第12章 踏切の見える所で
「御社が、七回」
月曜の学食で、千夏がESの紙を机に置いた。余白まで赤ペンの字でいっぱいだった。
「水無瀬さんに見てもらったの。朝いちで、図書館で。四百字の中に『御社』が七回あるって。しかも、書くときは『貴社』なんだって。あと、志望動機が三社とも『食べることが好きで』から始まってるって」
「事実じゃん」と航が言った。
「事実だから困ってんの」
千夏は赤い字を指でなぞった。年内に出す食品メーカーの早期選考のESだという。締め切りは二十五日で、「クリスマスに締め切る会社って、どうなの」と千夏は一度机に突っ伏した。
「でもさ、ここは削る、ここは千夏ちゃんの言葉で書いて、って、全部に線引いてくれて。金曜すっぽかしたお詫びだって、ジュースまでおごってくれた」
金曜日、学食に来なかった彼女を思い出した。日曜の朝の川の光も。
「よかったじゃん」と俺は言った。
「律、なんか声が死んでない?」
「寝てないだけ」
嘘ではなかった。
「水無瀬さんも、今朝、目が腫れてた」千夏はESの紙をそろえながら言った。「二人して、何なの」
答えられなかった。千夏も、二度は聞かなかった。
航はさっきからスマホのメモを見ながら、口の中で何かをつぶやいていた。
「何それ」と千夏が聞いた。
「クリスマスに、美咲に言うこと」航は真顔だった。「黙るのやめるって決めたから。言うことを、先に決めとく」
「見せて」
「やだ」
千夏が横からのぞきこんだ。航が画面を伏せる前に、俺にも一行目だけ見えた。
〈①まず謝る〉
「まず謝るんだ」と千夏が言った。
「夏から、ちゃんと会えてないから」航は耳を少し赤くした。「本題は②」
「②は?」
「まだ書けてない」
千夏が吹き出して、航も笑った。俺もつられて笑った。①しかないメモを、航は大事そうにポケットにしまった。
「律は」と航が言った。「二十四日、バイトだっけ」
「うん」
クリスマスは、律くんのバイトが終わるのを、お店の前で待った。日曜の朝、川のベンチで彼女はそう言った。一回目の話だった。
*
日曜の夜から運命メモを何度も開いた。一行目から十五行目の〈二月九日〉まで。川のベンチで聞いた一回目の話を、覚えているかぎり横に並べて、一行ずつ読んだ。最後まで読むとまた一行目に戻った。
メモにはない、合宿の朝のことで何度も止まった。一回目に背中をさすられていたのは俺で、今回は佐伯だった。
数えるの、やめたほうがいいよ。数えても、いいことないから。
やめられなかった。
夜中に窓を少し開けると、坂の下から警報機の音が上がってきた。この家で生まれてからずっと聞いてきた音だった。その夜は、電車が通りすぎたあともしばらく耳に残っていた。
火曜の昼、中庭を通ると、図書館の前のベンチに紺色のコートが見えた。長谷川さんと並んで、膝の上に卒論の紙を広げていた。長谷川さんが何か言って、彼女が笑った。
声をかけようとして、足が止まった。何を言えばいいのか、まだ分からなかった。彼女が顔を上げる前に、俺は中庭を抜けた。
火曜の夜、彼女にLINEを送った。何度も書き直して、結局短くなった。
〈千夏のES、ありがとう。すげえ喜んでた〉
既読はすぐについた。少しして、返事が来た。
〈よかった〉
それからもう一つ。
〈ちゃんと寝てね〉
四月から既読しかつかなかった画面に、彼女の字がまた二行増えた。布団の中で何度も画面をつけ直した。その夜も、結局眠れなかった。
*
出がけに玄関で靴をはいていると、母が台所から出てきて俺の顔をのぞきこんだ。
「あんた、ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
食べていなかった。母は何か言いたそうな顔をして、結局「いってらっしゃい」とだけ言った。
水曜日のバイトに入ると、店長がカウンターの下から白い封筒を出した。
「土曜の奥さん、月曜にまた来たんだよ。やっぱり現像してくれって。今日、取りに来る」
夕方、その人が来た。店長が封筒を渡すと、その人はしばらく開けずに持っていた。
「見ないでおこうと思ったんです」とその人は言った。「でも、引き出しにしまったら、毎晩そこばっかり見ちゃって。見ないでいるほうが、怖くなっちゃった」
封筒から写真の束が出てきた。その人はカウンターの上に一枚ずつ並べていった。庭の柿の木。夕飯の食卓。ベランダの洗濯物。台所に立っているエプロンの背中。ソファで口を開けて寝ている、その人自身。
「やだ、こんなの撮って」
その人は声を出して笑った。笑いながら二十枚を最後まで並べた。
「なんてことない写真ばっかり」とその人は言った。「……なんてことない日ばっかりだったのね」
店長は何も言わずに奥でお茶をいれていた。その人は写真を封筒に戻して、胸に抱えて帰っていった。ドアのベルが鳴って、店の中が静かになった。
棚のカメラを磨きながら、ソファで寝ている写真のことを考えていた。撮った人はたぶん、笑いをこらえながらシャッターを切ったのだと思う。
帰りの電車で、首から下げたカメラのフィルムカウンターを見た。「7」だった。この一年に撮った何百枚のうち、人が写っているのは、焼いていない十三枚目と、歩道橋の背中の一枚だけだった。
*
木曜の朝、四ツ谷へ向かう電車でスマホのメモを開いた。航のまねをして、①と打った。その先が出てこなかった。窓の外に外濠の土手が見えてきても、画面は①のままだった。
電車を降りる前に、①を消した。
木曜のゼミで、彼女はいつもどおりだった。作品展の壁の割り当て表を配りながら「芹沢くん、うしろに回して」と言った。四月と同じ落ち着いた先輩の声だった。日曜の朝、川のベンチで泣いていた人とは別の人みたいだった。
「水無瀬さん、この前、大丈夫だった? 顔まっしろだったよ」と長谷川さんが聞いた。
「うん。もう平気」
彼女はそう言って手元の紺色の手帳に目を落とした。
北条先生は三年の一人ずつに、作品展の並べ方を聞いていった。
「芹沢くんは、踏切だったね」先生は秋の中間発表の資料をめくった。「一年同じ場所に立っていたら、誰かが写りこむ、と六月に言ったけど。きみは、自分で撮りに行った」
ゼミ室が静かになった。
「最後まで、そのつもりで撮りなさい」
「はい」
彼女は顔を上げなかった。手帳の上で、ペンが止まっていた。
ゼミが終わると、彼女は誰よりも先に教室を出ていった。帰りの各駅停車では二つ前の車両に乗っていた。六月ごろは違う車両を選んでも、三回に一回は同じ車両になった。今日は彼女が自分で選んだ車両だった。
連結部の窓ごしに紺色のコートの肩が見えた。駅に止まるたびに人が減っていって、その肩だけがいつまでも同じ場所にあった。
坂のてっぺんの駅に着いたときには六時をすぎていた。空はとっくに暗くて、ホームの蛍光灯だけが白かった。
改札を出ると、彼女がいた。
券売機の横の明かりの下で、コートの襟に顎をうずめて立っていた。
「待ってた?」
「見張り」と彼女は言った。「今度は、私が」
坂を並んで下りた。彼女はやっぱり半歩うしろを歩いた。
「千夏ちゃんのES、見た?」
「御社が七回」
彼女は声を立てて笑った。白い息が街灯の下でほどけた。
「笑っちゃだめなんだけどね。三つとも『食べることが好きで』で始まってて。でも読んでると、千夏ちゃんが本当に食べるのが好きなのが分かるの。だから、そこだけは消さないでって言った」
「千夏、喜んでた」
「ほんと?」
「ジュースの話、三回された」
彼女はまた笑った。少し黙って、「よかった」と小さく言った。
分かれ道の少し手前で、坂の下の踏切が見えてくる。彼女はそこで、いつものように足をゆるめた。
ちょうど警報機が鳴りはじめた。赤いランプが交互に点いて、遠くで遮断機がゆっくり下りていくのが見えた。
俺は立ち止まった。コートのポケットの中で、日曜にもらったカイロを握った。とっくに冷たくなっていたのに、まだ捨てられずにいた。
半歩うしろの足音も、止まった。
「栞ちゃん」
彼女はすぐには答えなかった。踏切のほうを向いたまま、コートの襟にもう一度顎をうずめた。
「……言わないで」
「桟橋では、言わなかった」と俺は言った。「今日は、言う」
「言ったら、同じになる」
彼女の声が高くなった。
「一回目と、同じになっちゃう。だから私、八か月——」
電車が踏切を通りすぎていった。窓の明かりがひと続きの線になって流れていった。音が遠ざかるまで、俺は待った。
遮断機が上がって、赤いランプが消えた。
「好きにならない一年より、好きでいる一年がいい」
それだけ言った。
彼女は、動かなかった。
どこかの家の換気扇から夕飯の匂いが流れてきた。
「……だめ」
「だめだよ、律くん。だめ——」
そこで、声が崩れた。
最初は、息を吸う音だった。それから喉の奥で何かがつかえるような音がして、それが、声になった。
彼女は両手で顔を覆った。
この人が声を出して泣くのを、俺は初めて聞いた。今は、子どもみたいだった。しゃくり上げて、息が続かなくて、それでも止まらなかった。
自転車の人がちらっとこっちを見て、通りすぎていった。向かいの家の二階に明かりがついて、すぐにカーテンが閉まった。
どうしたらいいのか分からなかった。
人ひとり分の隙間を、俺は自分から詰めた。彼女は逃げなかった。額がコートの肩に当たった。泣き声が布越しに、胸のあたりで響いた。
手を彼女の背中に置いた。うしろ髪が少しだけはねていた。今日は、それを言わなかった。
どのくらいそうしていたのか分からない。踏切がもう一度鳴って、また静かになった。
彼女が鼻をすすりながら顔を上げた。目も鼻も真っ赤だった。
「……遅いよ」
「え」
「一回目は、九月だったのに」
泣き顔のまま、彼女は笑った。
「知ってる。日曜に聞いた」
「覚えてなくていいのに」
彼女は俺のコートの胸を、こぶしで一回だけ叩いた。痛くなかった。それからまた少し泣いて、また少し笑った。
分かれ道まで二人で歩いた。彼女はもう半歩うしろではなかった。歩くたびにコートの袖と袖が触れた。
「二十四日」と彼女が言った。「バイト、何時まで?」
「九時。なんで」
「お店の前で、待っててもいい?」
川のベンチで聞いた一回目の話を思い出した。
「それ、一回目と同じじゃん」
「同じでいいの」彼女は前を向いたまま言った。「それは、同じがいい」
「九時まで外だと、寒いよ」
「知ってる」彼女は笑った。「一回目も、寒かった」
分かれ道で彼女は立ち止まった。
「じゃあね」と言いかけて、口を閉じた。少し考えてから彼女は言った。
「また明日」
言い直さなかった。
俺が言う前に、彼女が言った。八か月、一度も返ってこなかった言葉だった。
「うん」と俺は言った。「また明日」
彼女は線路から離れていく道を歩いていった。街灯の下で一度だけ振り返って、小さく手を振った。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺は分かれ道に立っていた。
*
踏切を渡って家に帰った。居間で新聞を読んでいた父が、一度だけ顔を上げた。台所から母が顔を出した。
「ご飯は?」
「食べる」
ご飯のおかわりを頼むと、母は目を丸くして、何も聞かずに笑いながらよそってくれた。日曜からろくに食べていなかった。
部屋に入って運命メモを開いた。十六行目に何か打とうとして、指が止まった。
今夜は同じ車両でも、くじでも、猫でもなかった。
画面を消した。
運命じゃなくて、俺が決めたことだったから。
その夜は日曜から初めて、朝まで眠った。




