第20話 魔界
魔界の入口は、王都から北西に馬車で三時間ほど移動したところにあった。
人間界と魔界を隔てる境界線──通称「境壁」。目に見える壁があるわけではない。ただ、ある一線を越えた瞬間に空気の質が変わる。色が変わる。匂いが変わる。それが境壁だと、ディークは出発前に教えてくれた。
「いいか、坊主。境壁を越えたら、人間界のルールは全て捨てろ」
ディークはライアの隣を歩きながら、淡々と語った。
「見慣れた植物があっても触るな。聞き覚えのある音がしても安心するな。何もかもが嘘だと思え。魔界では、お前の常識がお前を殺す」
「地面も信用しないで。魔物が何か仕掛けている可能性があるから、必ず前の人が踏んだ場所を踏むこと」
エルマが横から補足した。その声は穏やかだったが、言葉の一つ一つに死線を潜った重みがあった。
「あと、これが一番大事──逃げろと言われたら、振り返らずに逃げて。理由を聞く暇はないの」
「はい」
「おいおい、こんな奴に何教えたって無駄だろ」
レクトが後ろから口を挟んだ。
「魔法も使えねえ、戦闘経験もねえ。こいつに出来ることなんざ荷物持ちくらいだ──なあ、万年E級?」
ライアは答えなかった。レクトの言葉は正しい。反論する材料がない。
「レクト、チームワークを乱して生存確率を下げるのがあなたの役割?」
セレスティアが前を向いたまま言った。レクトは舌打ちしたが、それ以上は何も言わなかった。
エルマが小さく溜息をつく。
「気にしないで。ああいう人はどこにでもいるから」
「大丈夫です。慣れてますから」
半分本音で、半分強がりだった。レクトが言っていることは事実だ。だからこそ刺さった。
「ライアくん、家族はいるの?」
「母と、妹が一人。コレア村に」
「そう……うちにも娘が一人いるの。あなたと同じくらいの歳よ」
エルマは少し目を細めた。
「今頃、家で晩ご飯の支度でもしてるかな」
ディークが肩越しに振り返った。
「エルマ、余計なことを言うな。帰れなくなるぞ」
「あら、縁起でもない。──でもそうね、帰ってからの話は帰ってからしましょう」
エルマはそう言って笑った。その首元で、銀色のロケットペンダントが揺れている。
◆
境壁を越えた瞬間、ライアの身体が総毛立った。
空気が変わった──というのは、ディークの説明を聞いて覚悟していた。だが、実際に体験すると想像とは全く違っていた。変わったのは空気だけではない。重力すら、僅かに重くなったように感じた。
空の色が、灰色がかった紫に変わっていた。太陽は見えるが、その光は薄いヴェールを通したように弱まっている。地面は硬く乾いた赤黒い土で、何かに抉り取られたような歪な形の岩が点在していた。植物はある。だが、どれも人間界のものとは形が違う。色が違う。まるで別の世界の植物が、間違えてここに生えてしまったかのような違和感があった。
「全員、隊列を維持しろ」
ディークの声が低く鳴った。先程までの穏やかさは完全に消えている。
「先頭は俺、最後尾はエルマ。セレスティアは俺の後ろ、レクトはその後ろ。ライアはレクトの後ろだ。間隔は三歩以内を保て。歩を乱したら死ぬと思え」
全員が無言で従った。レクトですら、文句を言わなかった。境壁を越えた瞬間に変わったのは景色だけではない。パーティの全員の顔つきが変わっていた。
「……ソルブレアちゃんが言ってた通りだ」
「何か言ったか」
「いえ……魔力が濃いな、と」
「ここはまだ入口だ。奥に行くほど濃くなる。人間の身体は元々魔力が薄いからな、慣れるまでは気分が悪くなるかもしれん。我慢しろ」
ディークの足取りは迷いがなかった。何度もこの道を歩いてきたのだろう。地面の状態を確認し、岩の影を警戒し、風の匂いを嗅ぐ。全ての動作に無駄がなかった。エルマも後方で同じことをしている。夫婦で前後を固め、間の三人を守る布陣だった。
一時間ほど進んだ頃、ディークが不意に足を止めた。
ただそれだけの行為に──全員が凍りついた。ディークが拳を上げる。止まれの合図だ。
静寂。
風の音すらない。さっきまで微かに聞こえていた虫の鳴き声のようなものも、完全に消えている。
「……ディーク?」
エルマが小声で呼んだ。
「……何もない」
「そうね──何もない」
二人の声のトーンが、ライアには分からない緊張を帯びていた。何もないことの何が問題なのか。ライアには分からなかった。
「……進むぞ。警戒を最大にしろ」
ディークが再び歩き出した。足音を殺している。エルマも同様だった。レクトも、流石に口を閉じて周囲を警戒していた。セレスティアは剣の柄に手をかけていた。
さらに一時間。
何も起きなかった。
魔物の影一つない。探索記録には、境壁を越えて三十分もすれば魔物と遭遇すると書かれていた。なのに──何もいない。
「ディーク」
エルマが前に出てきた。夫婦が並んで歩く。小声で何かを交わしている。ライアには聞き取れなかったが、二人の表情が険しいのは見て取れた。
「おい、何をひそひそやってんだ」
レクトが苛立った声を上げた。
「静かにしろ」
ディークの声は鋭かった。レクトが黙る。
「……全員、聞け。ここまで魔物と一度も遭遇していない。入口付近でこれは異常だ」
「異常って……ラッキーじゃねえのか。面倒がなくて」
「違うわ」
エルマが首を振った。
「この規模で魔物がいないなんて、八度の遠征で一度もなかったわ」
「……嫌な予感がするな」
ディークの声が低くなった。
「理由は分からん。だが、理由が分からないことが一番怖い。──警戒を緩めるな。何もないことは、安全を意味しない」
ディークの言葉に全員が頷いた。




