第五話 雪と日の精霊 ※
待ち合わせをしている訳でもなかったのに、偶然春人さんと出会った。彼は雪のうっすら積もる橋の上で、赤の傘を差し佇んでいる。着ているのは気に入っているらしい紺の着物で、静かな雪景色と傘とがよく映えていた。
傘以外の持ち物はなく、のんびりと川を眺めていたことからも散歩でもしているのだと分かる。こんな寒い雪の日に、彼は物好きだ。
「あ、和仁さん」
私に気付いた彼は小さく手を振ると足を速め寄ってくる。右手に持つ傘が軽く跳ねた。
「今、暇ですか?」
「そうですね。大根でも買いに行こうと思っていたところで」
「……じゃあ、ねこ太先生っ」
春人さんは少年のように微笑んだ。私のことを筆名で呼ぶ時は大体小説の感想が言いたい時だ。
「この間の『探偵シリーズ』の新作、すごく面白かったです。友人にも話したんですけどやっぱり先生に言わなくちゃ」
頬がほんのり赤いのは雪のせいだろうか、それとも彼が興奮しているせいだろうか。どちらにしろ綺麗なのに変わりはないが。
彼が私の買い物に付いてくると言うので、私達は一緒に商店街に向かうことになった。
途中、春人さんが一つくしゃみをする。
「寒いですか?」
「寒いですけど冬ですから。和仁さんは大根の煮物でも作るんですか?」
「そうです。そういえば、あなたに料理のことを教えてもらったので折角だし小説に使ってみたんですが……少しだけでも鮮やかになっていたらいい――」
「なってました!」
私が言い切る前に彼は入ってきた。そして軽く口元を押さえて謝って。
「塩の量で変わる仕掛けは斬新でした。でもやっぱり主人公が解いて。いつも鮮やかで洗練された推理でかっこよくて……」
こうなると十分は喋り続けるので、私は今日も耳を傾ける。間近で感想を聞けるというのは嬉しいものだ。
そうこうしている内に買い物も終え自宅へ戻り始め、それでも彼がまだ喋っているので家に入れた。
買ったものを二人で冷蔵庫にしまっていく。
「すみません、やめられなくて……」
「いいんですよ。だってこんなに沢山向き合って感想を聞けることなんてあまりありませんから。嬉しいです」
偶に読者から手紙が届くことがあるけれど、流石に声色や表情までは分からない。春人さんは色々な意味で、私に特別な時間をくれる。
「本当? なら安心してこれからもお話が出来ます」
「沢山聞かせてください」
敬語でないのは滅多にないから、私はいいものを聞いたと頬が緩んだ。
買い物も片づけ終わったし、折角春人さんがいるしと、私は提案をしてみる。
「春人さん、もし時間があるならこの間のようにまた朗読をしてくれませんか?」
「いいですけど、気に入ったんですか?」
「ええ。あなたが読むと、物語がとても生き生きして見えるので好きなんです」
それを聞いた春人さんはにっこり微笑むと「いくらでも読みますよ」と居間へ向かう。少し前に買った背の低い本棚の前に立って「さあ、どれを」と乗り気なので、私は今日のような雪の日に合う淑やかな本を一冊選んだ。
ある春の日、彼は「綺麗だと言われるのがあまり得意ではないんです」と小さく言った。
今まさに、居間の窓から入る昼の光を浴びる春人さんが『綺麗』だと思っていた私は、そう言おうとして悪かったろうかと思う。正座し、体の左側をこちらに向けている彼はひだまりに溶けそうな程の雰囲気なのだ。
何故かと聞けば春人さんは続けた。
「お世辞、期待、羨望、妬み。僕には、綺麗が指す意味が多すぎます。煩わしくて、重たくて、笑顔の裏を気にしてしまうんです。僕は自分の美しさを自負していますが、それは簡単に褒める理由になる。大して何も思っていなくても言えますし、懐に入り込む為や機嫌を取る為にも言いやすい」
彼は俯き小さく息を吐いた。結ばないまま耳にかけていた髪が二束程ぱららと流れてきて、顔の向こうに薄いカーテンを作る。
彼は優等生だったと言ったし、神社の跡継ぎとなる人だ。期待も多いのだろう。かつて彼に取り入ろうと、簡単に何かしらを得ようと、そうした人がいてもおかしくない。
それでも、私が春人さんを素敵だと思っている事実は伝えたいし、彼に憂いを帯びた顔をしてほしくない。
「精霊に似ているとかだったら、言ってもいいんでしょうか」
それを聞いて春人さんは小さく吹き出した。
「あなたって本当我慢出来ない質ですよね。ごめんなさい。僕が言いたかったのは、あなたに言われると嬉しいってことですよ」
「なんだ……」
彼には何度も綺麗だと言ってきた。だから今頃春人さんを悩ませていたことを知ってしまったのかと思ったけれど、良かった。私は彼を苦しめていなかった。
「安心しました。悪いことをしていたのかと」
「そんなことありません。嬉しいです。あなたの『綺麗』は、本当に綺麗だから」
こちらを向いて真っ直ぐ見つめられると、その瞳がどこまでも淡く澄んでいるのがよく分かる。
綺麗という言葉が彼の口から発せられる度、それはその意味を更に強める気がする。人間という同じ生き物でも、同じ単語を口にして伝わる印象は全く違う。彼は本当に精霊という言葉がよく似合った。
「和仁さんが嘘が下手なのも嬉しいところです。不思議ですね、推理小説家なのに」
「それとこれとは話が別です」
私が少しむくれた声を出すと、彼はくすりと微笑んで近付いてくる。そっと唇を重ねると、ふわりと遅れて春人さんの匂いがして、流れてきた彼の髪が私の頬に触れた。
「ん……」
そう声が漏れる彼が愛おしくて、私は後ろ頭を包んで抱きしめる。
時折、私の肩にもたれてくる彼の頭を撫でる時、柔らかいけれど張りのある髪に愛おしさを覚える。なんて甘くて温かく、幸せなんだろうと。そう、彼に触れる度に思う。
私は自分の性質にそれ程困ったことも悩まされたこともなかった。全くと言ったら嘘になるが、小説家であるし批評も耳に入ってくるから多少の野次なんて大したことはなかったし、自分はこういうものなのだと思ってしまえば周りとの違いなどどうでも良かった。男性と付き合いたければそういった場所に行けば相手は見つかったし、軽い気持ちで誰かと付き合ったこともあった。失恋したこともあった。けれどこんな気持ちになったことはなかった。ここまで、春の夢のように温かく、夏の火のように強い気持ちになったことは。
何かの間違いで彼と最期までいられないだろうか。この気持ちは私をずっと悩ませる。けれど彼に言えば重荷になる、封じなければいけない言葉だ。
春人さんは私の背に手を回し、帯の方へと伸ばした。
私は尋ねる。
「今日はもう少しいますか?」
「います」
いつもの笑みより更に数段柔らかい顔で春人さんは答えた。私は、自分より少しだけ小さな彼の手を取ると寝室へと向かう。
重なった手は、ぎゅっと強く握り返された。




