陰り1
明かりを消してから気付く。きちんと針をピンクッションに刺しただろうか。リアナが間違えて針を手に刺してしまったら大変だ。
踵を返し、テーブルへと近付こうとした時、首筋に鋭い痛みが走った。視線を下げるとナイフの刃が見える。後ろから身体を拘束されてしまった。
「……お前がミエラか。報告通り、間違いない」
冷静すぎる低い男性の声だ。何が起きているのか理解できない。腕に力を入れると、男性の腕はさらに私の身体を締め付ける。
「主の命だ。騒がないでもらおうか」
もしかして、誘拐――ううん、殺されるかもしれない。頭に過ぎると、顔から、身体から血の気が引いていく。
私の身体を引きずるようにして、男性は窓を目指す。駄目だ。このまま連れ去られる訳にはいかない。足に力を入れ、何とか抵抗を試みる。
それも長くは続かず、片足からパンプスが脱げてしまった。一気に足に力が入らなくなる。
助けを求められるのは、あの人しかいない。
「……リアナ!」
震えながら、何とか叫び声を上げる。それも束の間、首筋、そして右腕に火を吹くような痛みを感じたのだ。耐え切れず、その場に倒れ込む。
人の気配は遠ざかっていき、部屋に外の空気が流れ込む。寒い。誰か助けて。悲鳴も上げられず、何とか這ってベルへと辿り着いた。それを左手でなぎ倒す。床に転がり落ちたので、いつもよりも激しいベルの音が鳴り響いた。
お願いだから誰か来て。右腕を庇いながら顔をしかめる。
どうして誰も来てくれないのだろう。絶望に打ちひしがれる。永遠に感じられるような時が過ぎ、ようやく部屋の扉が開かれた。リアナの悲鳴が響き渡る。
「誰か……! ミエラ嬢が……!」
リアナは一瞬固まったものの、すぐに抱き締めてくれた。その温もりの中で荒い息を繰り返す。
怖かった。酷く怖かった。今はもう何も考えられない。ただただリアナの腕を必死に掴んでいた。
明るくなった自室の周りは騒然となり、使用人たちが絶え間なく出入りする。
そこに白衣を纏った男性が現れた。
「私は医者です。もう大丈夫ですからね」
穏やかな瞳に、小さく頷いてみせる。
速やかに傷口には包帯が巻かれていく。
「一体、誰がこんなことを……。酷い傷だな……」
医者が呟いた言葉が脳に浸透していくようだった。
この事件の一報は、すぐにルーゼンベルク公爵家に伝えられたらしい。泣き出しそうなヒルダと、赤髪の男性が私の元に駆けつけてくれた。
「ミエラ! 何があったのぉ!」
「ヒルダ、落ち着いて」
「だってぇ!」
二人はしゃがみ込み、私の顔を覗き込む。男性の眼鏡の奥にある水色の瞳は、悲しげに揺れていた。
「大丈夫ですよ。私とヒルダが来ましたから。クローディオもこちらに向かっていますからね」
この人がセドリックなのだろう、とぼんやりと思う。小さく頷き、無言で唇を噛み締めた。
私を襲った男性は誰だったのだろうとか、何が目的だったのかなど、考える余裕もない。襲われた恐怖の余韻を引き摺り、身を縮める他になかった。
傷の処置も終わり、医者はお辞儀だけをして去っていく。セドリックは立ち上がり、歩みを止めた医者の元へと走り寄る。二人で何か話すと、セドリックは苦虫を噛み潰したような表情でこちらに戻ってきた。
「何を話してたの?」
ヒルダが小さく首を傾げると、セドリックは首を横に振る。
「後で二人になったら話しましょう」
私に聞かせられないような話なのだろうか。余計に不安が広がっていく。それでも不満は言えずに言葉を飲み込んだ。
「ミエラ、ベッドに行きましょうか。私に掴まって」
半ばセドリックに担がれてベッドへと移動する。ベッドに座り込んで息を吐き出すと、途端に傷が痛むように感じられた。
「痛い……」
弱音まで漏れてしまう。ヒルダは錠剤を取り出し、私の手の平の上に乗せてくれた。
「鎮痛剤だよ。飲んで」
言われるがままに薬を水で流し込む。すぐに効く訳でもなく、痛みが引いた気はしない。眉をひそめて痛みに耐えていると、一際大きく扉の開く音が響く。私が一番見たいと思っていた顔だ。感情の糸はぷつりと切れてしまった。
「ミエラ!」
「怖かった……。怖かったよぉ……!」
駆け寄ってきてくれたクラウに飛び付き、わんわんと泣き声を上げる。クラウも黙って私の背中を撫でてくれた。午前一時の時計が腹に響くように鳴る。
どれくらいの間、そうしていただろう。ヒルダが横から水の入ったグラスを差し伸べてくれた。
「ミエラ、少しでも飲んで」
受け取ると、ちびちびと飲み干す。喉が渇いていたのが分からないほど、私の感覚は麻痺していたらしい。
「ミエラ、今日は寝てないでしょ? 少し寝よっか」
ヒルダはグラスを受け取りながら、そっと微笑む。クラウとセドリックも頷いてくれたので、その言葉に甘えて休ませてもらうことにした。クラウが布団を持ち上げてくれたので、そっと身体を横たえる。
「三人は……寝たの?」
「俺たちのことはいいから」
「でも……」
「でもじゃない。今日くらい、俺たちの言うことを聞いて欲しい」
クラウが涙を滲ませて言うので、何も言い返せなくなってしまった。瞬きをしていると、私の片手を温かくて柔らかなものが包み込む。その温もりが心地よくて、自然と瞼は視界を閉ざしていた。
「ごめん……」
暗闇の中で、クラウの声が小さく聞こえた気がした。




