エッカ
次の日、アナスタジアは使用人に言伝を頼み改めてこの世界のビールを飲むことにした。
この世界で飲まれているビールはいわゆる上面発酵のエールと呼ばれるタイプのものである。
(マ、マズい……やっぱりマズすぎるわ)
こうして改めて飲んでみると、やはりとても飲めたものではない。
味だけではなくて見た目も悪い。
酵母が浮いているせいで上の方がもやっと白く濁っているし、その中に麦の小さな粒が浮いている。色も全然透明じゃないし、グラスに入れた時の見てくれも非常によろしくなかった。
残念なことにこのレベルのビールでも、この世界では貴族が飲むような高級品。
ということは自分が納得できるレベルのビールは、この世界にはないということになる。
だが……ないのであれば、造ればいい。
アナスタジアはきちんと飲めるレベルのビールの製造をしようと改めて決意を固めていた。
「まずは……ちゃんとしたビールを造るわよ!」
アナスタジアのひとまずの目標は、前世の日本で一般的であった下面発酵のラガーを造ることだ。
だが下面発酵のラガー作りはエールより数段手間がかかるので、まずはこの世界のエールの質を向上させていくことを、酒造りの第一歩とすることにした。
アナスタジアは公爵令嬢であり、父であるニブルへイム公爵から到底使い切れない程度のお小遣いをもらっている。
それを使い早速職人を雇ってみることにした。
金の力を使い職人を呼び出してみたところ……丸一日かけて、なんとかギリギリ酒が造れそうな人材を呼ぶことができた。
「はぁ、ビール造りですか……」
いきなり呼び出されて頭をぽりぽりと掻いているのは、アナスタジアと同じ程度の年齢の、ワイルド系のイケメンだ。
浅黒い肌に、猫を思わせるように鋭く細められた三白眼。
筋肉はあるが付きすぎてはいない、細マッチョな体型。
少し悪そうな雰囲気が刺さる人にはものすごく刺さりそうな彼は、エッカという。
二年ほどエルギン酒造という店の酒蔵で下働きをしていたという男性だ。
「でも俺なんかでホントに良いんですか? 言っちゃなんだが基礎的なことしか知らないから、かなり手探りになると思いますが……」
「いいのよ。というか私の悪評が広まりすぎて、エッカしか来てくれなかったのよね」
「は、ははは……」
乾いた笑いを漏らすエッカを見ながら、アナスタジアは自分の人望のなさに心で泣いていた。
――丸一日かけても、アナスタジアが雇うことができたのは酒造り職人としては新米も新米なエッカだけだった。
記憶を取り戻すまでのアナスタジアはわりと悪役令嬢ムーブをかましており、そのせいで悪名が轟いてしまっている。
そんな女を雇い主にすればどんな理由で難癖をつけられるかわからないと、酒造りのプロフェッショナル人材は誰一人としてやってこなかったのである。
なんとか雇い入れることができたのは酒造で二年ほど徒弟として働き、正式に雇用される前に首を切られてしまったこのエッカ君だけである。
これが今の自分の現状位置。
だがアナスタジアはへこたれない。
美味い酒を飲むためなら、どんな逆境を前にしても立ち止まるつもりはなかった。
「一応雇い主として確認しておきたいんだけど、何か犯罪をしたわけじゃないのよね?」
「ええ、まあ、不幸な事故といいますか……」
歯切れの悪い返事を返すエッカから詳しい事情を聞いてみると、たしかに彼が言っている通りにそれは不幸な事故だった。
ワイルド系なイケメンのエッカはやはり結構モテるらしく、彼はエルギン酒造のオーナーの一人娘に一目惚れされてしまったらしい。
だがタイプではないのでその子の告白をやんわりと断ったところ、キレた彼女にあること無いこと吹き込まれた親方に首にさせられてしまったんだとか。
「たしかにエッカは少し悪い感じがあるものね……」
「あっちに共感しないで下さいよ……俺、完全に被害者なんですから」
少し悪い感じのするイケメンで、好きになってしまった娘さんの気持ちも少しわかるアナスタジアであった。
「おっとごめん、脱線しちゃったわね。とにかくエッカしか雇えなかったから、これからしばらくは二人三脚で一緒に頑張っていきましょう。大丈夫、公爵令嬢の手慰みみたいなものだと思って気軽に構えてくれてればいいわ」
「はぁ、そんなもんですか……まあ大丈夫なら構いませんけど」
気の抜けた返事をするエッカだが、実際彼も公爵令嬢が急に始めた道楽程度にしか思っていないのだろう。
彼がきてくれたのも、クビを切られて新しい仕事を探すより前にアナスタジアが出していた求人にひっかかってくれたからだ。
最初はそれでいい。
アナスタジアが本気でやろうとしていることがわかれば、おのずと彼の態度も変わってくれるはずだ。
「それじゃあまずお酒造りについて、私が知ってる知識を話すわね。足りない部分があったら細くしてちょうだい」
「かしこまりました」
自身でも知識はあるが、この世界のそれとの差異をたしかめておく必要があるだろう。
エールは歴史が長く、古くは古代エジプト時代から飲まれている。
それほどまでに古くからあるのは、製造が簡単だから。
上面発酵場合、発酵の温度が15~20℃程度で作ることが可能で、かつ発酵に必要な期間も3~4日程度しかかからない。
とにかく製造が容易であるため、この国でもエールが作られているのだろう。
作り方を聞いてみると、どうやらこの世界には未だ酵母という概念がないようだ。
たしかに考えてみれば、そもそも最近の概念が明確に意識されるようになったのは細菌などが知られるようになった19世紀から。
知られていなくても無理はないかもしれない。
「でもそれなら、そもそもどうやってお酒を作っているのかしら?」
「そりゃあ今使ってる桶を使って酒を作ればいいんすよ」
アナスタジアが質問すると、驚きの答えが返ってくる。
酵母という考え方がないこの世界では、上の方の泡を保存したり、発酵されている麦汁から直に取るといった形で酵母を受け継いでいく。
それらを繰り返した結果木桶の中に酵母が住み着くようになり、その質によって良い木桶、良い発酵槽というものが生まれ、酒屋はそれらを使いながら酵母を使い回していき、酒を作っていくのだという。
非常に原始的だ……だがおそらくこれが、顕微鏡などがない世界では当たり前だったのだろう。
口噛み酒とかもあったわけだしね、とアナスタジアは前世の有名映画を思い出しながら一人頷いた。
「これから私が作ろうとしているのは新しいビール……この世界にあるビールとは根底から違うラガーというビールを造ろうとしているの」
「なるほどぉ……」
エッカはなんだかすごく適当であった。
彼自身、アナスタジアがまともに酒を造れるとは思っていないからだろう。
適当に話を聞いていれば金がもらえる楽な仕事とでも思っているのかもしれない。
ふふ……すぐに忙しくなるとも知らずに、のんきなものね。
内心でほくそ笑みながら、アナスタジアは続ける。
「でもそのためには酵母……つまりは麦汁を発酵させる素が必要なの。使われていた桶とかって用意できるかしら?」
「はぁ、まあそれくらいならなんとか……ただ最高級品ではないと思いますけど」
「ええ、それで構わないわ」




