第4話 通院も安否確認もするけれど
第4話 通院も安否確認もするけれど
引っ越しから二週間後、敏恵は町内会の花壇で黄色いマリーゴールドの枯れた花を摘んでいた。えんじ色のカーディガンに灰色のスカートを合わせ、つばの広い帽子をかぶっている。土曜日の朝から花壇に集まった近所の女性たちは、軍手を動かしながら、敏恵の話へ耳を傾けていた。
「長男夫婦に逃げられたようなものよ。あんなに立派な二世帯住宅を建てようとしたのに、綾乃さんが嫌がったの」
「でも、達也君たちの新しい家、すぐそこなんでしょう?」
「綾乃さんの実家が持っている家ですって。家賃は払っていると言うけれど、金額なんて身内でどうにでもできるじゃない。実家の財力を使って、達也を囲い込んだのよ」
敏恵は枯れた花を摘む指へ力を入れた。茎が途中から折れ、まだ咲いていた花まで土の上へ落ちる。隣で作業をしていた小林夫人は、その花を拾い、花壇の端へそっと挿し直した。
「逃げたと言っても、歩いて五分なら近いじゃない。うちの息子なんて電車で一時間よ。電話をしても、三回に一回しか出ないわ」
「距離の問題ではないの。長男夫婦が親と一緒に住もうと思わない、その気持ちが薄情だと言っているのよ」
敏恵はそう言ったが、女性たちは顔を見合わせただけだった。以前なら「今どきのお嫁さんは」と同意してくれた人も、綾乃の新居が義実家から見えるほど近いと知ってからは反応が鈍い。敏恵は枯れた花を入れた袋を強く振り、次の花壇へ移った。
その頃、綾乃と達也は、新居のダイニングテーブルで茂の生活に必要な支援を書き出していた。朝食に焼いたチーズトーストの匂いが残り、皿の上には達也が食べなかった焦げた耳が二本並んでいる。窓辺に置いた白い秋海棠は小さな花をつけ、開けた窓から入る風に揺れていた。
「お義父さん、来週の整形外科を覚えているかしら」
「昨日電話したら、木曜日だと言ってた。でも予約票には火曜日って書いてある」
「この前は血圧の薬を二回飲みかけたと言っていたわね」
「一回分をテーブルに出したあと、飲んだかどうか分からなくなったらしい。母さんも、おかずを作っていて見ていなかったって」
達也は焦げたパンの耳を一本取り、チーズのついていない部分だけをかじった。以前なら「母さんが見ればいい」と言って終わらせていたが、敏恵も六十八歳で、茂の予定と服薬をすべて管理できるとは限らない。綾乃はノートパソコンを開き、高齢者向けの見守りサービスを検索した。
人感センサー、開閉センサー、緊急通報装置など、いくつもの種類が表示された。室内カメラなら映像を確認できるが、茂が受け入れるとは思えない。綾乃は、居間とトイレの利用状況だけが分かり、一定時間動きがない場合に通知される機器を選んだ。
「カメラはやめましょう。お義父さんが監視されていると感じるから」
「でも、人感センサーだけで転んだかどうか分かるのか?」
「転倒そのものは分からないわ。ただ、朝になっても居間で動きがない、長時間トイレから出ていないという異変には気づける」
「通知は俺のスマートフォンに来るようにする」
「私にも共有して。ただし、最初に確認する担当は達也ね」
達也は少しだけ眉を上げたが、「分かった」と答えた。綾乃は月額料金と設置費用を書き出し、義両親へ説明するための紙を作った。支援を手配することと、その費用を綾乃たちが負担することは別だった。
その日の午後、二人は義実家を訪れた。庭の秋明菊はほとんど花を落とし、代わりに赤い実をつけた南天が目立っている。茂は茶色いベストの下に格子柄のシャツを着て、居間で新聞のテレビ欄へ赤い丸をつけていた。
「見守りセンサーだと? そんなものを置いたら、家の中で何をしているか全部分かるじゃないか」
「映像も音声も記録されません。居間を通った、トイレの扉が開いたという情報だけです」
「それが監視だと言っているんだ」
「では、毎朝九時までに、お義父さんから達也へ電話をかけますか?」
茂は新聞から顔を上げた。毎朝決まった時間に電話するのは、センサーを置かれるより面倒らしい。けれど、すぐに受け入れれば負けたように感じるのか、赤鉛筆でテレビ欄の同じ番組を何度も囲んだ。
「電話を忘れたら、どうする」
「達也が訪ねます。ただし、仕事中に毎回抜けるのは難しいから、センサーの方がお互いに負担が少ないと思います」
「お父さん、つけてもらいましょうよ。トイレの中まで見えるわけではないんでしょう?」
敏恵は、仏壇へ供えていたどら焼きを四つに切り、皿へ載せた。皮の端が少し乾き、包丁を入れたところから餡がはみ出している。茂はどら焼きを一つ取り、餡を指につけたまま申込書を眺めた。
「金は誰が払うんだ」
「お義父さんたちです。初期費用と月額料金はここに書いてあります。私たちは設置と通知の確認を手伝います」
「親のためなのに、お前たちは金も出さんのか」
「自分たちの生活を安全にする費用です。私たちが勝手に設置するものではないので、必要ないと思うなら申し込みません」
茂は綾乃の顔を見たが、綾乃は申込書を引き寄せなかった。結局、茂はどら焼きの餡がついた指を布巾で拭き、自分で申込書へ名前を書いた。
翌週、達也は有給休暇を取り、センサーを取りつけた。居間の壁へ人感センサーを固定し、トイレの扉には開閉を確認する小さな機器を貼る。脚立へ乗った達也のズボンには白い埃がつき、床にはドライバーと説明書が散らばっていた。
「もう少し右じゃないの? そこだと神棚へ手を合わせても反応しないでしょう」
「母さん、居間で動けば反応するんだから、神棚だけを見張る必要はないよ」
「私は朝一番に神棚へお水を供えるの。そこが一日の始まりなのよ」
「じゃあ、神棚へ行く途中で反応するから大丈夫だ」
敏恵は納得しない顔で、センサーの下を三往復した。達也のスマートフォンには、そのたびに動きを検知した記録が表示される。茂は「機械に試されているようで気に入らん」と言いながら、自分も杖をついて二度ほど前を通った。
食料品の定期配送も申し込んだ。米、牛乳、飲料水、トイレットペーパーなど、持ち運びが難しい物を中心に登録する。敏恵は老眼鏡をかけ、タブレットの画面へ顔を近づけた。
「この卵は十個入りしかないの? うちは六個入りで十分なのよ」
「検索欄に『卵、六個』と入れれば出るよ」
「文字が小さくて見えないわ」
「ここを押せば大きくなる。毎週同じ物を頼むなら、履歴から選べるよ」
「あなたが電話で注文してくれた方が早いでしょう」
「最初は一緒にやる。でも、母さんができることまで俺が引き取ったら、母さん自身が困るようになるよ」
達也は声を荒らげず、敏恵の指を画面の注文ボタンまで導いた。配送料と商品代は、義両親の口座から引き落とされる。翌週、玄関へ米と水が届くと、敏恵は配達員へ「息子が勝手に決めて」と言いながら、五キロの米袋を両腕で大切そうに抱えた。
茂の整形外科へは、達也が有給休暇を使って同行した。待合室には消毒液の匂いが漂い、壁際の花瓶には橙色の小菊が生けられている。茂は紺色のジャケットを着てきたが、診察券を自宅へ忘れ、受付で達也に文句を言った。
「お前が持ってくると思ったんだ」
「俺は、親父の保護者じゃないよ。次からは玄関のかごへ入れておこう」
「息子が父親に向かって、保護者とは何だ」
「診察券を管理するのは親父。忘れない仕組みを一緒に考えるのは俺。それでいいだろ」
診察では、骨に異常はなく、膝の痛みも軽くなっていると告げられた。ただし筋力が落ちているため、運動を続けるよう勧められた。達也は医師の説明を手帳へ書き、次回の予約票を義実家の冷蔵庫へ貼った。
月末には、綾乃が一度だけ通院へ同行した。達也が出張で休めず、茂の内科受診と綾乃の在宅勤務日が重なったためだった。綾乃は午前の会議を終えてから白いブラウスへ紺色のジャケットを羽織り、昼休みを延長する申請を出して義実家へ迎えに行った。
「やっぱり綾乃さんでも行けるじゃない。これから内科はお願いしようかしら」
「今日は達也が出張中で、私の仕事を調整できたからです。次回からの担当が私に変わったわけではありません」
「一度できるなら、二度でも同じでしょう」
「一度できたことを毎回求められるなら、次からはできても引き受けられません」
敏恵は口を尖らせたが、綾乃は茂の診察券が玄関のかごに入っていることを確認し、そのまま病院へ向かった。帰宅後は延ばした昼休みの分だけ勤務時間を後ろへずらし、午後七時までパソコンに向かった。夕食は達也が出張先から注文した海鮮弁当で、冷めた焼き鮭の下に敷かれた青じその匂いが、開封したばかりの居間へ広がった。
支援を始めて一か月が過ぎると、茂が通院日を忘れることはなくなった。米や水を買いに行く必要もなくなり、敏恵は空いた買い物かごへ毛糸を入れ、冬に向けて茂の膝掛けを編み始めた。それでも近所の人には、息子夫婦への不満を話し続けた。
ある土曜日、敏恵は玄関先で小林夫人と立ち話をしていた。濃い紫色のセーターを着て、編みかけの膝掛けを腕に抱えている。庭では白い山茶花が咲き始め、掃き集めた花びらから青い匂いがした。
「息子さん、毎週のように来てくれているんですってね。お米も届けてもらえて、病院にも付き添ってくれるなんて安心じゃない」
「達也が自分からしているわけじゃないのよ。綾乃さんに言われて、やらされているだけ。あの人は機械を置いて見張るだけで、自分では何もしないんだから」
「でも、見守りの機械も、お嫁さんが調べてくれたのでしょう?」
「口を出すのは得意なのよ。家族なら、もっと心のこもったことをするものだわ」
そのとき、門の外で自転車のブレーキが鳴った。茂を散歩へ連れ出すために来た達也が、買ったばかりの黒いヘルメットを脱いで立っている。前かごには、小さな紙袋と二本の温かい缶入りのお茶が入っていた。
「母さん。俺が自分の親のためにやっているんだ。綾乃にやらされているんじゃない」
敏恵は編みかけの毛糸を握ったまま、口を開いた。小林夫人は山茶花の花びらを一枚拾い、気まずそうに指先で回している。達也は視線をそらさず、もう一度言った。
「センサーをつけたのも、配達を申し込んだのも、病院へ行ったのも、俺が必要だと思ったからだ。綾乃が何もしていないと言うなら、俺がしていることまで嘘になる」
「私は、そんなつもりで言ったんじゃないのよ」
「それなら、綾乃が俺を操っているような言い方はやめてくれ。俺は三十二歳だ。自分で考えて、自分で決めている」
達也は前かごから紙袋を取り出した。中には茂が好きな豆大福が三つ入っていたが、綾乃の分はなかった。今日は夫婦で親孝行をする日ではなく、息子が自分の父親と過ごす日だった。
「親父、散歩に行くぞ。公園の銀杏が色づいてきたらしい」
家の中から茂が杖をついて現れた。敏恵は何か言おうとしたが、達也は父の靴ひもが緩んでいるのを見つけ、玄関先へしゃがんだ。見守りも通院も続けるけれど、それを嫁の仕事にはしないという境界線が、徒歩五分の道の上へようやく一本引かれた。




