第10章 ゼリー、二個
駅までの坂を千夏と上がった。
「水無瀬さんってさ」千夏が白い息を吐きながら言った。「いい人だね」
「うん」
「牡蠣、あんなにすぐむける人、初めて見た」千夏はケーキの空き箱を入れた袋を持ちかえた。
改札の前で千夏は振り向いた。
「律。ちゃんと見ててあげなよ」
中途半端なことするなら怒る、と夏の海で言ったときと同じ目をしていた。
千夏の電車を見送って坂を下りた。夜の踏切は赤いランプも消えて、静かだった。家に着くと千夏からLINEが来ていた。
〈今日の写真〉〈水無瀬さん、手だけ出演〉
鍋と、俺と、千夏。それから画面のいちばん端に、菜箸を持った白い手が写りこんでいた。
顔は、絶対にだめ。そう言った人の白い手が写った画面を、俺は閉じられなかった。
鍋の次の日の夜、千夏からLINEが来た。
〈水無瀬さん、今日一日寝てたって。お腹〉〈私も律も、なんともないのにね〉
〈お大事にって言っといて〉と返した。
鍋の夜から、木曜日の帰り道が少しだけ戻ってきた。
坂のてっぺんの駅で降りると、栞ちゃんは前みたいに先に行ってしまわずに、改札の外で俺が出てくるのを待つようになった。分かれ道までの十分間を並んで歩く。並んで、といっても彼女はやっぱり半歩うしろを歩く。
最初の木曜日、駅前のコンビニで肉まんを買って出てくると、彼女は店の前の自販機の横に立っていた。ホットのココアの缶を両手で包むように持っていた。七月に麦茶を飲んでいたのと同じ場所だった。
「待ってた?」
「待ってない。寒いから」
七月はのどがかわいたからだった、と言いかけてやめた。坂の途中で肉まんを半分に割って差し出すと、彼女は一回断って、二回目で受け取った。「熱っ」と言って、少し笑った。
「見張ってるの?」
二回目の木曜日に彼女が言った。
「千夏に、ちゃんと見てろって言われた」
「千夏ちゃんらしい」
彼女は笑った。
「背中、撮っていい?」
「今日は、だめ」彼女は自分のうしろ髪に手をやった。「はねてるから」
背中の寝ぐせを気にする人なんて、いるんだ。笑ったら彼女は「笑わないで」と言って、本当に半歩離れた。
分かれ道の少し手前に、坂の下の踏切が見えるところがある。彼女はそこで、いつも足をゆるめた。
「踏切、何枚になった?」
その日もそこで彼女が聞いた。
「二十八枚。二月まで撮るから、あと十枚ちょっと」
「二月まで」
「そう。作品展に、全部並べる」
彼女は、うん、とだけ言った。分かれ道で、また明日、と言うと、「じゃあね」と手を振って、線路から離れていく道へ歩いていった。
十一月が終わるころになっても、カメラはまだ一度も構えていなかった。それでも撮っていい背中がすぐうしろにあることが、なんだかうれしかった。
*
「クリスマス、どうすんの」
学食で航がカレーをかき混ぜながら言った。十一月の最後の月曜日だった。
「バイト」と俺は言った。「二十四も二十五も、店長に入れって言われてる」
「寂しいやつ」
「お前は」
航はスプーンを止めた。
「美咲に、クリスマスに来年のこと話そうって言われてる。卒業したら一緒に住むのか、とか」航は少し黙った。「俺、夏からインターンばっかで、ちゃんと会えてないし。会うたびにその話になるし。黙ると怒られるし」
夏の電話で聞いたのと同じ悩みだった。四か月たっても、航はまだ同じところで立ち止まっているのだと思った。
「でも、クリスマスまでに答え出す」航はまたスプーンを動かしはじめた。「黙るのは、もうやめる」
「どこで話せばいいと思う」
「ラーメン屋」
「お前に聞いた俺がばかだった」
航はそう言いながら、スマホで店を探しはじめた。夜景の見えるところは、どこも二十四日の予約が埋まっていた。
「お前はどうなんだよ」と航が言った。「木曜、一緒に帰ってるんだろ。千夏から聞いた」
「分かれ道まで」
「手え出すなって、四月に言ったのにな」
航はそう言って笑った。すぐに真面目な顔に戻った。
「でも、よかったじゃん。お前が誰かと、ちゃんと一緒に帰ってるの」
*
その週の木曜日も、分かれ道までの十分を並んで歩いた。坂の途中の家の柿の木に、取り残された実がふたつだけ下がっていた。
彼女は卒論の話をした。あと一章で終わるのに、その一章がいちばん書けないこと。書けない日は部屋の掃除ばかりしてしまうこと。
「だから今、部屋がすごくきれいなの」
俺が笑うと、彼女は「笑いごとじゃないんだけど」と言いながら、自分でも笑った。
「クリスマスって、栞ちゃん何してんの」
なんとなく聞いた。たいした意味はなかった。
「律くんは、バイトでしょ」彼女は前を向いたまま言った。「二十四も、二十五も。店長さんに、入れって言われてるんだよね」
「なんで知ってんの」
半歩うしろの足音が、一回だけ止まった。
「千夏ちゃんに、聞いた」
「そっか」
分かれ道で彼女は「じゃあね」と言った。いつもより早かった。
家に帰ってから千夏にLINEを送った。
〈俺、クリスマスバイトって言ったっけ〉
〈聞いてない〉〈え、バイトなの? さみし〉〈なんで?〉
なんでもない、と返した。航にも送った。
〈水無瀬さんに、俺のクリスマスのこと話した?〉
〈話すかよ。ほぼしゃべったことないし〉
月曜の学食で航に話したのが最初だった。航のほかには店長しか知らない。
運命メモを開いた。十三個目の〈背中なら、いいって言われた〉の下に、一行足した。
〈14 二十四日のバイト。航にしか言ってない〉
偶然を書くためのメモだった。これは偶然じゃない気がした。偶然じゃないなら何なのかは、分からなかった。
日曜の朝はいつもどおり踏切を撮った。遮断機の脇でミケが、近所の人の置いていった皿に顔をつっこんでいた。シャッターを切ってから歩道橋を見上げた。手すりには誰もいなかった。
*
十二月の二回目のゼミは、作品展の打ち合わせから始まった。北条先生が去年の案内状を見本に配った。会場は大学の小さなギャラリー、二月の後半の一週間。三年は途中経過を、四年は一年分の作品を並べる。
「四年は、搬入が前の週になるから、それまでに全部そろえておいて」
先生がそう言うと、四年の何人かが「えー」と声を上げた。
栞ちゃんは案内状の日付を見ていた。それから、いつもの紺色の手帳を開いた。文庫本くらいの大きさで、布の表紙に黒いゴムのバンドがかかっている。四月から彼女は、ゼミが始まる前にときどきそれを開いては何かを書きこんで、すぐに閉じていた。誰かに見せているのを、俺は一度も見たことがない。
その日の彼女は、ペンを持ったまま止まっていた。結局、何も書かずに手帳を閉じた。
休み時間に彼女のスマホが震えた。画面を見て眉を寄せて、彼女は廊下へ出ていった。ドアの向こうから、かすかに声が聞こえた。
「はい、水無瀬です。はい。いえ、気持ちは、変わりません。その件は——」
戻ってきたとき、彼女の顔は白かった。机の上の資料を急いでまとめて、北条先生に「すみません、今日は先に失礼します」と頭を下げた。先生は何も聞かずにうなずいた。
ゼミのLINEグループに長谷川さんが〈水無瀬さん、大丈夫かな。顔まっしろだった〉と書いた。佐伯が〈インフル?〉と続けた。既読の数は増えていったけれど、彼女からの返事はなかった。
*
帰りの各駅停車は空いていた。
彼女にLINEを送った。〈大丈夫?〉 既読はつかなかった。
窓の外を見ながら、さっきの声を何度も思い出した。いえ、気持ちは、変わりません。何の気持ちなのかは分からなかった。分からないことが、運命メモの十四個目と同じところに積もっていった。
坂のてっぺんの駅で降りた。いつもなら、そのまま坂を下りて踏切を渡る。その日は、駅前のコンビニに入っていた。鍋の夜に一度だけ上がった、あの二階の部屋が頭から離れなかった。彼女は一人で暮らしている。具合が悪くても、たぶん誰にも言わない人だ。
スポーツドリンクと、ゼリーと、のど飴。何が要るのか分からなくて、思いつくものを全部かごに入れた。レジのお姉さんがゼリーを指して「温めますか」と言い、言ってから自分で笑った。俺も笑った。笑ったら少しだけ、足が動くようになった。
分かれ道で、いつもは彼女が曲がっていくほうの道へ曲がった。五分歩くと、二階の角部屋には明かりがついていた。
アパートの階段の下でしばらく立っていた。袋を渡して帰ればいい。それだけだ、と何度も思った。二十四日のことは聞かない。聞かないで、袋だけ渡す。
チャイムを鳴らすと少しして、ドアが開いた。彼女はまだコートを着ていた。目のふちが、もう赤かった。
「芹沢くん」
「これ。顔、白かったから」
袋を差し出すと、彼女はそれを両手で受け取った。中をのぞいて、口の端がゆるんだ。
「ゼリー、二個も」
「どっちが好きか、分かんなかったから」
そこで帰ればよかった。口が勝手に動いた。
「栞ちゃん。二十四日のバイトのこと、千夏、知らなかったよ」
彼女の顔から、笑みがすっと消えた。
「航しか知らないんだ。なんで」
「航くんが、誰かに話したのかも」
「話してないって。航が言ってた」
彼女は何も言わなかった。袋を胸に抱いたまま、俺を見ていた。それから、涙がひとつこぼれた。拭おうともしなかった。
「……どうして」
怒鳴られたほうがずっと楽だった。
「どうして、気づいちゃうの」
「気づくって、何に——」
「聞かないで」
桟橋で「言わないで」と言われた夜より、ずっと震えた声だった。
「もう、話しかけないで」と彼女は言った。「……お願いだから」
ドアが閉まった。チェーンをかける小さな音がして、それきり何も聞こえなくなった。
ドアの前に立っていた。ノックはできなかった。向こう側で彼女も同じように立っている気がした。気がしただけだった。
*
坂を下りて踏切まで来た。誰もいなかった。遮断機は上がったまま、線路だけが街灯に光っていた。
四月の朝、この遮断機のすぐ前に彼女が立っていた。まっすぐ線路の向こうを見ていた。あのとき彼女は何を見ていたんだろう。
彼女はこの踏切を、一度も渡ったことがない。
家に着くと居間の明かりがついていた。母はもう寝ていて、父がひとりでテレビもつけずに座っていた。
「おかえり」
父がこの時間まで起きているのはめずらしかった。
「ただいま」
そのまま二階へ上がろうとすると、父が「律」と呼んだ。
振り向くと、父は何か言いかけて、口を閉じた。湯のみを持ったまま、俺の顔を見ていた。
「……いや」父は立ち上がって台所へ行った。「風呂、まだ温かいから。入れ」
それだけだった。台所で父がやかんに水を入れる音がした。父が俺のために何かをするのを、ずいぶん久しぶりに見た気がした。
部屋に入って運命メモを開いた。十四個目の〈二十四日のバイト。航にしか言ってない〉を、何度も読んだ。
どうして、気づいちゃうの、と彼女は言った。
何に気づいたのか、俺にはまだ分からなかった。分からないまま、その一行から目を離せなかった。




