第八話 好きだ ※
本当なら駆け落ちしたっていい。けれど彼は家の仕事を継ぐことを望んでいる。もしも彼が長男でなく、家業のことも嫌いだったら言い出せたかもしれない。
小説の主人公のように、全てを解決出来たらどんなに良かったか。私は、好きな男を想うことしか出来ない。
心拍がいつも以上に上がって、締め付けられる胸のせいか呼吸がしにくい。こんなに熱くて、春人さんと居られることが幸せなのに、すぐそこに見える終わりが痛くて仕方がない。
「和仁さん……っ」
「ん……はい」
春人さんに名前を呼ばれるのが好きだ。いつでも優しく「はい」と答えたくなる。
彼に、朗読をしてもらうのが好きだ。途端に生き生きとし始める言葉を聴くことが。
陽気に子どものように笑う姿が好きだ。私の小説の裏の裏まで知りたがるところが、好奇心旺盛で話を深くまで詰めたがるところが、好きだ。真面目な顔をして仕事をしているところが好きだ。私を見つけると周りに気付かれないように小さく笑うところが好きだ。良い舞をと努力するところも、練習通り完璧に……いや、それ以上に舞ってみせるところが好きだ。二人でいると、そっと私の肩に身を預けてくるところが好きだ。優等生な顔立ちでいて、実は結構いたずらな面があるのが好きだ。自然が好きで、紅葉や川を眺めて微笑んでいる姿が好きだ。私より少しだけ小さな手で、力強く握り返してくれるところが好きだ。私を甘やかしすぎない程度にお願いを聞いてくれるところも、顰めっ面で淡々と言葉を並べ怒るところも好きだ。言い訳をしても通じなくて、笑って誤魔化しても通じなくて……その代わり、ちゃんと向き合えば段々と緩んでいく顔が好きだ。肌を重ねると、決して弱々しくはない手で沢山触れてくるところが好きだ。
いくつ挙げればいいのだろう。いくつ挙げたってきりがない。こんなに好きだ。好きなのに……。
ぽた、と彼の胸に水滴が落ちていった。春人さんは少し驚いた顔をする。涙を見せたのはきっと初めてだった。
いつから弱くなってしまったのだろう。彼と関係を始めた頃は今よりもっと恐れが少なかった筈だ。いや、それでも結局私はいつもどこかで気にしていたな。いつかやって来る別れの時を。
「どうして泣くんですか」
彼が言った。声が僅かに震えて、ゆっくりと涙が滲んでいくのが見える。
「分かるでしょう? あなただって泣いてるじゃないですか」
「あなたが泣くからですよ」
どうしてこんな気持ちにならなければならないのだろう。お互い男に生まれたからか、今の家に生まれたからか……。
ただ当たり前のように隣に座って、毎日の挨拶を交わし夜を重ね、死ぬ時もあなたの側で眠りたい。こんなに強く思ったのは春人さんが初めてなのに。
彼の頬を手で包み、口付けを交わす。お互い涙でぐしゃぐしゃの顔で、時々頬を拭い合っては何度も、何度も。
「終わりたくありません」
唐突に零れた言葉。言うつもりはなかった。引き止めたくなかった。けれど
「僕だって、終わりたくありませんよ。ずっとこうしていたいですよ。ずっと……っ」
涙と共に溢れた彼の言葉は、半ば叫ぶようだった。背中に回された腕に力が増すのを感じる。私も彼を抱きしめた。同じ気持ちだと、強く、強く。
伝わってくる体温が、心音が、彼がまだここにいることを教えてくれる。私の腕の中に。抱きしめられる場所に。
離れたくない。少しだって。
「愛しています」
「僕も、あなたを愛しています」
そう言ってくれる春人さんの瞳を見つめ、私はまた口付ける。結ぶ手の感触も、体温も、顔も、声も、深く深く、記憶に刻み付け忘れないように。




