第11章 冬の河原
金曜日も土曜日も、彼女からは何も来なかった。
金曜の昼、千夏からLINEが来た。
〈水無瀬さん、今日の学食来なかった〉〈ES見てもらう約束してたのに〉〈律、なんかした?〉
何も返せなかった。したことなら、あった。言えることは、なかった。
土曜日は新宿の中古カメラ店のバイトだった。昼すぎに、年配の女の人が古い一眼レフを紙袋に入れて持ってきた。亡くなったご主人のものだという。
「使う人が、いなくなっちゃったから」
店長はカメラを受け取って裏ぶたに指をかけて、止めた。フィルムカウンターが「21」を指していた。
「奥さん、フィルムが入ったままですよ。現像、しますか」
女の人はカウンターの数字を見ていた。それから首を振った。
「……いいです。何が写ってるか、知るのが怖いから」
店長は何も言わずに巻き戻しのクランクを回した。取り出したフィルムを小さなケースに入れて、カメラとは別にして女の人に渡した。女の人はそれをハンドバッグの奥にしまって帰っていった。
焼かない、と約束した十三枚目のネガのことを思い出した。机の引き出しの奥に、まだある。
棚のレンジファインダーを磨きながら何度もスマホを見た。店長に「芹沢くん、今日はやけに時計を見るね」と言われた。時計じゃなくて画面を見ていた。
どうして、気づいちゃうの。
あの声がずっと頭の中にあった。廊下から聞こえた声も。いえ、気持ちは、変わりません。電話の向こうの誰かに、彼女はそう言っていた。
夜は母のおでんの大根をひとつだけ食べて部屋に上がった。布団に寝転んで、ゼミのグループのメンバー一覧を開いた。海のアイコンを見つけて、閉じた。何回かそれを繰り返した。
*
スマホが震えたのは、土曜の夜の十一時すぎだった。
トーク一覧のいちばん上に海の写真のアイコンがあった。
四月の〈今日はいろいろすみませんでした〉にも、七月の〈夏休み、何してるんすか〉にも、木曜の〈大丈夫?〉にも、既読しかつかなかった画面だった。その下に、初めて彼女の字が並んでいた。
〈日曜の朝、七時に、歩道橋で〉
少しして、もう一行来た。
〈全部、話すから〉
画面を見たまま、動けなかった。
返事を書いては消して、結局〈行く〉とだけ送った。すぐに既読がついた。八か月で、いちばん早かった。
目覚ましを五時半にかけた。かけてから、六時でも間に合うことに気づいた。かけ直さなかった。
*
目覚ましが鳴る前に目がさめた。家はまだ寝ていた。台所で水を一杯だけ飲んで、仏間の前を通った。線香の匂いはまだしなかった。
日曜の朝は思っていたより明るかった。六時五十分に坂を下りると、日は昇ったばかりで線路の上の空だけが白かった。土手の草には霜が下りて、踏み出すたびに靴の下で小さく鳴った。遮断機の脇にミケはいなかった。
歩道橋の上に紺色のコートが立っていた。手すりにもたれて踏切を見下ろしていた。五月と同じ場所。八月とも十月とも同じ場所。階段を上がっていくと、彼女はこっちを見て、頭を下げた。目の下に薄い影があった。
「おはよう」
「おはよう」
彼女の手にはあの紺色の手帳があった。もう片方の手で、彼女はコートのポケットから何かを出して俺の手に押しつけた。使い捨てのカイロだった。
「どうせ、持ってきてないでしょ」
カイロはもう温かかった。
「ここじゃなくて、いい?」と彼女は言った。「歩きながらのほうが、話せると思う」
俺たちは歩道橋を向こう側へ下りて、線路沿いの道を多摩川のほうへ歩いた。彼女はやっぱり踏切を渡らなかった。
土手に上がると川が見えた。朝の光を受けて、水面がところどころ白く光っていた。遠くに鉄橋があって、ちょうど電車が渡っていくところだった。犬を連れた人とジョギングの人が、何人か通りすぎていった。中学二年の冬に祖父と毎朝来ていた河原だった。
古いベンチがひとつあって、彼女はそこに座った。俺も座った。人ひとり分、あけて。
「信じなくていいから」と彼女は言った。「最後まで、聞いて」
「うん」
彼女は手帳を膝の上で両手に挟んだ。
「四月一日の朝、目がさめたら、一年前だった」
川のほうを見たまま彼女は言った。
「一回目の一年が、終わったあとだったの。終わったはずの一年の、最初の日に戻ってた。どうしてなのかは、分からない。今も、分からない」
彼女は膝の上の手帳を見下ろした。
「目がさめて、カレンダーを見て、スマホを見て、それから、律くんのLINEを探した。なかった。まだ、会ってなかったから」
「四月四日、律くんが『知り合いかも』に出てきて、追加しそうになった」と彼女は言った。「それから八か月、ずっと」
俺が四ツ谷駅のホームで追加した日だ。
笑おうとした。冗談だと思いたかった。でも彼女の声は、冗談を言う人の声じゃなかった。
「一回目は、踏切じゃなかった。四月四日、律くんは中庭で私に声をかけて、可愛いね、って言った」彼女は笑った。「そのあと、ゼミで先輩だって分かって、帰りの電車で、栞ちゃん、って呼んだ。今回と、同じように」
「その手帳に、書いてあるの」
「うん。一回目のことも、今回のことも」
彼女は手帳を見下ろしたまま続けた。
「一回目の律くんも、最初はすごく軽かった。連絡先も、すぐ聞いてきた。でも、だんだん、そうじゃなくなった」
彼女は手帳のゴムのバンドに指をかけた。外しはしなかった。
「見せては、くれないんだ」
「うん。これは、見せない」
「九月の合宿の夜、あの桟橋で、律くんは中学のときの話をした。それから、私のことを好きだって言った」
言わないで、と桟橋で言われた夜のことを思い出した。言いかけた言葉を俺は喉の奥にしまったままだった。
「付き合ったの。一回目は」と彼女は言った。「ボウリングも、牡蠣も、律くんと一緒だった。クリスマスは、律くんのバイトが終わるのを、お店の前で待った」
二十四日のバイトを知っていたのは、そういうことだった。
鉄橋をまた電車が渡っていった。音が、少し遅れて届いた。
「それで」と俺は言った。「一回目は、どうなったの」
彼女はすぐには答えなかった。
「二月九日」
声が細くなった。
「雪の夜だった。東京では、めったに積もらないのに。その夜は、積もって。あの踏切で、律くんは、私を——」
そこで、言葉が止まった。
彼女は唇を結んで、川のほうを見たまま動かなかった。続きを待っても、来なかった。
続きを聞かなくても、分かった。
「……俺、死んだの」
彼女は、小さくうなずいた。
*
しばらく、何も言えなかった。
母の顔が浮かんだ。台所から「朝ごはんは?」と顔を出す母。テレビもつけずに座っていた父。それから仏間の遺影。カメラを首から下げてまぶしそうに笑っている祖父。
一回目の俺も、どこかの棚の上でああやって笑っていたのだろうか。誰かが目をそらしていたのだろうか。
川の音がしていた。どこかで犬が一度だけ吠えた。俺の指先は冷たくなっていて、それが寒さのせいなのかどうか分からなかった。
「信じてない顔」と彼女が言った。
「信じたくない顔、だと思う」
考えてから、彼女は言った。
「中二の冬、おじいさんが最初に撮らせてくれたのは、あの鉄橋。律くんは、ピントを合わせるのを忘れた。現像したら、全部ぼやけてて、おじいさんは、それでも、いい写真だって言った」
息が止まった。
その話は誰にもしたことがなかった。航にも、千夏にも。
「……なんで」
「一回目の律くんが、ここで、教えてくれたから」
彼女は川の向こうの鉄橋を見ていた。
「一回目の俺って、どんなやつだった」
聞いてから変な質問だと思った。彼女はしばらく考えた。
「今と、同じ」と彼女は言った。「ラーメンは油少なめ。胃薬は、いつも忘れる。さみしいくせに、さみしくないふりをして、それが下手」
真面目な人。花火の夜に彼女はそう言っていた。真面目な人なんて誰にも言われたことがなかった。
彼女はほんの少しだけ笑った。笑った顔のまま、目のふちが赤くなっていった。
「好きにならないで、って言ったのは」と彼女は言った。「律くんが私を好きにならなければ、あの夜、律くんはあそこにいないと思ったから。私のそばにいなければ、かばう人もいない」
「千夏に、俺を押しつけたのも」
「千夏ちゃんがそばにいれば、律くんは、私のほうに来ないと思った」彼女は目を伏せた。「ひどいよね。千夏ちゃんにも、律くんにも。でも、変えても、変えても、別の形で戻ってくるの。合宿の朝、律くんに胃薬を渡したら、朝まで吐いてたのは佐伯くんだった」
「あの白い花火は」と俺は言った。
「一回目の律くんに」
彼女は川のほうを見た。
「名前、書けなかったの。今の律くんが、すぐそこで生きてるのに。ありがとうも、ごめんねも、一回目の律くんには、もう言えないから」
八月の夜、俺はその誰かのことをずっと考えていた。顔も知らない、名前も知らない、冬に死んだ誰か。
その誰かは、俺だった。
*
「お願いがあるの」
間を置いて、彼女が言った。
「二月九日の夜は、踏切に近づかないで。家から、出ないで」
五月の歩道橋で、遮断機に近づきすぎないでね、と言われたのを思い出した。
「栞ちゃんは」
「私も、家にいる」と彼女は言った。「二人とも行かなければ、何も起きないはずだから」
「どうして、話してくれたの」と俺は聞いた。「もう、話しかけないでって」
「律くん、二十四日のこと、運命メモに書いたんじゃない?」
図星だった。
「書いて、分からないまま、ずっと見てると思った。一回目の律くんも、分からないことがあると、ずっと見てる人だったから」彼女は手帳をコートのポケットにしまって立ち上がった。「分からないまま見てるのは、つらいから」
帰ろうとする背中に俺は聞いた。
「一回目の俺は」
彼女が、足を止めた。
「栞ちゃんのこと、好きだった?」
彼女は振り返らなかった。朝の光の中で紺色の背中が、震えた。
「……うん」
小さな声だった。
「すごく」
彼女は振り返った。泣いていた。声は出していなかった。涙をそのままにして、彼女は俺を見ていた。俺の顔を見ているのに、俺の向こうの誰かを見ているみたいだった。
何か言わなければいけなかった。何も、出てこなかった。
彼女は小さく頭を下げて土手を下りていった。線路沿いの道を歩道橋のほうへ。一度も振り返らずに。
*
ひとりでベンチに座っていた。日はもう高くなっていて、霜はほとんど溶けていた。鉄橋を何本目かの電車が渡っていった。祖父と見ていたのと同じ鉄橋だった。
犬を連れたおじいさんが「おはようございます」と言って通りすぎていった。おはようございます、と返した声が、自分の声じゃないみたいだった。
帰りは踏切を通った。その日は、一枚も撮らなかった。
警報機が鳴りはじめて、黄色と黒の棒がゆっくり下りてきた。四月の朝、彼女が立っていたのと同じ、遮断機のすぐ前だった。
一歩、うしろに下がっていた。
毎年の春も、この一年の日曜も、この前にしゃがんでファインダーをのぞいてきた。遮断機が下りてくるのを怖いと思ったのは、初めてだった。
急行が通りすぎて棒が上がった。俺は踏切を渡って家に帰った。
玄関を開けると味噌汁の匂いがした。台所から母が顔を出した。
「朝ごはんは? 日曜なのに早いじゃない」
河原で思い浮かべたのと、同じ顔だった。
「あとで」と言うと、母は「じゃあ、ラップしとくね」と言って台所へ戻った。
部屋に入って運命メモを開いた。
〈14 二十四日のバイト。航にしか言ってない〉
その下に、指が勝手に動いた。
〈15 二月九日〉
偶然でも、運命でもなかった。
それは、一回目の俺の、命日だった。




