第1話 「完全分離」という名の落とし穴
第1話 「完全分離」という名の落とし穴
九月最初の日曜日、綾乃と達也は、駅前の洋菓子店で買った栗のロールケーキを持って義実家を訪れた。門の脇では、敏恵が育てている薄紫の秋明菊が風に揺れていたが、何本かは先週の台風で倒れたままだった。玄関には茂の革靴と泥のついた運動靴が並び、その横へ、見慣れない銀色の杖が立てかけられていた。
三日前、茂は郵便局の前で転倒した。幸い骨折はなく、左膝の打撲だけで済んだものの、医師からしばらく杖を使うように言われたという。茂は薄い灰色のポロシャツに紺色のスラックスを合わせ、いつもの座布団へ座っていた。左膝には白い湿布が貼られていたが、綾乃が見た途端、スラックスの裾を引いて隠した。
「ちょっと道の段差に足を取られただけだ。大げさに杖まで持たされて、まったく医者というのは心配性でいかん」
「郵便局の方が救急車を呼ぼうとしたのでしょう。頭を打たなくてよかったです」
「救急車なんか必要ない。あのくらいなら、一人で帰れた」
茂が鼻を鳴らすと、敏恵は麦茶の入ったグラスを四つ並べた。氷はほとんど溶けており、輪切りのレモンが底へ沈んでいる。テーブルの隅には、血圧計、飲みかけの胃薬、老眼鏡が重なり、その横に住宅会社の名前が入った厚い紙袋が置かれていた。
「お義父さん、今日は大事な話があるって言っていたけど、この袋のこと?」
綾乃が尋ねると、敏恵は待っていましたとばかりに紙袋を引き寄せた。淡い桃色のブラウスの胸元には真珠のブローチが光り、家族だけの話し合いにしては妙にきちんとした格好だった。敏恵はパンフレットを取り出し、栗のロールケーキを載せるために綾乃が空けた場所へ大きく広げた。
「お父さんも七十二でしょう。今回みたいなことが、これから増えるかもしれないわ。だから私たち、元気なうちに先のことを決めておこうと思ったの」
パンフレットには、白い壁と焦げ茶色の屋根を持つ大きな二世帯住宅が載っていた。玄関の前では若い夫婦と子ども、高齢の夫婦がそろって笑っている。庭には季節の違うチューリップと紫陽花が同時に咲き、犬まで全員の顔が見えるように座っていた。
「完全分離型二世帯住宅だよ。玄関も台所も風呂も全部別だ。室内で行き来できる扉もつけない。これなら綾乃も気楽だろう?」
達也は、すでに何度か説明を聞いていたらしい。迷わず見開きの図面を指した。両親側は一階、達也たちの居住部分は二階で、外階段と専用玄関が設けられている。
「俺たちも、いつかは家を買うつもりだったじゃないか。都内で土地から探すより、ここを建て替えた方が安い。駅まで歩けるし、親父たちに何かあってもすぐ対応できる」
「いつから話していたの?」
綾乃が聞くと、達也は麦茶のグラスへ手を伸ばした。氷が一つ、薄い音を立てて割れた。達也は結婚記念日に綾乃が贈った青いシャツを着ていたが、襟の折れ方が左右で違っており、朝も慌てていたことが分かった。
「話していたっていうか、母さんから相談されていただけだよ。綾乃にも今日話すつもりだった」
「住宅会社には?」
「ちょっと見積もりを頼んだだけ。まだ契約はしていないよ」
敏恵が差し出した見積書には、七千万円を超える数字が印刷されていた。茂が土地を提供し、建築費の大部分は達也名義の住宅ローンで賄う計画になっている。綾乃はページをめくったが、土地の名義をどうするのか、将来どのように相続するのかは書かれていなかった。
「土地はお義父さんの名義のままですか?」
「もちろんだ。先祖から受け継いだ土地を、簡単に動かせるか」
「では、達也が建物のローンを返している途中で相続が発生した場合、この土地はどうなりますか。お義姉さんとの分割については話しましたか?」
「家族なのに、そんな細かいことを今から言う必要はないでしょう」
敏恵はロールケーキの箱を開け、四つに切られたうちの一番大きなものを茂の皿へ載せた。栗の甘い香りが広がったが、誰もフォークを取らなかった。箱の蓋についた生クリームを、敏恵は指ですくい、台所へ立ちながら口へ入れた。
「香織には話してあるわ。あの子は、自分はお嫁に出た身だからって言っているもの」
「口約束ではなく、書面がありますか?」
「綾乃さんは、何でも契約、契約なのね。家族を信用できないの?」
綾乃は答えず、間取り図へ目を戻した。一階の奥に六畳の洋室があり、小さな文字で「将来介護室として利用可能」と記されている。二階には夫婦の寝室と綾乃の仕事部屋があったが、子ども部屋として使える部屋は一室しかなかった。
「この介護室というのは?」
「お父さんが寝たきりになっても困らないように、ベッドを置ける部屋よ。掃き出し窓があるから、車椅子でも出入りできるの。よく考えられているでしょう」
「介護する人は、誰を想定していますか?」
敏恵は質問の意味が分からないという顔をした。茂はロールケーキの栗だけを先にフォークで取り、口へ運んだ。達也は図面を見たまま、指で二階の廊下をなぞっている。
「それは、そのときになったら家族で相談すればいいでしょう。施設なんてかわいそうだし、できる限り自宅で暮らしたいもの」
「家族というのは、具体的に誰ですか?」
「達也は会社があるでしょう。香織は子どもがいるし、家も遠いし。綾乃さんは在宅勤務ができるじゃない」
敏恵は、当然のことを説明するように言った。週に二日、自宅から会社の会議へ参加できることが、入浴介助も排泄介助もできるという意味へすり替わっている。綾乃の仕事部屋が二階にあるのも、呼べばすぐ一階へ下りてこられるように見えてきた。
「玄関は別でも、夕飯くらい一緒に食べられるでしょう。毎日四人分を作っても二人分を作っても、手間はそれほど変わらないもの。それに、お父さんの通院も在宅勤務の日なら行けるわよね」
「私の在宅勤務は休日ではありません」
「でも、通勤時間がないでしょう。そのくらい融通を利かせてもらえるんじゃないの?」
「母さんも、毎日とは言っていないよ」
達也がようやく口を挟んだ。綾乃を助ける言葉に聞こえたのは、最初の一瞬だけだった。毎日でなければよいという話ではなく、なぜ綾乃が担当することを前提にしているのかが問題だった。
綾乃は見積書を閉じ、ずれていた角をそろえた。窓の外では、秋明菊の細い茎が何度も網戸へ触れている。台所から炊飯器の終了音が鳴ったが、敏恵は席を立たず、綾乃の返事を待っていた。
「同居はしません。住宅ローンも負いません」
「ちょっと待てよ。今すぐ決めなくてもいいだろう」
「土地の権利も、相続も、介護の分担も決まっていない。その状態で七千万円のローンを組む話を、私は前向きに検討できない」
「お金なら、あなたの実家にだってあるじゃない」
敏恵の声が一段高くなった。茂もフォークを置き、眉間へしわを寄せた。皿には栗を抜かれたロールケーキが倒れ、クリームが白い筋になって残っていた。
「私の実家のお金は、この家の建築費ではありません。私の収入も、当然のように介護へ差し出せるものではありません」
「それなら、年を取った私たちを放っておくというの?」
「いいえ。近くに住み、必要な支援を一緒に考えることはできます。通院の方法、買い物の負担、家の中の安全対策については、達也と分担して調べます」
「近くに別の家を借りるなんて無駄でしょう。同じ土地に住めるのに、どうしてわざわざ離れるのよ!」
敏恵はパンフレットを両手で持ち上げ、テーブルへ叩きつけた。麦茶のグラスが揺れ、薄い茶色の雫が見積書へ飛んだ。敏恵は濡れた数字を拭こうともせず、真珠のブローチを上下させながら息を吸った。
「私たちとの同居が、そんなに嫌なの? せっかく完全分離にしてあげると言っているのに。実家に甘やかされた、わがままな娘ね」
綾乃は敏恵を見なかった。隣に座る達也へ顔を向けたが、達也は濡れた見積書をティッシュで押さえていた。母の言葉を止めることも、妻の意見を支持することもなく、茶色くにじんだ七千万円という数字だけを何度も拭いていた。
庭から風が入り、栗の甘い香りに湿布の匂いが混じった。綾乃は自分の皿に残っていたロールケーキを、箱へ戻した。達也の沈黙は、どんな反対の言葉よりもはっきりと、今の彼が立っている場所を示していた。




