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第3話 徒歩五分の鉄壁ブロック

第3話 徒歩五分の鉄壁ブロック


話し合いから三日後の水曜日、達也のスマートフォンに敏恵から何度も着信が入った。達也が仕事中で出られずにいると、今度は「今夜、住宅会社の人が来ます」「印鑑を持ってきてください」とメッセージが届いた。昼休みに社員食堂で冷めかけたカレーを食べていた達也は、スプーンを止めた。


「印鑑って、何に使うんだよ」


達也が電話をかけると、敏恵は上機嫌で答えた。前日の電話では、茂が転倒してから夜も眠れないと訴えていたが、今日は声に張りがあった。背後では掃除機の音がしており、来客に備えて朝から居間を片づけているらしい。


「ハウスメーカーの営業さんが、仮審査の書類を持ってきてくださるの。早く申し込まないと、今月のキャンペーンに間に合わないんですって」


「綾乃が断っただろ」


「今は驚いて意地を張っているだけよ。家の完成予想図を見れば、きっと気が変わるわ。女性は新しい台所を見ると欲しくなるものだから」


敏恵は、食器洗い乾燥機と大きな食品庫がついた台所を選んだと楽しそうに話した。綾乃の好みを聞いたこともないのに、扉の色まで白木調に決めているという。達也がカレーの皿へ目を落とすと、福神漬けの赤い汁がご飯へ染み込み、境目が分からなくなっていた。


「今日は行かない。営業の人にも帰ってもらってくれ」


「どうして? 話を聞くだけでしょう」


「印鑑を持ってこいと言っておいて、話を聞くだけはないだろ」


達也はそう答えたものの、電話を切ったあとも胸の奥に小さな棘が残った。母へ反対したのは初めてだったが、綾乃を守ろうとして言ったのか、七千万円の数字が怖くなっただけなのか、自分でも分からなかった。午後の会議が始まってからも、パソコンの画面に表示された売上表の数字が、二世帯住宅の見積書に見えた。


その夜、綾乃は紺色の部屋着に着替え、ダイニングテーブルへ二枚の書類を並べた。帰宅途中で買った秋鮭を焼いたが、達也が母との電話について話しているうちに皮が焦げた。大根おろしには醤油をかけすぎ、味噌汁の中では油揚げがふやけていた。


「お母さん、営業の人を断ったかな」


「断っていなければ、営業担当者から達也に連絡が来るでしょう」


「綾乃は平気なんだな。俺は、母さんに逆らうと悪いことをしているみたいな気分になる」


「悪いことをしたかどうかは、相手が怒ったかどうかでは決まらないわ」


綾乃は一枚目の書類を達也の前へ滑らせた。そこには駅から徒歩八分、二階建て三LDK、駐車場一台分という物件情報が載っていた。庭の写真には、背の低い金木犀と、赤紫色の千日紅が写っている。


「この家、覚えている?」


「佐和子さんの会社が管理している家だろ。前に入居していた人が転勤したとか言っていた」


「先月末に退去して、清掃も終わっている。ここから駅へ向かう途中に、お義父さんたちの家がある。徒歩五分よ」


達也は鮭の骨を皿の端へ寄せながら、間取り図を見た。一階には十二畳のリビングと台所、二階には三つの洋室がある。一室を綾乃の仕事部屋にしても、寝室と空き部屋が一つずつ残った。


「まさか、ここへ引っ越すのか?」


「そのつもりで、母に空室の確認をしたわ。もちろん無償では借りない。相場から管理手数料分を引いた家賃を、二人で払う」


「でも、急すぎないか」


「今のマンションは更新まで三か月あるけれど、解約予告は一か月前。新しい家の家賃と重なる期間は一か月だけよ。二世帯住宅の仮審査を勝手に進められるより、損失は小さい」


綾乃は二枚目の書類を出した。賃貸借契約書のひな型だった。貸主は佐和子が経営する会社、借主は達也と綾乃の連名で、家賃、敷金、修繕の負担、契約期間まで細かく記されている。


「達也が嫌なら、一人で決めるつもりはない。ただし、私は義実家には入らない。ここを借りないなら、別の物件を探すわ」


達也は味噌汁を飲み、顔をしかめた。少し冷めているうえに、煮干しの頭が一つ入っていた。綾乃はいつも取り除くのに、今日は考え事をしながら鍋へ入れたらしい。


「徒歩五分なら、親父に何かあったときも行けるんだよな」


「必要なら行く。でも、毎日夕飯を作りに通うための五分ではないわ」


「分かってる。契約書、読ませてくれ」


翌週の土曜日、朝から細い雨が降った。綾乃は動きやすいベージュのチノパンに深緑色のパーカーを着て、髪を後ろで一つに結んでいた。達也は古いジーンズと会社の運動会でもらった白いTシャツを着ていたが、段ボール箱を二つ運んだだけで背中に汗染みを作った。


新居の庭では、雨に濡れた金木犀が甘い香りを放っていた。花はまだ満開ではなく、小さな橙色の粒が葉の間から見えている。玄関脇には前の入居者が置いていった青い陶器の傘立てがあり、底に乾いた落ち葉が何枚もたまっていた。


「これ、捨てるのか?」


「洗えば使えるわ。今日は傘も多いから、ちょうどいいでしょう」


「綾乃にも、捨てないものがあるんだな」


「私を何だと思っていたの?」


二人が話していると、引っ越し業者のトラックが路地へ入ってきた。作業員が冷蔵庫を下ろし、達也が門扉を押さえる。そのとき、買い物袋を提げた敏恵が角を曲がってきた。


敏恵は小豆色のレインコートを着ていた。透明な傘の向こうで目を見開き、トラック、新居、達也の顔を順番に見た。買い物袋からは長ねぎが飛び出し、雨粒を受けて揺れていた。


「達也、これは何なの?」


「見れば分かるだろ。引っ越しだよ」


「引っ越しって、誰の?」


「俺たちのだよ。今日からここに住む」


敏恵は買い物袋を地面へ置き、新居の門柱へ手をついた。袋の中で卵のパックが傾き、長ねぎが一本、濡れた道路へ滑り落ちた。達也が拾おうとすると、敏恵はその手を払いのけた。


「どうして私に何も言わなかったの!」


「言えば、また営業の人を呼んで止めるだろ」


「当たり前でしょう。こんな家を借りるくらいなら、うちに入ればいいじゃない! 家賃まで払って、何を考えているのよ!」


声を聞きつけた茂が、杖をついて義実家の方から歩いてきた。白い半袖シャツの上に茶色いカーディガンを羽織っていたが、ボタンを一つ掛け違えている。雨の日にもかかわらず革靴を履き、濡れた路面を杖の先で何度も確かめていた。


「家族に隠れて引っ越すとは、どういうつもりだ」


「隠すつもりはありませんでした。住む場所を決めて、契約が済んでから報告するつもりでした」


綾乃は玄関前に立ち、鍵を右手で握った。新しい鍵には、赤い革のキーホルダーがついている。佐和子が契約書と一緒に渡したもので、裏には管理会社の電話番号だけが刻まれていた。


「何かあれば五分で行けます。お義父さんの通院や買い物についても、達也と相談して手伝います」


「だったら、同じ家に住めばいいでしょう」


「五分で駆けつけられることと、同じ家で暮らすことは別です。呼ばれなければ、私たちはお義父さんたちの家へ入りません。お義父さんたちにも、私たちの家へ勝手に入ってほしくありません」


「勝手に入るだなんて、人聞きの悪い。家族でしょう」


敏恵は、達也へ手を差し出した。何を求めているのか分からず、達也は濡れた手のひらを見つめた。やがて敏恵は、苛立ったように指を動かした。


「鍵よ。予備の鍵を渡しなさい。留守中に荷物が届いたときや、洗濯物を取り込むときに必要でしょう」


「荷物は自分たちで受け取るよ。洗濯物も自分たちで取り込む」


「母親に鍵も預けられないの?」


「母さんも、俺たちに実家の鍵を渡していないだろ」


敏恵の口が閉じた。達也はポケットの中で新居の鍵を握り直したが、母へ渡さなかった。綾乃は隣に立つ夫の白いTシャツの袖が雨で透けていることに気づき、玄関から紺色のタオルを持ってきた。


その日の夕方、二人は荷ほどきを途中で切り上げた。台所にはまだ食器棚が届いておらず、紙皿と割り箸で、近所の店から取った釜飯を食べた。鶏肉とごぼうの匂いが段ボール箱だらけの居間へ広がり、窓の外では濡れた金木犀が街灯に照らされていた。


「ここまで急いで決めなくてもよかったんじゃないか」


達也は釜飯の底についたおこげを、割り箸で何度もこすった。昼間は母へ鍵を渡さなかったものの、その顔にはまだ、自分だけが家族を裏切ったような色が残っている。綾乃は段ボール箱の上に置いていた茶封筒を取り、達也の前へ差し出した。


「今日、お義母さんが落とした買い物袋を拾ったでしょう。その中に入っていたの」


達也は箸を置き、封筒から書類を引き出した。二世帯住宅の住宅ローン仮審査申込書だった。希望借入額や勤務先だけでなく、達也の年収まで記入されている。


申込人の欄には、達也の名前が印字されていた。あとは本人が日付を書き、署名をすれば提出できる状態だった。達也は紙を持ったまま、しばらく動かなかった。


「俺、年収まで母さんに話したことはない」


「お義父さんは、以前あなたの住宅ローンについて勤務先へ問い合わせたことがあると言っていたわ」


「俺が反対しないと思って、ここまで準備していたのか」


釜飯の湯気はもう上がっていなかった。達也は申込書を封筒へ戻さず、ゆっくり半分に折った。窓の外に義実家の二階が見えたが、五分の距離にあるその家は、同じ屋根の下にいるよりも遠く、昨日までのマンションよりも近かった。


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