第12話 母が欲しかった自慢話
第12話 母が欲しかった自慢話
ハワイから帰国して一週間後、敏恵は商店街の花屋へ出かけた。薄紫色のカーディガンに白いスカーフを合わせ、肩には旅行前に買った小さなバッグを掛けている。店先には黄色いフリージア、桃色のガーベラ、鉢植えのマーガレットが並び、霧吹きの水を受けた葉が光っていた。
「水野さん、お帰りなさい。ハワイへ行っていたんですって?」
花屋の老店主が、作りかけの花束から顔を上げた。白髪を紫色の布で包み、花柄のエプロンを着けている。敏恵はマーガレットの鉢を持ち上げ、葉の裏まで確かめながらうなずいた。
「ええ。息子夫婦と、綾Verts乃さんのご両親も一緒に、一週間行ってきたんです」
「あら、いいわねえ。私も息子に連れていってもらいましたよ」
老店主は、店の奥に飾ってある写真を指した。青い海を背に、息子らしい男性と二人で笑っている。首には白い花のレイが掛かり、老店主は今より少し黒い髪で、つばの広い帽子を押さえていた。
「何年前ですか?」
「もう十年近く前ね。息子が、膝が悪くなる前に行こうと言い出したの。旅行中は喧嘩もしましたよ。私は朝から観光したいのに、あの子は昼まで寝ているんだもの」
「うちの息子も、朝食の時間ぎりぎりまで起きませんでした。せっかく海が見えるのに、カーテンも開けないんですよ」
「男の子は、いくつになっても同じねえ」
敏恵と老店主は顔を見合わせて笑った。敏恵はハワイで買った小さなチョコレートの袋を鞄から出し、カウンターへ置いた。老店主は遠慮しながらも一つ受け取り、桃色の紙で包んだマーガレットの鉢へ、細い水色のリボンを結んだ。
「息子さん、親孝行ね」
「そうなんです。空港では車椅子まで予約してくれて、主人の薬も全部確認してくれました。大きな車も買って、家まで迎えに来てくれたんですよ」
敏恵の声は、いつもより少し高くなっていた。綾乃が旅行を計画し、車を購入したことには触れず、「息子が連れていってくれた」という言葉を何度も使った。老店主は笑顔で聞き、帰り際には店先のフリージアを一本おまけしてくれた。
その様子を、道路の反対側から達也が見ていた。休日出勤の代休で、茂の薬を受け取るため商店街へ来たところだった。青いパーカーのポケットには薬局の領収書が入り、片手には夕食用に買ったアジの干物がぶら下がっていた。
敏恵が店から出てくると、達也は街路樹の陰へ隠れるのをやめた。敏恵はマーガレットの鉢を抱え、フリージアの花へ鼻を近づけている。息子に気づくと、急に口元を引き締めた。
「聞いていたの?」
「途中からね。ハワイへ連れていったのは、俺だけじゃないだろ」
「綾乃さんが計画したことは分かっています。でも、あのおばあちゃんに細かく説明しても仕方ないでしょう」
「それで、『息子が大きな車を買った』ことになるのか?」
「家族の車なんだから同じでしょう。あなたは細かいわね」
敏恵は鉢を持ち直し、先に歩き始めた。達也は追いかけず、母の背中を見送った。白いスカーフの端が春の風に揺れ、マーガレットの花が肩越しに見えていた。
夕方、達也は新居へ戻った。台所では綾乃が大根の葉と油揚げを炒め、醤油とごま油の香りが広がっている。シンクの横には朝から水につけたままの鍋が残り、窓辺ではハワイで買った木製の人形が風を受けて首を振っていた。
「母さん、花屋のおばあちゃんとハワイの話をしてたよ」
「楽しそうだった?」
「すごく楽しそうだった。『私も息子に連れていってもらいました』って、自慢してた」
「達也が運転して空港まで連れていったのだから、間違いではないわね」
「アルファードまで俺が買ったことになってたけどな」
綾乃は炒め物を小鉢へ移し、少し焦げた油揚げを達也の方へ多く入れた。達也は冷蔵庫から麦茶を出し、二つのグラスへ注いだ。氷が足りなかったため、自分のグラスには一つ、綾乃の方には二つ入れた。
「花屋のおばあちゃんも、昔、息子さんにハワイへ連れていってもらったらしい。母さん、あの写真を何度も見てた」
「以前から知っていたの?」
「たぶんね。町内会でも、子どもと旅行したとか、家を建ててもらったとか、みんな自慢するだろ」
達也は麦茶を一口飲み、テーブルに残っていたハワイの旅行案内を閉じた。表紙の青い海には、敏恵がつけた指の跡が残っている。達也は布巾で拭こうとしたが、途中で手を止めた。
「母さん、本当は羨ましかったんだろうな。だから、完全分離型二世帯住宅なんて言い出したのかもしれない」
「立派な家に長男夫婦と住んでいると、近所へ言いたかったのね」
「俺と暮らしたかったというより、自慢できる何かが欲しかったのかな」
「両方かもしれないわ。老後に一人にされないという証拠も、欲しかったのでしょうね」
綾乃は敏恵を笑わなかった。羨ましい、置いていかれたくない、息子から大事にされていると人に言いたい。そうした気持ちをそのまま口にできず、「長男なら同居して当然」「嫁なら世話をして当然」という要求へ変えてしまったのだろう。
「でも、羨ましかったからって、綾乃に仕事を辞めさせようとしたことが許されるわけじゃない」
「ええ。理由が分かることと、要求を受け入れることは別よ」
「母さんに聞いてみようかな」
「問い詰めない方がいいわ。今日、お花屋さんに話せたのなら、それで少し満たされたでしょうから」
翌週の日曜日、敏恵はマーガレットの鉢を持って新居へ来た。花屋で買ったものの、義実家の庭には植える場所がないという。綾乃は庭の金木犀の横を指し、一緒に土を掘った。
敏恵は花柄のエプロンを着け、鉢から苗を外した。根が固く回っていたため、指先で少しずつほぐす。土の匂いが立ち、白と桃色の花が春の日差しに揺れた。
「花屋さんに、ハワイの話をしたんですって?」
達也が何気なく尋ねると、敏恵は土を落とすふりをして手袋を叩いた。
「おばあちゃんが聞くから話しただけよ」
「俺が連れていったって?」
「息子夫婦に連れていってもらったと言ったの。だいたい同じでしょう」
「また行こうな。今度はハワイじゃなくて、近くの温泉でもいい」
敏恵は顔を上げた。すぐに返事をせず、植えたばかりのマーガレットの周りへ土を寄せる。花が傾くと、綾乃も反対側から手を添えた。
「お父さんの膝が、もう少しよくなったらね」
「野中さんに、旅行を目標にした運動を相談してみよう」
「私は別に、連れていってほしいとは言っていませんよ」
「分かった。母さんが行きたいと言ったら考えるよ」
敏恵は口を尖らせたが、マーガレットへ水をやる手は軽かった。長男夫婦と同居している母親にはなれなかった。しかし、息子夫婦とハワイへ行き、次は夫と温泉へ行くかもしれない母親にはなれた。
立派な家を建てなくても、近所へ話せる思い出は作れる。しかも、その思い出の中では、誰も住宅ローンを抱えず、誰も家政婦や介護要員になっていなかった。敏恵は咲いたばかりのマーガレットを見ながら、今度は綾乃にも聞こえる声で言った。
「ハワイへ連れていってくれて、ありがとう」




