第9章 三人の鍋
背中なら、いい。
そう言われてから一週間、俺はまだ一枚も撮っていなかった。
ゼミの帰り、坂のてっぺんの駅で彼女は先に改札を出ていく。坂の下へ、紺色のコートが遠ざかっていく。カメラは首にかかっている。撮っていい背中が、目の前にある。
それなのに、手が上がらなかった。
撮るなと言われていたときはあんなに撮りたかったのに。いいよと言われると、とたんに撮れなくなる。航に電話でそう話したら「お前、ほんと面倒くさいな」と言われた。自分でもそう思う。
*
「土曜、水無瀬さんちで鍋やるから。律も来て」
千夏から電話がかかってきたのはその週の木曜の夜だった。
「は?」
「水無瀬さんの実家から、牡蠣が箱で届いたんだって。一人じゃ食べきれないって言うから、食べに行くことにした」千夏の声はいつもより一段高かった。「あと、私、冬のインターン受かったの。第一志望の。水無瀬さんの赤ペンのおかげだから、そのお祝いも兼ねて」
「おめでとう。で、なんで俺」
「同じ町でしょ。私、あの辺の駅、行ったことないし。律がいたほうが、水無瀬さんも気が楽だと思うし」
「栞ちゃん、いいって言ったの」
千夏は間を置いた。
「『千夏ちゃんが来るなら』って」
それが「いい」なのかどうか、俺には分からなかった。分からないまま行くと答えていた。
*
土曜の五時、坂のてっぺんの駅の改札に、千夏が缶チューハイとケーキの箱を提げて出てきた。
「うわ、ほんとに坂の町だ」
千夏のスマホには栞ちゃんから届いた地図が表示されていた。俺のスマホには四月と七月の「既読」しかない。そのことは言わなかった。
坂を二人で下りた。
千夏は今日のために居酒屋のバイトを代わってもらったらしい。代わりに来週の金曜と土曜が両方埋まった、と坂の途中で三回言った。三回とも、うれしそうだった。
「そういえば、アヤカちゃん、最近飲み会来ないね」千夏が前を向いたまま言った。「ハロウィンのあとから、ずっと」
「青森のおばあちゃんが、倒れたらしい」
「そうなんだ。それだけ?」
「それだけ」
木曜日に何度も別れた分かれ道を過ぎて、さらに五分。栞ちゃんの部屋は二階建ての古いアパートの、二階の角部屋だった。チャイムを鳴らすと、灰色のスウェットの上下を着た栞ちゃんがドアを開けた。袖をひじまでまくって、髪をうしろでひとつにまとめていて、ゼミで見るより幼く見えた。
「いらっしゃい。芹沢くんも」
「おじゃまします」
*
部屋は思っていたより狭くて、思っていたより物が多かった。本棚には文庫本と、文芸サークルの同人誌が背表紙をそろえて並んでいる。小さな机の上には、ノートパソコンと、付箋だらけの卒論の下書きと、紺色の手帳。窓際に絵はがきが一枚だけ貼ってあった。海の写真だった。ゼミのLINEグループで見た、あのアイコンと同じ海だった。
壁には四月始まりのカレンダーがかかっていた。十一月のページに小さな字で予定が書きこまれている。ゼミ。卒論面談。今日の欄には「千夏ちゃん 鍋」。
台所の床に宅配便の段ボールが置いてあった。クール便のシールが貼ってある。中には氷の袋と、殻つきの牡蠣と、黄色いレモンがいくつも入っていた。
「すご。これ全部、お母さんから?」と千夏が言った。
「毎年、この時期に送ってくるの」
千夏はしゃがみこんで荷ほどきを手伝いはじめた。氷の袋をよけて、いちばん上にのっていた白い紙を取り上げる。
「これ、納品書ですか。捨てていいやつ?」
開いてから千夏は「あ」と言った。手紙だった。栞ちゃんが取り返すより早く、俺にも見えた。ボールペンの角ばった字だった。
〈ちゃんと食べていますか。たまには自撮りの一枚でも送ってください。お盆も帰ってこなかったから、お母さん、あなたの顔を忘れそうです。翔太も会いたがっています。母〉
栞ちゃんは紙を二つに折ってスウェットのポケットにしまった。
「読まないで」
「ごめんなさい」千夏はすぐに頭を下げた。「納品書かと思って」
*
牡蠣は殻つきだった。栞ちゃんは軍手をはめて、引き出しから先の短い平たいナイフを出した。
「むくんですか。自分で?」と千夏が言った。
「うちは殻つきで来るの。焼いても食べるから」と栞ちゃんは言った。「子どものころから、この時期は手伝わされてたし」
殻の合わせ目にナイフの先を差しこんで刃を内側にすべらせる。ふっと手ごたえが抜けて殻が開いた。三秒もかからなかった。
「私もやりたい」
千夏は五分かけてひとつも開けられなかった。「固っ。これ、ほんとに開くやつ?」と言う千夏の手に、栞ちゃんが軍手の手を重ねた。
「ここ。ちょうつがいの反対から入れて、中の貝柱を切るの。力じゃなくて、角度」
迷いのない手つきだった。四月に部室の蛍光灯の下で細かく震えていた手と、同じ手だとは思えなかった。
鍋は栞ちゃんが仕切った。
「千夏ちゃん、白菜は芯から入れて。芹沢くん、そこのお皿、三枚」
乾杯は千夏のインターンに、ということになった。
「千夏ちゃん、おめでとう」
栞ちゃんがグラスを上げると、千夏は「ありがとうございます」と言って、泣きそうな顔をした。
牡蠣が煮えはじめると、栞ちゃんは菜箸で俺の取り皿にだけ、ぷっくりと縮んだものを選んで入れた。
「芹沢くんは、よく火が通ったのだけね」
「なんで」
「胃が弱そうな顔、してるから」
「なんで律の胃のこと知ってるんですか」と千夏が言った。
「合宿で、胃薬あげたから」
「あ、それ聞いた。先輩に介護されてたって」
千夏が吹き出して、栞ちゃんも声を出して笑った。笑いながら千夏の取り皿にレモンを絞った。
「牡蠣には、これ。うちのほうでは、みんなそうするの」
千夏のインターンの話になった。面接で志望動機を聞かれて、食べることが好きだから、と最初に言ってしまったこと。それでも、そのあとに続けた話で面接官が笑ってくれたこと。
「水無瀬さんに、最初の一文で全部言わなくていいって言われたから。最後まで聞いてもらえれば勝ちだって」
「千夏ちゃんの話は、最後まで聞きたくなる話だから」
栞ちゃんは千夏のグラスにチューハイを足しながら、そう言った。
この人がこんなふうに笑うのを知っている人は、ゼミに何人いるんだろう。前はもっとよく笑う子だった、と宮坂さんは言っていた。たぶんこれがその顔だった。
「水無瀬さんは、四月から編集者ですよね。どんな本、作りたいんですか」
千夏が聞くと、栞ちゃんは牡蠣の殻を袋にまとめながら考えた。
「絵本、かな。子どものころ、弟によく読んであげてたから」
「えー、いい。似合う」
「それより、千夏ちゃんのインターン、何するの。工場見学とかある?」
千夏は「ありますあります」と身を乗り出して、話はそのまま千夏の十二月のほうへ流れていった。
*
途中で栞ちゃんのスマホが鳴った。画面を見て、彼女は「ごめん、母」と言って立ち上がり、玄関のほうへ行った。ドアは半分だけ開いていた。
「うん。届いた。ありがとう。うん、今、友達と食べてる。ううん、大丈夫。ちゃんと食べてるから」
花火の夜に土手の階段で聞いた声と同じだった。ゼミで聞く落ち着いた声より少し幼い、家の中の声。
「翔太は? そう。よかった。お正月?」
そこで、声が少しだけ途切れた。
「……まだ、分からない。決まったら、言うね」
戻ってきた栞ちゃんは、何事もなかったような顔で鍋に白菜を足した。千夏は何も聞かずに栞ちゃんの取り皿に牡蠣をひとつ入れた。いちばん大きいのを。
*
「記念に一枚」
白菜を足した鍋がまた煮立ったところで、千夏がスマホを構えた。
「私はいい」
栞ちゃんは菜箸を持ったまま、すっと体を横にずらした。
「えー。水無瀬さん、ほんとに写真だめなんですね」
「うん。だめになったの」
千夏は鍋と、俺と、自分を撮った。
鍋がほとんど空になると、千夏がケーキの箱を開けた。ショートケーキと、モンブランと、チーズケーキがひとつずつ入っていた。
「自分のお祝いだから、自分で選んできた」千夏は胸を張った。「好きなの取っていいよ。じゃんけんで」
じゃんけんは栞ちゃんが一回で勝った。出したグーをそのまま胸の前で握って「勝った」と言った。箱の中を長いこと見くらべて、チーズケーキを取った。
「あんなに迷って、いちばん地味なの」と千夏が言った。
「いいの。これが好きなの」
千夏がショートケーキを取って、俺にはモンブランが残った。栞ちゃんはフォークの先でチーズケーキを小さく二つ切って、千夏と俺の皿にひとつずつのせた。
「お祝いだから」
食べ終わるころ、千夏が壁のカレンダーの前に立った。
「水無瀬さん、ここに私の予定も書いていいですか。十二月の、インターンの日。忘れたら怒られそうだから」
「いいよ」
千夏はペンを借りて十二月のページに書きこむと、そのままもう一枚めくった。一月。卒論提出、と小さく書いてある。
もう一枚めくって、千夏の手が止まった。
「二月、真っ白じゃないですか」
「作品展が終わったら、また鍋しましょうよ。卒業旅行の前に」千夏は言った。「てか、来年もやりましょうね、この鍋。牡蠣、毎年届くんですよね?」
「うん」と栞ちゃんは言った。「毎年、届く」
「じゃあ、決まり」
栞ちゃんは笑った。笑って、カレンダーを十一月に戻した。
*
洗い物は千夏が引き受けた。台所から皿を重ねる音と、千夏の鼻歌が聞こえてくる。
栞ちゃんは窓際に立って、絵はがきの角を指で押さえていた。セロハンテープがはがれかけていた。
机の上にテープの台があった。俺は一枚ちぎって、彼女の指の横から、はがれた角に貼り直した。栞ちゃんは何も言わずに指を離した。
「LINEのアイコンも、その海だよね」と俺は言った。
「見てたんだ」
「追加し返してもらえないから。アイコンだけは、よく見てる」
栞ちゃんは少しだけ笑った。それから困ったように眉を下げた。
「ごめんね」
「何が」
「いろいろ」
何がいろいろなのか、聞けなかった。台所の鼻歌がいつのまにか『明日の天気』になっていた。
九時に部屋を出ることになった。千夏がトイレに立っているあいだ、俺は玄関で靴をはいた。栞ちゃんが狭い廊下の壁にもたれて、それを見ていた。
「今日は、ありがとう」と彼女は言った。「千夏ちゃん、すごく楽しそうだった」
「鍋、うまかった。牡蠣も」
「よかった」
彼女は黙った。
「ずるいね、私」
「何が」
「断ろうと思えば、断れたのに」
ずるいよ、と踊り場で言われたのを思い出した。同じ言葉を彼女は今、自分に向けて言っていた。
トイレの水の音がして千夏が出てきた。栞ちゃんはもういつもの顔に戻っていた。
「おやすみ。また——」
彼女はそこで言葉を切った。
「ゼミで」




