第11話 七千万円の代わりに選んだ一週間
第11話 七千万円の代わりに選んだ一週間
河津桜の花見から一か月後、綾乃はダイニングテーブルへ一冊の旅行案内を置いた。表紙には青い海、白い砂浜、赤いハイビスカスが写っている。達也は朝食の目玉焼きへ醤油をかける手を止め、表紙と綾乃の顔を交互に見た。
「まさか、ハワイ?」
「家族六人で一週間。お義父さんたちと、うちの両親も一緒に行くの」
「親父は飛行機に乗れるのか?」
「主治医に相談してから決めるわ。空港では車椅子を借りて、ホテルはエレベーターに近い部屋を取る。薬の一覧と英文の説明も用意する」
綾乃は旅行会社から取り寄せた資料を広げた。飛行時間、空港での支援、海外旅行保険、現地の医療機関まで調べてある。達也は資料の端に書かれた六人分の費用を見て、目玉焼きの黄身を箸で割った。
「高いな」
「七千万円の住宅ローンより安いわ」
「何でも二世帯住宅と比べるのはやめないか?」
「七千万円を三十五年かけて返す代わりに、家族の時間へ使うの。もちろん老後資金と介護費は別に残します」
「本当に準備してから押し切るよな」
「まだ押していないわ。みんなが嫌なら二人で行くもの」
その週末、両家の両親を新居へ招いた。居間には二つのバランスボールが転がり、ソファには取り込んだままの洗濯物が積まれている。綾乃は旅行案内を六冊並べ、佐和子が持ってきた桜餅を皿へ載せた。
「ハワイですって?」
敏恵は桜餅を持ったまま、旅行案内を開いた。薄桃色のカーディガンの胸元には、河川敷の花見にも着けていた真珠のブローチが光っている。隣では茂が老眼鏡をかけ、機内食の写真を真剣に見ていた。
「七時間以上も飛行機に乗るのか。膝が固まるぞ」
「通路側の席を取り、無理のない範囲で足を動かします。主治医にも相談しましょう」
「海外旅行なんて、若い人が行くものでしょう」
「嫌なら無理に行かなくていいです。ただ、行けるうちに六人で行きたいと思ったんです」
綾乃の父は、釣り用の帽子をかぶったまま、海釣りの案内を探し始めた。佐和子は「今回は誰も釣りへ行きません」と案内を取り上げる。父は桜餅の葉を畳みながら、茂へ顔を向けた。
「水野さん、一緒に行きましょう。妻と娘だけでは、買い物の荷物を持つ男手が足りません」
「海外へ行ってまで荷物持ちか」
「役割がある方が、旅行は楽しいですよ」
茂は鼻を鳴らしたが、旅行案内を閉じなかった。敏恵も、「私は水着なんて着ませんからね」と、まだ誰にも勧められていないことを宣言した。達也は桜餅を飲み込み、綾乃と目を合わせた。
出発までの一か月、六人は何度も新居へ集まった。茂は作業療法士に教わった立ち上がり運動を続け、長時間の移動に備えて散歩の距離を少しずつ延ばした。敏恵は薬と保険証書の写しをそろえ、佐和子は六人分の緊急連絡先を一枚にまとめた。
出発当日、アルファードの荷室には六人分のスーツケースが積まれた。敏恵は薄紫色の帽子、佐和子は白いシャツと紺色のパンツを着ている。茂と綾乃の父は、どちらもベージュのベストを選んだため、空港で何度も兄弟と間違えられた。
「俺の方が年上に見えるのか?」
「水野さんの方が立派な杖を持っていますからね」
「年齢と杖は関係ないだろう」
空港では係員が車椅子を用意した。茂は最初こそ断ったが、広い搭乗口まで歩いて疲れ切るより、到着後に自分の足で動ける方がいいと説明され、渋々腰を下ろした。膝の上には敏恵の手荷物まで載せられ、「結局、ここでも荷物持ちだ」とぼやいた。
ハワイへ到着すると、空気は湿って暖かかった。空港の外ではプルメリアの甘い香りが漂い、背の高いヤシの葉が風に鳴っている。送迎車の窓から青い海が見えた瞬間、敏恵は帽子のつばを押さえ、身を乗り出した。
「本当に、海が青いのね」
「案内の写真を疑っていたの?」
「写真は色をきれいに直せるでしょう」
「母さん、肉眼まで疑わなくていいよ」
一週間の予定は詰め込まなかった。午前中に出かけた日は午後をホテルで休み、茂の膝が重い日は近くの公園を歩くだけにした。綾乃と達也が二人で海へ行く間は、四人の親たちがホテルのラウンジでコーヒーを飲んだ。
三日目の夕方、六人は海辺のレストランへ入った。テーブルには大きな魚料理、海老、色鮮やかなサラダが並び、グラスにはパイナップルジュースが注がれた。茂は料理の値段を日本円へ換算しようとしたが、途中で計算をやめた。
「この魚は、煮つけにした方がうまいな」
「ハワイまで来て、醤油味を求めるの?」
「うまい物はうまい。国は関係ない」
敏恵は花の飾りがついた飲み物を前に、何度も写真を撮り直した。最初は海外旅行など若者のものだと言っていたのに、佐和子と翌日の買い物について相談している。綾乃の父は店員へ魚の名前を尋ねたが、英語が通じず、最後は両手を魚の形にして笑われていた。
旅行最後の朝、六人はホテルの庭で朝食を食べた。白いテーブルにはパン、卵料理、果物が並び、芝生の向こうでは赤いハイビスカスが咲いている。敏恵はパパイヤを一口食べ、綾乃の皿へ半分戻した。
「私は林檎の方が好きだわ」
「帰ったら、すりおろしましょうか?」
「今度は自分ですります。あなたにやらせると、腕が痛くなるのでしょう」
綾乃はフォークを止めた。敏恵は澄ました顔でコーヒーを飲んでいたが、口元がわずかに上がっている。達也は聞こえなかったふりをして、残ったパンへバターを塗った。
「二世帯住宅を建てていたら、この旅行には来なかったでしょうね」
敏恵がハイビスカスを眺めながら言った。茂も黙って海の方へ顔を向けた。七千万円の家が欲しかった二人は今、同じ屋根ではなく、同じ朝の光の下に座っていた。
「同居を断ったから、一緒にいられる時間もあるんです」
綾乃が答えると、敏恵は言い返さなかった。代わりに自分の皿から甘いパンを半分に切り、茂の皿へ載せた。茂は礼も言わずに食べたが、残りのパイナップルジュースを敏恵のグラスへ注いだ。
七千万円のローンなら、返済予定表だけが三十五年先まで残る。その代わりに選んだ一週間は、帰国すれば終わってしまう。それでも六人は、温かい海風、甘い花の香り、兄弟と間違えられた父親たち、林檎を自分ですると言った敏恵の言葉を、それぞれの家へ持ち帰ることができた。




