第22話 始まり、そして終わり
「レクト!」
ディークが叫んだ。だが駆け寄る暇はなかった。上位魔物の次の一撃が、ディークに向かって振り下ろされる。ディークは盾で受けた。盾が軋む。腕が軋む。地面に亀裂が走った。
「ディーク!」
エルマが短剣を投げた。上位魔物の目を狙った精密な一投を、影は音もなく呑み込んだ。何度も夫婦を窮地から救ってきた光刃が、闇に消える。
セレスティアが再び氷の魔法を放った。今度は大規模な──氷の嵐。周囲の気温が一気に下がり大気中の水分が凍りつく。味方を巻き込むことさえ厭わない渾身の秘奥義に、上位魔物の影が白く凍り始めた。
一瞬の隙。セレスティアの目が光った。凍った影の隙間から本体に向けて、氷の槍を放つ。
──届いた。
氷の槍が上位魔物の胴体を貫く。六つの赤い目が怒りに燃えた。
次の瞬間、影が爆発した。
凍りついた影が砕け散り、氷の破片が弾丸のように四方八方に飛び散った。セレスティアは咄嗟に氷の壁を張ったが、破片の一つが壁を貫通し、彼女の脇腹を抉った。
「がっ……!」
セレスティアが膝をついた。軽鎧の下から血が溢れる。
「セレスティア!」
ディークが盾を構えたまま後退し、セレスティアの前に立った。エルマが駆け寄り、ポーチから薬を取り出して傷口に押し当てる。
「──深い。でも臓器は外れてる。止血すれば……」
「エルマ、後で頼む。──まだ来るぞ」
上位魔物は止まっていなかった。氷の槍で貫かれた胴体が、ゆっくりと修復されていく。六つの目がぎょろりと動き、ディークを捉えた。
レクトが一撃で倒された。セレスティアが重傷を負った。ディークとエルマが二人で立ち向かっているが、勝てる相手ではない。分かっている。全員が分かっている。
──何か出来ることは。何か──。
ライアの胸の奥で、魔力が暴れている。心臓が破裂しそうなほどの鼓動。身体の奥から何かが噴き上がろうとしている。だが、それをどう使えばいいのか分からない。どうすれば引き出せるのか分からない。
魔力はある。確かにある。なのに──
「坊主!」
ディークの声が飛んできた。
「セレスティアを連れて逃げろ!」
「でも──!」
「俺たちが時間を稼ぐ! 今すぐ行け!」
エルマがライアの方を振り返った。その顔は血と土に汚れていたが、目だけが不思議なほど澄んでいた。いつかこんな時がくると、心のどこかで覚悟していなければ出来ない表情だった。
「ライアくん。お願い」
エルマの声は、最初にライアに魔界の歩き方を教えてくれた時と同じ、穏やかな声色だった。
「──行って」
ディークがエルマの前に立った。盾を構え直す。もうヒビだらけだった。
「坊主。──怖いまま進め。いいな」
それが、ディーク・ヴァルツの最後の言葉だった。
ライアはセレスティアを背負った。激痛に顔が歪む。血が背中に滲む。セレスティアの朦朧とした意識を、わずかな温かみが繋いでいた。
「……何を、して……」
「逃げます。掴まっていてください」
ライアは走った。振り返るな。エルマに言われた──振り返らずに逃げろと、最初に教わった。
背後で轟音が響いた。盾が砕ける音。エルマの叫び声。そして──静寂。
走りながら、涙が零れた。止まらなかった。足は動いている。身体は前に進んでいる。でも心の中は後ろを向いている。あの二人が、自分を逃がすために残った。
──影の気配が、背後に迫っていた。
追ってくる。ディークとエルマが稼いでくれた時間は、もう尽きてしまった。影が背後から覆いかぶさろうとしている。セレスティアを背負ったまま、逃げ切れるはずがない。
「……降ろして」
セレスティアが呟いた。
「私を降ろしなさい……あなただけなら……」
「黙っていてください」
「でも──」
「黙っていてください!」
ライアは走り続けた。足が動く限り。息が続く限り。降ろせるはずがない。ここでセレスティアを降ろしたら──ディークとエルマが命がけで作ってくれた時間が、無駄になる。
背後の気配が膨れ上がっていた。影が迫っている。追いつかれる。分かっていたが、足を止めるわけにはいかなかった。
セレスティアの意識は、ほとんど残っていなかった。ライアの背中に頬を預けたまま、薄れゆく視界でただ後方を見ていた。
影が、すぐそばまで迫っていた。六つの赤い目が、獲物を仕留めるために大きく開かれている。もう数歩。あと数歩で、影の腕が二人に届く──
──その時、セレスティアは見た。
ライアの身体から、黒い靄のようなものが立ち昇った。夜の闇より深い、暗黒の気配。それはライアの背中から溢れ出し、二人を守るように広がっていく。
上位魔物の動きが止まった。
六つの赤い目が、一斉に見開かれた。そこに浮かんでいたのは──恐怖だった。
あの圧倒的な存在が、怯えている。ライアの身体から溢れ出す何かに、怯えている。
上位魔物は後退した。影の身体がぐにゃりと歪み、空に溶けるように消えていく。数秒の後、気配は完全に消え去っていた。
「──なに、が」
それがセレスティアの意識に残った最後の映像だった。理解する前に、視界が暗転する。
◆
ライアは走り続けていた。なぜ襲われていないのか、背後の気配がいつ消えたのか、分からなかった。ただ、気がつくと追われている感覚がなくなっていた。足が動いているうちは止まれなかった。止まったら、もう二度と立ち上がれない気がした。
身体中が痛い。指先まで痺れている。だがセレスティアの体温はまだ背中にある。生きている。今はそれだけでいい。
やがて、足が止まった。止めたのではない。止まったのだ。膝が崩れ、身体が傾き、近くにあった岩壁に肩から倒れ込んだ。セレスティアを落とさないように、最後の力で背中を庇いながら、ずるずるとその場に座り込む。
──どれくらいそうしていたか分からない。
ライアは重い身体を起こした。セレスティアの傷口を確認する。エルマが押し当てた薬が効いているのか、出血は止まりかけていた。だが顔は蒼白で、意識はなかった。
慎重に少しずつ進んだ道のりだった。罠がないか確認し、地図を書き、安全な野営地を探しながら歩いた距離。だが今は慎重さなど構っていられない。ライアはセレスティアを背負い直し、走った。何時間走ったか分からない。足が棒になり、息が焼け、視界が霞んでも止まらなかった。
──境壁が見えた時、膝から崩れ落ちそうになった。だが倒れるわけにはいかない。背中に三人の想いを背負っている。




