第十話 失恋
春人さんと別れてから数年。私は一度も祭りには行かなかった。彼は会いたくなかっただろうし、私も会いたくなかったからだ。実際のところ私は違ったのだが、彼の為にも会ってはいけないと思っていた。
けれど一度だけ、偶然にも出かけた先で彼とその横で笑う女性を見たことがある。ふきの煮物でも作ろうかと商店街へ行った時だった。
「春人さん」
穏やかな午後の通りで、彼の名前を呼んだのは小柄な可愛らしい女性だった。春色の着物を着て、春人さんの隣に立つ彼女は小鳥のようだ。人混みを突き抜けて聞こえてきたのは名前だけで、後はなんと言っているのか聞こえない。二人は並んで楽しそうに店先の髪飾りを見ていて、端的に言って幸せそうだ。
変わらず穏やかな彼の笑顔は、そのまま絵に出来そうな程に美しい。さざなみのような人の声の中、私は数瞬見惚れてしまった。けれど商店街の賑わいが私を正気に戻し、踵を返す。
いつかも彼の長い髪は静かに風に靡いていたなとか、あのように柔らかい笑みを浮かべていたなとか思い出してはその度に足を速めた。
彼の名を呼ぶ彼女の声を聞いただけで、春人さんに向ける視線を見ただけで、あぁ妻なのだと分かった。彼の笑み一つでもそうだ。春人さんは彼女をとても大切にしているようだった。
「――僕の前で仲睦まじく笑ってみせて」
数年前、そんなことを言っておいて。
「見せつけられたのは私の方でしたよ」
家に入るなり崩れ落ち、床に伏して泣いている私のなんと惨めなことだろう。
私といると少し子どもっぽく見えたり可愛かったりした彼が、彼女といると頼れる旦那そのものに見えた。私の隣にいたのが夢だったのではないかと思う程、二人はお似合いの夫婦で。
幾度となく日を重ねたのに、もう彼は私の手の届かない場所にいる。
「まるで馬鹿みたいだ」
私だけ。
彼はもう前を向いたのだろうか。私だけ取り残されているのだろうか。
胸の苦しさを抱えながら、台所へ行けば昔春人さんが書いてくれた料理メモが置いてある。今日作る予定だったふきの煮物……材料を買えなかったな。
手順を覚えている癖に偶に引き出しから出しては、机に置いてまだ彼を感じようとしている私は本当に馬鹿だろうか。それでも捨ててしまえば後悔するし、本棚にしまってある彼が書いた掌編も、ただの恋の思い出と称するにはもったいないものだ。そう、これはもったいないのだ。だから私は……。なんて、言い訳をしてもみっともないな。
心に空いた穴が塞がらないまま、私は小説を執筆する日々を続けた。春人さんがまだ読んでくれているかは分からないが、待ってくれている多くの読者を裏切ることはしないように。




