縫箱の蓋を閉め、今度は針が一本足りないと言って畳の上を探し始めた。四人でこたつ布団をめくると、針は茂の座布団の脇に落ちていた。


亡くなったあとの話をしても、その日の暮らしが終わるわけではなかった。針を拾い、サツマイモを食べ、冷めた緑茶へ湯を足す。綾乃は、家族を支える準備とは、誰かの死を待つことではなく、残された人が明日の朝も自分で湯を沸かせるようにしておくことだと思った。


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