2 図書館の夜明け
『彼女はいつも、眠れないらしい――』『夜な夜な泣いて、閉じこもってたって――』
数々の、風に流されゆく噂。その風をひとつまみ、聞き屋の青年が拾い上げた。それはほんの偶然で、客が漏らした愚痴のひとつ。あるいは、噂好きのおしゃべりな客が、ペラペラと語った『おそろし話』。店の中でからんと、玄関のベルが鳴った。
偶然は、必然を呼び寄せる。時と場所を選ばずに。
「――よお、リガ。ギルドからの要請」
「断る」
「諦めろ。恒例行事だ。えーっと……ラウドラン郊外の、廃墟になった図書館だってさ」
「了解。ちょうど『色々聞いてあった』ところだ」
「へっ?」
そうして。聞き屋と護衛は、夜の廃墟――朽ちてボロボロのまま放置された図書館へと、向かうことになった。
ラウドラン郊外の廃村は、まるで整備が行き届いておらず、あるがままがボロボロに捨て去られていた。どこに怨念が潜んでいてもおかしくはない、そんな気さえする、曇り空の夜更け。
きょろきょろと辺りを観察するコノエを尻目に、リガは古びた地図を広げ、場所を確認しながら足を進めていた。
「もう少し歩いて、東の方」
「だいぶ歩いたと思うが、気のせいか」
「……気のせいじゃ、ない」
リガの金眼が、闇夜の中で光る。ようやく地図から顔を上げた青年は、夜に溶けそうな黒髪と黒いローブをばさりとはためかせると、年季の入ったブーツで地面をトントンと蹴った。その様子を見たコノエは、興味深げに周囲を見渡す。
「見えねえけど……あー……あるっぽい?」
「ぽい、じゃない。ずっと、同じ場所を歩いてる」
「んん? するってーと……」
「地面の色と感触。さっきから、ずっと同じだ」
へえ、と何故か嬉しそうに笑ったコノエは、刀をちゃきりと握り、姿勢を低くした。旋風を起こしながらの回転斬りは、視界の悪い霧――瘴気を一瞬だけ払いのけ、本来の景色をあらわにさせる。「みぃつけた」かくれんぼをする子供のように笑うコノエ。
すぐに瘴気に隠れようとする『扉』へと、リガが手のひらをひたりとあてた。
「……あんたの話を聞きにきた。馬鹿正直に惑わされる程度には、邪念がないことを保証しよう」
夜更けの空の雲が、風に流され、煌めく星を見せびらかす。星明かりを受けて、さざめくように黒い瘴気が引いていく。押したわけでもないのに開いた扉の奥から、更に強烈な瘴気が漏れ出ていた。
「行くかぁ。よりによってこんな時間のご訪問よ」
「夜だから、行くんだ」
「へいへい」
真面目な返事に肩をすくませたコノエは、迷わず先導して中へ入っていくリガの背中を追った。
「力が弱まる日中じゃなくて、むしろ強まる夜に、怨念のテリトリーに突っ込むなんて……どういう神経なの……」
後をつけていた金茶髪の女剣士――シーラは、心底理解できないと言いたげに、恐る恐る二人を追いかけた。
ラウドラン冒険者ギルド直々の、監視員として。
玄関口の左には、貸出履歴の記入書。黒ずんでボロボロなそれは、もはや紙としてすら役割を果たさない。右手の壁に貼られた館内案内図は、かろうじて線が見える程度で、一部が焼け落ちていた。
上品な絨毯の残骸は、灰となって足元に転がり、リガのブーツに踏み潰される。更に一歩、もう一歩。踏み出すたびに何かが擦れ、潰れ、かさりと音を立てる様は、リガを陰鬱な気分にさせた。
『して……え……し……』
中心にある司書スペースから、黒い瘴気が溢れている。四方八方、歪んだ二階層の構造で、圧巻の本棚がずらりと並び、それらはざわざわと蠢いていた。
通路が歪み、階段が捻れ、がたがたと震える本棚もあれば、文字が滲んで蠢く本棚もある。
黒い瘴気で視界が悪い中、もやがかった天井部分から、薄い月明かりが図書館を照らす。薄汚れつつも淡い光の中で、埃がふわふわと舞い踊る。
黒々とした瘴気がゆるやかな竜巻のように渦を巻き、コノエの着物の裾を揺さぶり、リガの黒いローブを撫でる。
滲む、こちらへの警戒。なんの被害もなく招き入れられただけ、歓迎はされている方だろう。
ほほう、とコノエが異様な館内の有り様を観察し、顎に指を絡めて微笑んだ。
「これも幻覚か。いいね、面白い。雑談できる子でも見えてこないかなぁ」
「……またそれか」
「恋バナじゃないだけマシじゃね?」
「そういう問題じゃない」
軽快なやり取りは、あたかも周囲の歪みや瘴気の渦を『どうともない』と言わんばかりだ。かけらも動じず、瘴気の息苦しさや重圧すら気にかけていない。確かに二人を蝕んでいるにも関わらず、だ。
出入り口からそっと伺う、運良く入れただけのシーラが、信じられない思いに駆られ、唖然としながら二人を見守る。
『して……か、え……』
「ごめん。このおっさんが、余計な話題を」
「嫌いじゃねえだろ?」
「俺は『聞き屋』だ。あなたの話を、聞かせて欲しい」
いよいよコノエを無視し、本命の『怨念』に話しかけるリガ。
淡々と、しかし穏やかな口調で、寄り添うような優しさがそこにあった。ざわり。館内の空気が荒み、ずっしりと肌を押しつぶす重さ。荒れ狂う『怨念』は、かなしくないた。
『かえして――かえして――!』
司書の事務机の上に倒れていた羽根ペンが、ぶわりと舞い上がる。瘴気の渦に飲まれたそれは、行き場を失って、ただ宙を舞い続ける。遠くに滲む空は、少しずつ白んできていた。
「……かえして、ほしいよなぁ」
着物の袖を重ねて、かすかに見える月の光を見上げながら、コノエは自嘲気味につぶやいた。コノエ? 不思議そうにリガが赤毛を振り仰ぐ。
『かえして、かえして、かえして――』
「どんなに願っても、かえってこないんだよな。不毛だとわかってても、ずっと……待ってるのに」
『……どうして……どうして』
「なんで、かえしてくれねえんだろうな……」
どこか遠くを、見えない誰かを見据えるコノエを一瞥したリガは、不意に、ガタガタと強まる音を耳にした。蠢いては歪み、正確な位置も分からない本棚のうち――一つだけ、激しく瘴気を纏っている。
「あれか」
「なあ、リガ。お前も、かえしてもらってねえクチじゃねえの?」
「……一冊、抜けてる?」
脳裏によぎった死屍累々の荒野の光景を振り払い、リガはめざとく他の本棚との違いに気づく。
迷いもなくそちら向かうリガを見送って、よいしょとコノエは地べたに座った。刀を床にさくりと突き刺し、『怨念』に柔らかく微笑みを向ける。
リガが近づくほど本棚はガタガタと震え、わななき、今にも破裂しそうな黒い瘴気が一帯を包む。咳き込みながらでも、金眼は強く一点を見つめ、黒いモヤをかき分けて進む。詩集、のようだ。
「いち、に、さん……四巻だけ、欠けてる、ゲホッ」
「なんの本だー?」
「詩集、だ、ッ、タイトルは――」
『返して、欲しかったの』
水面に一滴の雫が落ち、跳ねたような。
清らかな声が、反響した。
「っ、はやく!倒さないと!このままじゃ、怨念が!」
我慢しきれずに割って入ったシーラは、黒い渦の中に飲み込まれる二人を――地べたに座る赤い男と、本棚に喰われそうな青年を見かねて、鞘からショートソードを引き抜いた。
突進して怨念に肉薄、推進力を利用しながら、剣を下から振り上げる――
「無粋だぜ、お嬢さん」
甲高い音が反響した。素早く反応したコノエが、怨念への攻撃を刀で弾いたのだ。「何やって……!?」驚愕に目を剥くシーラに、コノエは酷薄な笑みを向け、人斬りとしての圧をかける。
気圧されてぐっと動けなくなったシーラを、暗い薄緑の瞳で見つめるコノエ。人差し指を口元に当てる仕草に、いよいよ黒い瘴気がざわめきだした。
『あなた、たち――なんで――』
「聞きたいだけだよ。俺たちは」
仕方なさそうに眉を下げ、どろどろの影の『怨念』に微笑むコノエ。
瘴気が蠢き、地面を伝って――引いていく。剥き出しの床は穴だらけで、焼け焦げた後がそこかしこに散っている。
「……あなたは、泣いていた」
本棚から、涙のようにこぼれ落ちた三巻を拾い上げ、ゆっくりとした口調でリガが言う。
「閉館後の夜に、待ち続けて……ずっと、泣いてばかりだった。どんな夜も、泣いていた……この図書館が、炎に包まれた時ですら」
リガの金眼が、明けの薄い星明かりの下で、黄色い月のように輝く。嗚呼、と、『司書の女性だった怨念』は啜り泣いた。
『返して欲しかった……私の、大事な、詩……』
「大事なモンほど、かえってこねえよな。ほんと」
せつなげに目を伏せるコノエの瞼には、朗らかで元気な弟の笑顔が陰る。もう、かえってこないもの。
「無くなった、四巻。ですね」
どこまでも冷静に、それでいて優しく尋ねるリガに、『彼女』は肯定のような唸り声をあげた。怨念討伐を信条とするシーラは、状況が飲み込めず、ただ沈黙しなければと本能で理解し、口を閉ざしている。
『もっと、たくさんの人に……読んで……私、ひとりで……ずっと、ここに……』
静かに、しとしとと泣き始めた『彼女』の影に、リガがそっと立った。コノエすら遮るような立ち位置だ。
「あなたの大事な詩……俺が、聞きます。聞き屋として、それは本望だ。だから」
――聞かせて、くれませんか。
ぽつり、ぽつり。いびつな声が、詩をうたう。
恋文のような、それでいて、燃えたぎる烈火のような。
熱くて、熱くて――消えそうな詩だった。
穏やかな黄金色の光が、ふわりと浮かび上がる。最後の未練のような瘴気の風が、リガとコノエ、シーラの目元を覆った。
ただ一つだけの、ありふれた幻覚。雨の日の図書館は、まばらに人が寄り付き、本を探し、本を読む。小声で談笑する男女を、司書の女性が、穏やかに見つめていた。
図書館の日常風景。雨の静かな音、におい。本の紙の擦れる――
瞬きの次には、夜明けの光が、ひび割れた天井から静かに差し込んでいた。
「……帰る。コノエ」
「おうよ。冷えたコーヒーでも飲もうぜ」
「いい加減、他の味を覚えろ」
「やだよ、絶対」
朝焼けが空を染め、淡い濃淡の赤と青が雲を縁取っている。朝を切望するあたたかな陽光を浴びながら、けろりとして帰路に着く、あまりにも異常で、どこか情に訴える『何か』を秘めた二人を。監視役の女剣士は、目で追うことしかできなかった。




