第23話 絶望を拾い集めて
境壁を越えた瞬間、空気が変わった。柔らかくて優しい、人間界の空気だ。
境壁の人間界側には、ギルドの前線拠点が設けられていた。武装した兵士と、ギルドの職員が数名。パーティの帰還を管理する詰所だった。
「おい、誰か来たぞ!」
見張りの兵士が叫んだ。ライアがセレスティアを背負ったまま境壁から現れた姿を見て、数人が駆け寄ってくる。
「怪我人だ! 治療班を呼べ!」
「遠征パーティか? 他のメンバーは!?」
ライアはセレスティアを担架に降ろした。職員たちが手際よく傷口を確認し、薬を塗り、包帯を巻いていく。顔色は死人のようだったが、呼吸は安定していた。エルマの応急処置が効いている。
「他のメンバーは?」
職員がもう一度聞いた。
「……三名。まだ、向こうに」
「生存の可能性は」
ライアは答えられなかった。答える代わりに、首を横に振った。
職員の顔が強張った。ギルドの人間は、その首の振り方の意味をよく知っている。
「……了解しました。報告書は後日──」
「すみません」
ライアは職員の言葉を遮った。
「戻ります」
職員が目を見開いた。周囲の兵士たちも、ライアの方を見た。
「戻る……魔界に、ですか?」
「遺品を回収してきます」
「正気ですか……? あなた自身、相当な消耗を──」
「行きます」
職員は何か言いかけたが、ライアの目を見て口を閉じた。止めても無駄だと悟ったのだろう。
「……止める権限は私にはありません。ですが、何があってもギルドから人を出すことは出来ません。魔界では全てが自己責任です。──それは、ご存知ですね」
「はい」
ライアは踵を返した。
境壁が、目の前にある。
逃げ出してきたばかりの、あの境界線。その向こうには灰紫の空と、赤黒い大地と、仲間を殺した化け物がいる。
足が、震えた。
──怖い。
当たり前だ。死にかけたばかりだ。魔物に襲われ、仲間が目の前で死に、やっとの思いで逃げ帰ってきた。なのにもう一度あの中に入る。正気の沙汰ではない。
ディークの声が蘇る。
──怖いまま進め。
ライアは一歩を踏み出した。
境壁を越えた。空気が重くなる。色が変わる。匂いが変わる。全てが、数分前と同じだった。身体の奥で魔力がざわめく。あの不快な振動が戻ってくる。
だが──魔物の気配はなかった。
来た道を辿る。足跡が残っている。自分がセレスティアを背負って走った跡だ。蹴散らされた石、引きずった靴の痕、そして点々と続く血の跡。セレスティアの血だ。
足跡を逆に辿っていく。一歩ごとに、あの場所に近づいている。心臓が喉の奥まで上がってきているような感覚だった。
やがて──見えた。
戦闘の痕跡は、想像よりも広い範囲に及んでいた。地面が抉れ、岩が砕け、赤黒い土が黒く焦げている。ディークの盾の破片が散乱していた。罅だらけだった盾が、今は粉々になっている。最後まで構え続けたのだろう。破片の一つ一つが、そう語っていた。
ディークは、盾の残骸のすぐ傍に倒れていた。
仰向けだった。灰色の髪が土に汚れ、日に焼けた肌は蒼白になっている。革鎧はずたずたに裂けていたが、その右手は──何も握っていなかった。盾を手放したのではない。盾ごと砕かれたのだ。それでも倒れた姿勢は、背後を守るように両腕を広げていた。
エルマを、守っていた。
エルマはディークのすぐ後ろに倒れていた。ポーチの中身が散乱している。薬品の瓶が割れ、液体が土に染み込んでいた。最後までディークを支えようとしていたのだろう。夫婦は隣り合って倒れていた。
ライアは二人の前に膝をついた。涙が落ちた。止める気もなかった。
「……ディークさん。エルマさん」
声が震えた。
「……二人が生きた証を、必ず持ち帰ります。皆が、二人を忘れてしまわないように」
返事はない。当たり前だ。
連れて帰りたかった。三人とも、ここに置いていきたくなかった。だが一人では無理だった。身体はとうに限界を超えている。丸一日以上かけて慎重に進んだ道のりを、セレスティアを背負って走り続けてきた。もう腕に力が入らない。一人分の遺体を引きずることすら、今の身体では出来なかった。
──済まない。
ライアは心の中で三人に頭を下げた。せめて遺品だけでも持ち帰る。それしか、今の自分には出来なかった。
ディークの懐を探った。革の財布と、使い込まれた手帳。手帳の中には探索記録が几帳面に書き込まれている。最新のページに、今回の遠征の記録が途中まで書かれていた。
エルマの遺品は、空になったポーチと、ディークと同じ意匠が施された手帳。そして──首元にもう一つ、細い鎖が残っていた。小さなロケットペンダント。開くと、中に少女の肖像画が入っていた。娘だろう。ライアより少し年下の少女だった。
ライアは首元からペンダントをそっと外し、ポケットにしまった。
レクトの遺体は、少し離れた場所に散らばっていた。
直視するのが辛かった。だが、目を逸らすわけにはいかない。こいつは嫌な奴だった。確かに嫌な奴だった。
でも逃げなかった。勝てるわけがない相手に向かって飛び出した。冒険者として死んだ。こうして生きている自分より、よほど立派に死んだ。
折れた曲刀の柄を拾い上げた。レクトの遺品はこれだけだった。他には何も見つからなかった。家族がいるのかどうかすら、ライアは知らない。
「……『烈風』のレクト」
嫌な奴だった。でも、その二つ名を誇らしげに名乗った顔だけは、なぜか忘れられない気がした。
ライアは三人の遺品を抱え、立ち上がった。
今度は一人だ。背中にセレスティアはいない。代わりに、三人分の遺品がポケットの中で重かった。硬貨よりも軽い金属の塊が、鉛のように重かった。
境壁を越えた時、膝から崩れ落ちた。
人間界の青い空が、滲んで見えた。
握りしめた銀のロケットが、太陽の光を受けてきらきらと光っていた。




