向かう先は
さすがにまったく運動をしていないと身体が石になってしまいそうだったので、軽く散歩をしてから酒蔵へ向かう。
中へ入ってみると、新人を相手に指導をしているエッカの背中が見えた。
現在のエッカは『ニブル酒造』の製造責任者。
アナスタジアに次いで偉い、飛ぶ鳥を落とす勢いで名前を売っている『ニブル酒造』のナンバーツーだ。
だがエッカは特に偉ぶった様子もなく、真面目に話を聞いている部下に正しい大麦の粉砕の方法を教えていた。
「違う、そうじゃなくてこうやって……かき混ぜるように全身の力を使って麦を潰すんだ。腕の力だけでやろうとすると、すぐに筋肉痛で動けなくなるからな」
「は、はいっ!」
エッカに見られながら緊張の面持ちで大麦を潰し始めた青年の動きを見て、エッカが小クッと無言で頷く。
青年の方はほっと安堵しながら、再び自分の作業に没頭し始めた。
エッカの方はそのままその場を去り、隣の部屋へと向かったようだ。
どうやらかなり集中しているらしく、やってきたアナスタジアにまったく気付いた様子はない。
――当初アナスタジアはやっていたように魔法使いを雇って大麦を粉砕してもらおうかと思っていたのだが、それにストップをかけたのはエッカだった。
彼の現場の判断で、生産は魔法使いではなく人を雇う形はどうかと提案してきたのだ。
そもそもアナスタジアのように魔法を連発してかつ上手く制御できる人間は在野にはおらず、ほとんどが貴族家のお抱えになってしまっている。
そしてそんな者達は基本的に平民のことを見下している特権階級の者が多く、もし雇い入れることができたとしてもエッカの言うことを聞いてはくれない。
それならいっそのこと人を大量に雇い、マンパワーで生産規模を拡大してしまった方がいいだろうという結論になったらしい。
信頼できる魔法使いを見つけるのは難しいが、信頼できる人材を見つけるのは難しくないと、つまりはそういう話らしい。
「あいつらは給金も高いですから、その金があれば部下を三十人は雇えます。三十人力で働ける魔法使いなんてアナスタジア様くらいですから、普通に人を雇った方が安上がりなんですよ」
そんなエッカの判断を尊重し、アナスタジアは彼に言われた通りに人を雇う形を取ることにした。
殻やカスの除去や温度管理は魔道具である程度行い、最後は人力で仕上げる形で問題なく生産は継続できている。
そもそも好きなだけでビール造りの全てを理解しているわけではないアナスタジアは、彼に委細を任せることにしていた。
こうしてたまに見に来て光魔法で酵母を元気にさせるくらいで、基本的に何も言わずに全てエッカに任せている。
一度任せると決めたのだから彼が好きなようにやらせ、その責任は自分が取ればいい。
そんなアナスタジアの考え方は、紛れもない公爵令嬢のそれなのだが、美味しいお酒にしか目がいっていない彼女は自分ではまったくそれに気付いていなかった。
「あっ、アナスタジア様! お疲れ様です」
指導が終わりキツい視線で生産工程を管理しているエッカが、アナスタジアの顔を見た瞬間に小走りになってこちらに駆けてくる。
ちなみにエッカを含めてここで働いている人達は皆、髪やゴミなどが入らぬようにアナスタジアが特注で作らせた防菌服とマスクを身につけている。
「お疲れ、エッカも頑張ってくれてるみたいね」
「いえいえ、アナスタジア様の方こそ大丈夫ですか?」
「ふふ、お互い急に忙しくなったからね……大丈夫、仕事もちゃんと自分が捌ける叛意にしているから」
身を包んだエッカはアナスタジアの言葉に恥ずかしそうに笑い、それなら良かったですとそのまま笑みを深めた。
なんだか以前と比べて大人びたというか、狂犬のようなワイルドで危ない感じがかなりなくなった感じがする。
ただその分大人の色気のようなものが出ていて、むしろモテ具合は前より増しているかもしれない。
『ニブル酒造』の製造責任者という責任ある立場が、彼を変えたのだろうか。
(であれば、私も何か変わったのかしら……?)
そんなことを考えながら、エッカから各種酒造の進捗状況などについて尋ねていく。
製造に関しては、おおむね問題はないようだ。
元々ラガーは作ることこそ難しいが、低温管理ができるようになれば大量生産が可能だ。
魔道具によって温度管理が比較的容易にできるようになったことで、後の工程は十分にエッカ一人で管理ができているらしい。
ちなみに製造を全て任せた副産物とでも言うべきか、エッカは現在熱心に『ジーニーエール』と『スピリットラガー』の改良を進めており、その結果エールとラガーの味は明らかに向上していた。
フルーティーさが以前より増し、苦みが減ってキレが増している。
アナスタジアには前世知識があるとはいえ所詮は素人。
やっぱり餅は餅屋なんだなぁと改良を加えられより美味しくなったビールを楽しませてもらっている。
ホップの使い方であったり大麦品種を変えたり殻を敢えて残したりと、色々と試行錯誤した結果らしい。
無論味が良くしてくれたエッカにボーナスをはずんだことは言うまでもない。
「もし生産がキツくなったら遠慮なく言ってね。私とクロノスが頑張って在庫を作るから」
「そんな……アナスタジア様のお手を煩わせるわけにはいきません! なんとしてもそんなことにならないように、部下達のケツを叩いておきますよ」
「頑張ってくれるのは嬉しいけど……本当に叩いたらダメだからね?」
自分より一回り以上年上の部下などもいて色々と大変そうではあるが、彼の顔は自信に満ちあふれていた。
当初はご令嬢の道楽にでも付き合ってやるかと明らかにやる気がなかった彼がここまで変わったのは、なんだか感慨深い。
「その他に問題はないかしら?」
「えっと……」
エッカがちらりとクロノスの方を向く。
彼は急に見つめられてきょとんとしてから、ああそうだったと手のひらを叩き、
『そういえば、うちの精霊がまた二人ほど捕まえてきたよ、どうやら酒蔵の中に潜入しようとみたい。エッカに官憲に引き渡してもらってたの、すっかり忘れてたよ』
ここ最近、『ニブル酒造』の酒造りの秘密を盗もうと、他の酒造のやつらがちょっかいをかけてくるようになった。
ただビールを対価に精霊が見張りをしてくれているため、問題は全て未然に防ぐことができている。
前に一度酒造の奴らがチンピラを雇い酒造自体を壊そうとしたこともあったが、その時にも精霊が大活躍してくれた。
彼らが居てくれる間は、防犯やスパイの類いは気にする必要はないだろう。
「問題は……ないわけではなさそうだけど、自力で解決できそうね」
「そうですね、クロノス様がいろいろやってくださるので」
『子供達も『ニブル酒造』のビールが大好きだからね、そこはビールを対価に雇ってるみたいな感覚でいいと思うよ』
ひとまずほっと一安心したアナスタジア。
仕事も終わり気が抜けたからか、くーっと彼女のお腹が少しだけ鳴る。
エッカには聞こえなかったようだが、クロノスの方はアナスタジアの方を見てにやにやと笑っている。
「引き続きよろしく頼むわね」
「はいっ! 自分も信頼できる人間を見つけてますので、ビールに関してもそう遠くないうちに自分の手から離せるようになるはずです」
「……ありがと」
どうやらビール以外のお酒も造る、と言っていたのを覚えてくれていたらしい。
たしかに日々の業務に忙殺されて忘れていたが、そもそも自分が『ニブル酒造』を立ち上げたのは美味しいお酒を造るため。
初志貫徹のためにも、次のために動き出す時期を決めておかなければいけない。
(……まあ、それを考えるのは明日からにしましょう。お腹が減りすぎて、くらくらしてきたし)
アナスタジアが酒蔵を出ようと決め、エッカの方に軽く手を振った。
「それじゃあ私は今日はもう仕事終わらせるわ。ご飯はあっちで食べてくるから、後は任せたわね」
「わかりました、二日酔いで寝坊しないようにしてくださいよ」
「もうっ、わかってるって! 三回くらいしたことを蒸し返さないで!」
「ちょくちょくあるから忠告してるんです!」
アナスタジアは酒蔵を後にし、そのまま歩き出す。
クロノスはアナスタジアの肩の上に乗りながら、お腹をさすった。
『今からあそこへ行くのかい?』
「ええ、お店の様子も定期的に見ておきたいからね」
『やった、僕もアナスタジアと一緒でお腹ペコペコだったんよ。それじゃあ行こうか……居酒屋に!』
彼女達が向かう先は『ニブル酒造』のお酒をより流行らせるために始めたお店――居酒屋『馬公爵』である。
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