プロローグ
「アナスタジア・フォン・ニブルへイム……お前との婚約を破棄させてもらう!」
バロニア王国王太子がサハラ・フォン・バロニアの声が、彼が主催したパーティー会場へと響き渡る。
アナスタジアは自身の婚約者であるサハラに指先を突きつけられ、その衝撃のあまり目がくらんで立っていられなくなり……そして唐突に、前世の記憶を思い出した。
(え、嘘、ここって……『プリンセス・アラモード』の世界じゃない!)
恋愛シミュレーションRPG『プリンセス・アラモード』、通称『プリアラ』はいわゆる乙女ゲーだ。
平民でありながら圧倒的な魔法の才能を持つ主人公のカーシャとプリンス達の魔法学院での恋愛模様を描く、ファンタジーな感じの学院ものである。
彼らは最初は平民の分際でと馬鹿にしていたカーシャの純朴さに引かれていき、そして最後には結ばれる。
そうそうこれでいいんだよと言わんばかりに皆大好きな要素の詰まった乙女ゲーだ。
彼女も前世では相当に『プリアラ』をやりこんでいたし、移植版やコンシューマー版の差異もしっかり楽しんだくらいには好きな作品だった。
(そして私が転生したのはカーシャじゃなくて、主要当て馬の一人のアナスタジア・フォン・ニブルヘイムと……)
そんな世界で彼女は主人公のカーシャではなく、アナスタジア・フォン・ニブルヘイムへと転生していた。
攻略対象の一人であるサハラ・フォン・バロニアの婚約者であり、ニブルヘイム家の公爵令嬢でもある彼女は、カーシャの前に立ちはだかり嫌みの限りを尽くすが、物の見事に玉砕する。
自分はそんな見事な当て馬悪役令嬢キャラに、転生してしまったと……。
いや、それ自体はいいのだ。
本当なら全然良くはないのだが、今はそんなことよりもっと重要なことがある。
(私もサハラも既に学院卒業してるし、というかもう私二十二才だし……これ、個別ルートじゃなくて、カーシャの逆ハーレムルートじゃない!)
『プリアラ』の分岐点は学院の二年生地点。
そこで一人の攻略対象を選び、様々な苦難を超えて在学中に二人でハッピーエンドを目指すというストーリーになっている。
だが全員の個別ルートをクリアした後に解放される新たなルート……通称逆ハールートだけは違う。
とりあえず攻略対象全員と結ばれる展開にするために、時系列や本来起こるイベントのフラグ管理はめちゃくちゃ。
攻略対象のトラウマやストーリーの齟齬も無視して全員と結ばれるこのルートは、ファンである彼女をして擁護できないくらいにめちゃくちゃなところが多い。
アナスタジアが三年次ではなく今婚約破棄を宣言されている時点で、カーシャと関係がありながら卒業時点で攻略が終わっていない……つまりは逆ハールートであることは確定的に明らか。
「ふふっ、どうしたアナスタジア。急に地面にくずおれて……俺が婚約破棄を申し出たのが、そんなに意外だったか? そんなに俺のことが好きだったのか……罪な男だ、俺も」
アナスタジアは自分の考えに没頭しすぎていたことに気付き、目の前に居る自身の婚約者であるサハラのことを見つめた。
金髪碧眼、高身長で次期国王の座が内定している王太子。
魔法の才能もピカイチな俺様系プリンスを見て……アナスタジアは思った。
(え、記憶を取り戻す私、なんでこんなのに惚れてたの?)
たしかに見た目はかっこいいし金も地位もある……だが、それだけだ。
ゲームの中だったらどんな時でも引っ張っていってくれる彼の男らしさは魅力的だったが、現実世界でサハラのような男と結ばれたら結婚生活は完全に詰むだろう。
全部自分が好きなようにやらないと気が済まない俺様系とか、間違いなくモラハラとかしてくるだろうし、そもそも婚約中に別の女に現を抜かしている浮気男の時点で論外である。
記憶を取り戻す前は一途に思い続けていたアナスタジアだったが、彼女は一方的に婚約破棄を叩きつけてきたくせになぜかドヤ顔をしているサハラを見て、一瞬で蛙化していた。
(でも……どうしようかしら)
三年生の時点で婚約破棄をされるサハラルートだったらいくらでも建て直しは聞くように思うが、アナスタジアは現時点で二十二才。
既にこの世界での結婚適齢期は過ぎている。
なぁなぁで婚約関係を続けられていたと思っていたところでの突然の放流。
こんなところで放り投げられて、私の人生一体どうなるのかしら。
しばらく考えて……あれ、と思った。
(別に独身でも良くない?)
なにせ彼女の前世はジム通いと晩酌が楽しみだった、普通の独身アラサーOL。
独り身の気楽さを知っている。
記憶を取り戻す前のアナスタジアにとってはサハラが全てだったが、冷静に考えてみれば別に結婚できなくてもどうということはない。
婚約破棄を受け入れるのであれば、話は大きく変わってくる。
どうやらサハラは泣いてすがってくる自分にもう遅いと離縁を叩きつけて優越感に浸りたいのだろうが……彼の思惑になど、乗ってやるものか。
「わかりました、婚約破棄を受け入れましょう。ですが……この年齢の女性の経歴に傷をつけるわけですから、それ相応の対応はしてくださるのですよね?」
「た……対応、だと?」
「はい、私のまっさらな来歴に×をつけた補償をしてください。一応私は公爵令嬢ですので、金銭的な補償は必要ありません。権利関係か税の優遇か、その辺りで一筆いただけませんか?」
♢♢♢
つい先ほどまで、サハラ・フォン・バロニアは人生の絶頂にあった。
自分のことを好きだと言ってくれているカーシャと結婚する目処が付き、これでようやく忌々しいアナスタジアと別れることができると胸を弾ませながら、婚約破棄を宣言したその瞬間までは。
アナスタジア・フォン・ニブルヘイムはいちいちと口うるさい女だった。
やれ次期国王としての自覚をだの、やれそのような振る舞いは王者がすべきことではないだのと小言を言われ続け、正直サハラは辟易としていたのだ。
彼女が影でこそこそ動き回るのも気に入らなかった(当然それがサハラのための根回しなどということを、彼は考えていない)。
そんなところに現れたのが、あのカーシャだった。
平民でありながら魔法の才に溢れ、魔法の実技の成績はピカイチ。
最初は生意気な……と思ったが、彼女のその純真さにサハラは惹かれてしまった。
彼女だけが自分をわかってくれるのだと気付けば、他の女など目に入らなくなってしまった。
本当であれば学院に在学中に結婚したかったのに待ってくれと言われ、今の今まで我慢してきたのだ。
彼は今までの鬱憤を晴らすためにも、泣いて懇願するアナスタジアに、自分には既にカーシャという愛している女がいると伝えて、その顔を絶望に染めてやるつもりだった。
国王である父が居ないタイミングを見計らってパーティーをセッティング。
ニブルヘイム家の使用人達を買収してアナスタジアの不貞の証拠をでっち上げ、婚約破棄に足るだけの物的証拠も作り上げている。
これで全て完璧……なはずだった。
だが現実はどうだ。
アナスタジアは自分に泣いて縋ることもなくけろっとしている。
それどころかむしろ自分に対し蔑みのような冷たい目すら向けてながら、婚約破棄のための条件を突きつけてくるではないか。
「もちろん王太子の身分ではできることとできないことがあるはずですから、一度陛下に掛け合っていただく形でも……」
「だ、ダメだッ! そんなことは!」
今回の一件、当然ながら父である国王シルド三世の許可は得ていない。
だがサハラは王太子、次期国王となる人間だ。
無理を聞かせることができないはずはない。
そしてカーシャは学院の成績はトップクラスであり、五つの属性を使いこなし、なんと詠唱短縮すらも使うことができる正真正銘の天才だ。
既に実際に冷蔵庫を始めとする新機軸の魔道具を開発して頭角を現しているし、一廉の人物になるまでにそう時間はかからない。
無理矢理婚約破棄できる状況を整えて既成事実を作れば後はなんとかなるはず。
サハラはそう信じていた。
だが……
(マズい……マズいぞ!)
そんなサハラの内心を知るはずもないアナスタジアは、手に持っていたビールに口をつけながら、奇しくも彼と同じ感想を抱いていた。
(マズい……マズいわ、これ)
テーブルから取り口に含んだビールの質は、極めて劣悪であった。
グラスに入ったビールの上には茶色いカスが残っており、ちょこちょこそれが口の中に入ってくるせいで非常にストレスが溜まる。
それに温度もぬるく、炭酸も弱い。
味自体も苦みが強くて、そのくせアルコール度数だけは妙に高いのも納得いかない。
前世でビールサーバーで出てくるキンキンのビールをビアガーデンで飲む美味さを知っているアナスタジアからすれば、このようなビールは到底受け入れられるようなものではなかった。
「決めた! 決めました、殿下!」
「なっ、何をだ!?」
「私、これからお酒を作ろうと思います。公爵家が造るお酒の酒税の免除をお願いできないかしら?」
(――しめた!)
ニブルへイム公爵家は酒造りのノウハウはまるでない。
広い平原を持つ公爵家は良馬の産地として知られており軍馬は一級品なれど、産業は基本的に脆弱。
この世界には既にいくつもの大酒造があり、今からビールを造り出したところでそれらに一貴族家が追いつくのは不可能に近いだろう。
であればほとんと瑕疵を負うことなく、婚約破棄を進められる……。
♢♢♢
(……とでも、思っているのでしょうね)
アナスタジアにはそんなサハラの思惑など、完全にお見通しであった。
「……いいだろう」
内心の笑みを噛み殺し、精一杯の渋面を作りながら一筆をしたためているサハラは、その様子をアナスタジアが冷徹に見ていることに気付かない。
前世では酒好きが高じて醸造所や工場見学を行っていた彼女には、酒造に関する基本的な知識がある。
そしてこのファンタジーな世界には、物作りを大いに助けてくれる魔法が存在している。
サハラはアナスタジアがビール造りを始めるとばかり思っているようだが、彼女は当然それだけで終わらせるつもりは毛頭なかった。
(蒸留器を作って焼酎とウイスキーとウォッカやラムも作りたい! それにお米を探して日本酒も作りたいし、リュウゼツランからテキーラも作りたいわ!)
この時のサハラは、自分が後世でバロニア王国衰退の原因を作ったと記されるようになることを知らない。
王国衰退の原因が、後世『酒の女神』と讃えられるアナスタジアから酒税が取り立てられなくことにあるなど、想像すら付いていなかった。
彼はアナスタジアが持つお酒への情熱を……日本人の飲食に関するこだわりを、あまりにも軽く見ていたのだ。
こうしてアナスタジアとサハラの婚約破棄は無事当人達によって承諾されることとなった。
そしてそんなことをまったく気にしていないアナスタジアは翌日から、さっそくビール造りへ取りかかるのであった。
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