第2話 完全分離型二世帯住宅を調べてみたら
第2話 完全分離型二世帯住宅を調べてみたら
義実家から帰宅したのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。窓辺に置いた桔梗の鉢は水切れを起こし、紫色の花が一輪だけ下を向いている。綾乃は紺色のワンピースから灰色の部屋着へ着替えると、先に桔梗へ水をやり、義実家から持ち帰った紙袋をダイニングテーブルへ置いた。
紙袋には、完全分離型二世帯住宅のパンフレットと見積書が入っていた。敏恵は最後まで渡したがらなかったが、達也が「俺もちゃんと読むから」と言って持ち帰ったのだ。栗のロールケーキも二切れ残っていたものの、箱が傾き、生クリームが透明なフィルムへべったりとついていた。
「コーヒーでいい?」
「俺は麦茶。さっきの、レモンの味しかしなかったから」
達也は青いシャツの袖をまくり、冷蔵庫を開けた。麦茶の容器を取り出す途中で、昨夜のポテトサラダが入った鉢へ肘をぶつける。鉢を落としかけた達也を見て、綾乃は義父が転倒したときも、こうした小さな動作の失敗から始まったのかもしれないと思った。
「達也、本当に二世帯住宅を建てたい?」
「本当にと言われても、まだ説明を聞いただけだよ。ただ、親父があんな状態なら、近くにいた方が安心だろ」
「近くに住むことには反対していないわ。私が知りたいのは、完全分離型が本当に私たち四人に合っているかどうかよ」
「玄関も風呂も別なんだから、普通の同居よりは合っているんじゃないか?」
達也は麦茶を飲みながら、パンフレットを開いた。白い外壁の家の前で、三世代の家族が笑っている。綾乃はその写真を見てからノートパソコンを開き、「完全分離型二世帯住宅 建築費」と入力した。
検索結果には、一般的な一世帯住宅より建築費が高くなるという説明が並んだ。玄関、台所、浴室、トイレ、給湯器を二世帯分設置しなければならず、広い床面積も必要になる。綾乃は見積書と照らし合わせながら、設備の数をノートへ書き出した。
「台所が二つ、浴室が二つ、トイレは四つ。洗面台も給湯器も二つずつね」
「だから完全分離なんだろ。別々に使えるなら、その方が気楽じゃないか」
「建てた日から、同じ速さで古くなるわ」
綾乃は赤いペンで、二台の給湯器を囲んだ。十年後か十五年後に交換時期が重なれば、一度に大きな出費が発生する。台所や浴室の設備も二組あるため、修理や清掃にかかる費用は一世帯住宅より増える。
「親父たちの設備は、親父たちが払うだろ」
「七十二歳と六十八歳の二人が、十年後にどれだけ負担できると思う?」
「年金もあるし、貯金だって多少はあるよ」
「多少って、いくら?」
達也は口を閉じた。親の収入や預貯金について、これまで具体的に聞いたことがなかったのだ。綾乃は責める代わりに、ノートへ「義両親の資産と年金を確認」と書き加えた。
次に、図面と生活音について調べた。上下で居住空間を分ける造りでは、二階の足音や椅子を動かす音、洗濯機の振動が一階へ伝わることがある。防音工事を追加すれば軽減できるが、見積書には詳しい仕様が載っていなかった。
「ここを見て。私たちのリビングの真下が、お義父さんたちの寝室よ」
「最近の家なら、昔の木造住宅みたいには響かないだろ」
「どの程度の防音性能か、確認した?」
「してないけど、営業の人が大丈夫だって言っていたらしい」
「何デシベル軽減できるの?」
「デシベルって言われても、俺には分からないよ」
達也は面倒そうに答えたが、綾乃は責めずにスリッパを履いた。台所からダイニングまで歩き、いつもどおり椅子を引いて座る。床へ伝わった音を聞き、今度は椅子を持ち上げて静かに動かした。
「毎回こうやって暮らすの?」
「何が?」
「夜九時を過ぎたら、椅子を引かない。洗濯機を回さない。掃除機を使わない。子どもが生まれても走らせない」
「親父は神経質だから、気にはするかもしれないな」
「私は仕事で帰宅が十時になることもあるわ。帰ってからお風呂へ入り、髪を乾かす。その音で眠れないと言われたら、生活時間を変えられる?」
達也は答えず、冷蔵庫からポテトサラダを取り出した。夕食にはまだ早かったが、小皿へ移し、ソースをかけて食べ始める。ジャガイモは少し乾き、薄切りのキュウリだけが妙にしょっぱかった。
綾乃は図面の外階段を指でなぞった。完全分離型で室内に行き来する扉がなければ、義両親の家へ行くたびに外へ出なければならない。雨の日も雪の日も、夜中に呼ばれたときも同じだった。
「お義父さんが深夜に転んだら、私たちは一度外へ出て、一階の玄関から入るのね」
「内側に扉をつけてもらえばいいだろ。普段は鍵をかけておけばいい」
「その鍵を、お義母さんは欲しがると思う?」
「緊急時のためなら、親父たちにも渡した方がいいんじゃないか」
「そうしたら、お義母さんが夕食のおかずを持って、鍵を開けて入ってくるかもしれない。洗濯物を取り込んだ、冷蔵庫へ野菜を入れた、掃除をしてあげたと言ってね」
「母さんだって、そこまではしないよ」
達也はそう言ったが、声は先ほどより小さかった。結婚した直後、敏恵が宅配便を装って新居の合鍵を作ろうとしたことがあった。達也は「心配性なだけ」と笑って済ませたが、綾乃は鍵の貸し出しを断っていた。
「完全分離なのに室内扉を作れば、境界線を守るのは間取りではなく、私たち自身になるわ」
「扉を作らなければ、介護のときに不便なんだろ?」
「そう。作っても問題が起きて、作らなくても困る。だから私たちに合っているかを考えないといけないの」
綾乃は、介護が始まった後の家事も書き出した。今は敏恵が一階の台所、浴室、二つのトイレを掃除できる。しかし茂の介助が必要になり、敏恵まで体調を崩せば、二世帯分の設備を掃除する人がいなくなる。
「お風呂が二つあれば、一つは使わなくなるんじゃないか?」
「使わなくても、湿気はたまるし、排水口も汚れるわ。台所だって放置すれば油や埃がつく。誰が掃除するの?」
「業者を頼めばいい」
「お義母さんは、私が手料理を作ることまで期待していたのよ。家事代行にお金を払うことを受け入れると思う?」
「母さんを説得すればいいだろ」
「誰が?」
達也はポテトサラダを口へ運びかけ、そのまま箸を置いた。さきほどから、両親を説得する役目も、二世帯分の家事を補う役目も、いつの間にか綾乃の側へ移っている。達也はそれに気づいたのか、紙ナプキンで指先のソースをゆっくり拭いた。
綾乃はさらに、相続と将来の売却について調べた。土地は茂名義のまま、建物は達也名義になる予定だった。茂が亡くなれば土地は相続の対象となり、達也の姉・香織にも権利が生じる可能性がある。
「姉ちゃんは、土地なんかいらないって言うと思うよ」
「今の気持ちと、相続が起きたときの事情は同じとは限らないわ。お義姉さんに子どもの進学費用が必要になっているかもしれない。夫婦関係や仕事が変わっているかもしれないでしょう」
「姉弟なのに、そんなに疑わなくてもいいだろ」
「疑っているのではなく、変化を想定しているの。家族仲を守るために、先に決めるのよ」
親世帯が住まなくなった場合についても調べた。二つの台所や浴室を持つ家は、一般の一世帯住宅として買い手が限られる。賃貸へ出す方法もあるが、上下の生活音、庭や駐車場の使用、外壁や屋根の修繕費を、他人同士で分担しなければならない。
「一階を貸せば、家賃収入になると思っていた」
達也は、パンフレットの端を指でこすりながら言った。綾乃は画面を達也の方へ向け、二世帯住宅の売却事例を見せた。駅から近くても、間取りや権利関係によっては売却に時間がかかると説明されていた。
「知らない人が一階に住み、私たちが二階に住む。それで平気?」
「庭で顔を合わせるたびに気を遣いそうだな」
「私たちが転勤した場合は、二階を他人へ貸して、お義父さんたちが一階に住むことになるわ」
「親父は、知らない子どもの足音なんか我慢できないよ」
「では、貸せない。売ろうとしても買い手が限られる。達也が定年を迎えても、ローンだけが残るかもしれないわ」
外が暗くなり、窓ガラスに二人の姿が映った。綾乃は灰色の部屋着でパソコンに向かい、達也は青いシャツの袖をまくったまま、パンフレットを見つめている。窓辺の桔梗は水を吸い、下を向いていた花を少しだけ持ち上げていた。
「俺、完全分離なら全部解決すると思っていた」
「私も、本当に別々に暮らせるなら検討してもいいと思ったわ。だから調べたの」
「最初から断る理由を探していたんじゃないのか?」
「違うわ。暮らせる理由を探したけれど、今の計画には見つからなかったの」
綾乃は、冷蔵庫からロールケーキの箱を出した。生クリームは崩れ、栗はスポンジの横へ転がっていた。二人で皿へ移すと形はさらに崩れたが、口へ入れれば洋酒の香りと栗の甘さが広がった。
達也は一口食べてから、見積書をもう一度開いた。七千万円という数字の下に、小さく「地盤改良費、防音追加工事、外構費は別途」と書かれている。義実家では新しい家の入り口に見えた紙が、今は長い借金と二世帯分の暮らしを背負う契約書に見えた。
「この家は、やめた方がいいのかな」
「私はやめる。達也が自分のお金だけで建てたいなら止めないけれど、私はローンも家事も介護も引き受けない」
「夫婦なのに、俺だけで建てられるわけないだろ」
「だから、二人が納得できる方法を探すのよ」
綾乃は検索画面を閉じ、別のファイルを開いた。そこには義実家周辺の賃貸物件が並んでいた。達也が画面をのぞき込むと、一番上に、義実家から徒歩五分と記された築浅の戸建てが表示されていた。




