便り3
心細い夜を越えて、朝がやってくる。周りに見知った人はいないので、心の空白は埋まらない。
静かに朝食を摂り、自室のソファーで溜め息を吐いた。
今日一日、何をして暇を潰せばいいのだろう。ここには音楽も刺繍もない。寂しさを紛らわせる話し相手もいない。
「地球に帰りたい……」
ぽつりと呟いた言葉に、自分でも驚いてしまった。この世界に残ったのは私の意思なのに。脳裏にクラウの笑顔が霞んで消えた。途端に申し訳なさが心に沸いてくる。
こんなことを考えてしまってごめんなさい。ほんの少しだけ涙が滲む。
そんな時に、廊下から軽快な足音が聞こえ始める。どうやら私の部屋に近付いてきているようだ。そして、ノックがされる。
「ミエラ?」
顔を覗かせたのはヒルダだった。私を監視しに来たのだろうか。思わず拳を握ってしまった。
「そんな顔しないでよ。傷付くなぁ」
ヒルダが苦笑いするので、私も頭を掻いてみる。どうやら監視が目的ではないらしい。とはいっても警戒心は完全には解けない。
ヒルダが隣に座るので、右半身がカチコチに固まってしまう。
「ちょっと話でもしようかなって思ってさ」
「話……ですか?」
「うん。ちょっとした昔話」
ヒルダはそっと目を伏せると、口元を緩めた。
「私、最初はさ、旦那のことは目に入ってなかったんだよ。私は……王子様を追いかけてた」
「王子様……」
言われても、いまいちしっくりこない。恐らく、その王子様を実際に見たことがないからだろう。想像してみるけれど、金髪に青い瞳――まるでクラウのような人しか思い描けなかった。
「そ。従兄だから結婚なんてできないのにね。あの時の私は、世間を分かってなかったんだと思う」
王子様が従兄――理解していたはずなのに、萎縮してしまう。肩が内側に入っていくのが分かった。
「そんなに縮こまらないでよ。ミエラだって、王様と同じ地位だったんだから」
「わ、分かってます、けど……」
ほとんど実感がない。隣を見る勇気もなく、自分の膝を見詰めてしまった。
「もう、話を続けるよ? 想うだけ想って、結局、王子様は幼馴染と結婚しちゃった。それで、慰めてくれたのが今の旦那」
「旦那さんは……最初からヒルダさんを?」
何とか声を振り絞ると、ヒルダは大きな声を上げて苦笑いをする。
「そんな他人行儀な呼び方はやめてよ。お姉様でいいよ。とりあえずはね」
「はい……」
お姉様だなんて呼べるだろうか。私を品定めしている人なのに。でも、少しは私を認めてくれ始めたのだろうか。自信はないけれど、小さく頷いていた。
「私も結婚して、最初は戸惑ったんだよ? ここが駄目っていうんじゃなくて、隙がなさすぎて叱られた。そんな義両親も流行病で亡くなって、寂しかったなぁ」
ヒルダが義両親に叱られていたなんて。公爵令嬢なのだから、完璧を求められるのだと思っていた。
意外な事実に声が出そうになった。
「私はちょっぴりだけ、ミエラが羨ましいよ。最初から好きな人と結ばれようとしてるんだから。って言っても、私はセドリックと結婚できて、すっごく幸せなんだけどね」
セドリック――たぶん、ヒルダの旦那の名前なのだろう。私も幸せになれるのだろうか。その未来が酷く遠くに見えて、目が眩んでしまう。
「で、ここからが本題。ミエラ、クローディオのどんなところが好き?」
改めて聞かれると、頭が毛糸のように絡まって解けなくなってしまう。もう一度、クラウの笑顔を思い出して胸に片手を当てる。
「優しいところと、自分の芯を持ってるところと……えっと、全部です」
「へぇ……」
ヒルダは少しだけ目を見開き、驚きの表情をみせる。何をそんなに驚いているのだろう。私が小さく首を傾げると、ヒルダは「あはは」と声を上げた。
「そんなこと言う令嬢なんて、ミエラだけだよ。サファイアの令嬢たちの間では、クローディオってミステリアスで通ってるからね」
ミステリアスなんて、私のイメージとはかけ離れている。あまりの違いに、言葉すら出てこない。
「え……」と小さく声だけ漏らすと、ヒルダは困り顔で目を細めた。
「正直言って、ミエラの話が信じられないくらいなんだよ。別れ際の二人を見てたら、信じさせられるけどね」
とりあえず、私たちの仲はしっかり伝わっただろうか。胸が激しく脈打ち、唾を飲み込んでしまった。
ヒルダは昼の十二時を回る前に帰ってしまった。クローゼットの中にある布や糸、毛糸は使ってもいいとのことだったので、魔導師だった頃にフレアから教えてもらった刺繍をしてみることにした。クローゼットの中を一人で引っ掻き回し、資材を見つけ出す。
「刺繍枠と針と糸と……うん、これでいいよね」
きっと、魔導師生活との別れの際にクラウに渡した勿忘草の刺繍は持ち帰れなかっただろう。せっかく喜んでくれたのに。改めて、新しいものをプレゼントしたい。
ハンカチの四隅に勿忘草を描き、花びらから刺繍していく。
針を布から抜く時に鳴る太鼓のような音と時計の針の音だけを聞きながら、手元に意識を集中する。休憩やストレッチも忘れない。
夜には角の二つの勿忘草が完成した。残りは明日以降に完成させよう。
右手に蝋燭を、左手にハンカチを持ち、ベッドへとゆっくりと移動する。傍らのスツールの上にあるベルに触らないように、蝋燭とハンカチを置いた。
息を吹き掛けると、蝋燭が揺らめいて掻き消える。一瞬にして部屋は薄暗がりとなった。




