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ハッピーアイスクリーム  作者: 成瀬ルイ
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12/22

第12章 踏切の見える所で

「御社が、七回」

 月曜の学食で、千夏がESの紙を机に置いた。余白まで赤ペンの字でいっぱいだった。

「水無瀬さんに見てもらったの。朝いちで、図書館で。四百字の中に『御社』が七回あるって。しかも、書くときは『貴社』なんだって。あと、志望動機が三社とも『食べることが好きで』から始まってるって」

「事実じゃん」と航が言った。

「事実だから困ってんの」

 千夏は赤い字を指でなぞった。年内に出す食品メーカーの早期選考のESだという。締め切りは二十五日で、「クリスマスに締め切る会社って、どうなの」と千夏は一度机に突っ伏した。

「でもさ、ここは削る、ここは千夏ちゃんの言葉で書いて、って、全部に線引いてくれて。金曜すっぽかしたお詫びだって、ジュースまでおごってくれた」

 金曜日、学食に来なかった彼女を思い出した。日曜の朝の川の光も。

「よかったじゃん」と俺は言った。

「律、なんか声が死んでない?」

「寝てないだけ」

 嘘ではなかった。

「水無瀬さんも、今朝、目が腫れてた」千夏はESの紙をそろえながら言った。「二人して、何なの」

 答えられなかった。千夏も、二度は聞かなかった。

 航はさっきからスマホのメモを見ながら、口の中で何かをつぶやいていた。

「何それ」と千夏が聞いた。

「クリスマスに、美咲に言うこと」航は真顔だった。「黙るのやめるって決めたから。言うことを、先に決めとく」

「見せて」

「やだ」

 千夏が横からのぞきこんだ。航が画面を伏せる前に、俺にも一行目だけ見えた。

〈①まず謝る〉

「まず謝るんだ」と千夏が言った。

「夏から、ちゃんと会えてないから」航は耳を少し赤くした。「本題は②」

「②は?」

「まだ書けてない」

 千夏が吹き出して、航も笑った。俺もつられて笑った。①しかないメモを、航は大事そうにポケットにしまった。

「律は」と航が言った。「二十四日、バイトだっけ」

「うん」

 クリスマスは、律くんのバイトが終わるのを、お店の前で待った。日曜の朝、川のベンチで彼女はそう言った。一回目の話だった。


   *


 日曜の夜から運命メモを何度も開いた。一行目から十五行目の〈二月九日〉まで。川のベンチで聞いた一回目の話を、覚えているかぎり横に並べて、一行ずつ読んだ。最後まで読むとまた一行目に戻った。

 メモにはない、合宿の朝のことで何度も止まった。一回目に背中をさすられていたのは俺で、今回は佐伯だった。

 数えるの、やめたほうがいいよ。数えても、いいことないから。

 やめられなかった。

 夜中に窓を少し開けると、坂の下から警報機の音が上がってきた。この家で生まれてからずっと聞いてきた音だった。その夜は、電車が通りすぎたあともしばらく耳に残っていた。

 火曜の昼、中庭を通ると、図書館の前のベンチに紺色のコートが見えた。長谷川さんと並んで、膝の上に卒論の紙を広げていた。長谷川さんが何か言って、彼女が笑った。

 声をかけようとして、足が止まった。何を言えばいいのか、まだ分からなかった。彼女が顔を上げる前に、俺は中庭を抜けた。

 火曜の夜、彼女にLINEを送った。何度も書き直して、結局短くなった。

〈千夏のES、ありがとう。すげえ喜んでた〉

 既読はすぐについた。少しして、返事が来た。

〈よかった〉

 それからもう一つ。

〈ちゃんと寝てね〉

 四月から既読しかつかなかった画面に、彼女の字がまた二行増えた。布団の中で何度も画面をつけ直した。その夜も、結局眠れなかった。


   *


 出がけに玄関で靴をはいていると、母が台所から出てきて俺の顔をのぞきこんだ。

「あんた、ちゃんと食べてる?」

「食べてる」

 食べていなかった。母は何か言いたそうな顔をして、結局「いってらっしゃい」とだけ言った。

 水曜日のバイトに入ると、店長がカウンターの下から白い封筒を出した。

「土曜の奥さん、月曜にまた来たんだよ。やっぱり現像してくれって。今日、取りに来る」

 夕方、その人が来た。店長が封筒を渡すと、その人はしばらく開けずに持っていた。

「見ないでおこうと思ったんです」とその人は言った。「でも、引き出しにしまったら、毎晩そこばっかり見ちゃって。見ないでいるほうが、怖くなっちゃった」

 封筒から写真の束が出てきた。その人はカウンターの上に一枚ずつ並べていった。庭の柿の木。夕飯の食卓。ベランダの洗濯物。台所に立っているエプロンの背中。ソファで口を開けて寝ている、その人自身。

「やだ、こんなの撮って」

 その人は声を出して笑った。笑いながら二十枚を最後まで並べた。

「なんてことない写真ばっかり」とその人は言った。「……なんてことない日ばっかりだったのね」

 店長は何も言わずに奥でお茶をいれていた。その人は写真を封筒に戻して、胸に抱えて帰っていった。ドアのベルが鳴って、店の中が静かになった。

 棚のカメラを磨きながら、ソファで寝ている写真のことを考えていた。撮った人はたぶん、笑いをこらえながらシャッターを切ったのだと思う。

 帰りの電車で、首から下げたカメラのフィルムカウンターを見た。「7」だった。この一年に撮った何百枚のうち、人が写っているのは、焼いていない十三枚目と、歩道橋の背中の一枚だけだった。


   *


 木曜の朝、四ツ谷へ向かう電車でスマホのメモを開いた。航のまねをして、①と打った。その先が出てこなかった。窓の外に外濠の土手が見えてきても、画面は①のままだった。

 電車を降りる前に、①を消した。

 木曜のゼミで、彼女はいつもどおりだった。作品展の壁の割り当て表を配りながら「芹沢くん、うしろに回して」と言った。四月と同じ落ち着いた先輩の声だった。日曜の朝、川のベンチで泣いていた人とは別の人みたいだった。

「水無瀬さん、この前、大丈夫だった? 顔まっしろだったよ」と長谷川さんが聞いた。

「うん。もう平気」

 彼女はそう言って手元の紺色の手帳に目を落とした。

 北条先生は三年の一人ずつに、作品展の並べ方を聞いていった。

「芹沢くんは、踏切だったね」先生は秋の中間発表の資料をめくった。「一年同じ場所に立っていたら、誰かが写りこむ、と六月に言ったけど。きみは、自分で撮りに行った」

 ゼミ室が静かになった。

「最後まで、そのつもりで撮りなさい」

「はい」

 彼女は顔を上げなかった。手帳の上で、ペンが止まっていた。

 ゼミが終わると、彼女は誰よりも先に教室を出ていった。帰りの各駅停車では二つ前の車両に乗っていた。六月ごろは違う車両を選んでも、三回に一回は同じ車両になった。今日は彼女が自分で選んだ車両だった。

 連結部の窓ごしに紺色のコートの肩が見えた。駅に止まるたびに人が減っていって、その肩だけがいつまでも同じ場所にあった。

 坂のてっぺんの駅に着いたときには六時をすぎていた。空はとっくに暗くて、ホームの蛍光灯だけが白かった。

 改札を出ると、彼女がいた。

 券売機の横の明かりの下で、コートの襟に顎をうずめて立っていた。

「待ってた?」

「見張り」と彼女は言った。「今度は、私が」

 坂を並んで下りた。彼女はやっぱり半歩うしろを歩いた。

「千夏ちゃんのES、見た?」

「御社が七回」

 彼女は声を立てて笑った。白い息が街灯の下でほどけた。

「笑っちゃだめなんだけどね。三つとも『食べることが好きで』で始まってて。でも読んでると、千夏ちゃんが本当に食べるのが好きなのが分かるの。だから、そこだけは消さないでって言った」

「千夏、喜んでた」

「ほんと?」

「ジュースの話、三回された」

 彼女はまた笑った。少し黙って、「よかった」と小さく言った。

 分かれ道の少し手前で、坂の下の踏切が見えてくる。彼女はそこで、いつものように足をゆるめた。

 ちょうど警報機が鳴りはじめた。赤いランプが交互に点いて、遠くで遮断機がゆっくり下りていくのが見えた。

 俺は立ち止まった。コートのポケットの中で、日曜にもらったカイロを握った。とっくに冷たくなっていたのに、まだ捨てられずにいた。

 半歩うしろの足音も、止まった。

「栞ちゃん」

 彼女はすぐには答えなかった。踏切のほうを向いたまま、コートの襟にもう一度顎をうずめた。

「……言わないで」

「桟橋では、言わなかった」と俺は言った。「今日は、言う」

「言ったら、同じになる」

 彼女の声が高くなった。

「一回目と、同じになっちゃう。だから私、八か月——」

 電車が踏切を通りすぎていった。窓の明かりがひと続きの線になって流れていった。音が遠ざかるまで、俺は待った。

 遮断機が上がって、赤いランプが消えた。

「好きにならない一年より、好きでいる一年がいい」

 それだけ言った。

 彼女は、動かなかった。

 どこかの家の換気扇から夕飯の匂いが流れてきた。

「……だめ」

「だめだよ、律くん。だめ——」

 そこで、声が崩れた。

 最初は、息を吸う音だった。それから喉の奥で何かがつかえるような音がして、それが、声になった。

 彼女は両手で顔を覆った。

 この人が声を出して泣くのを、俺は初めて聞いた。今は、子どもみたいだった。しゃくり上げて、息が続かなくて、それでも止まらなかった。

 自転車の人がちらっとこっちを見て、通りすぎていった。向かいの家の二階に明かりがついて、すぐにカーテンが閉まった。

 どうしたらいいのか分からなかった。

 人ひとり分の隙間を、俺は自分から詰めた。彼女は逃げなかった。額がコートの肩に当たった。泣き声が布越しに、胸のあたりで響いた。

 手を彼女の背中に置いた。うしろ髪が少しだけはねていた。今日は、それを言わなかった。

 どのくらいそうしていたのか分からない。踏切がもう一度鳴って、また静かになった。

 彼女が鼻をすすりながら顔を上げた。目も鼻も真っ赤だった。

「……遅いよ」

「え」

「一回目は、九月だったのに」

 泣き顔のまま、彼女は笑った。

「知ってる。日曜に聞いた」

「覚えてなくていいのに」

 彼女は俺のコートの胸を、こぶしで一回だけ叩いた。痛くなかった。それからまた少し泣いて、また少し笑った。

 分かれ道まで二人で歩いた。彼女はもう半歩うしろではなかった。歩くたびにコートの袖と袖が触れた。

「二十四日」と彼女が言った。「バイト、何時まで?」

「九時。なんで」

「お店の前で、待っててもいい?」

 川のベンチで聞いた一回目の話を思い出した。

「それ、一回目と同じじゃん」

「同じでいいの」彼女は前を向いたまま言った。「それは、同じがいい」

「九時まで外だと、寒いよ」

「知ってる」彼女は笑った。「一回目も、寒かった」

 分かれ道で彼女は立ち止まった。

「じゃあね」と言いかけて、口を閉じた。少し考えてから彼女は言った。

「また明日」

 言い直さなかった。

 俺が言う前に、彼女が言った。八か月、一度も返ってこなかった言葉だった。

「うん」と俺は言った。「また明日」

 彼女は線路から離れていく道を歩いていった。街灯の下で一度だけ振り返って、小さく手を振った。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺は分かれ道に立っていた。


   *


 踏切を渡って家に帰った。居間で新聞を読んでいた父が、一度だけ顔を上げた。台所から母が顔を出した。

「ご飯は?」

「食べる」

 ご飯のおかわりを頼むと、母は目を丸くして、何も聞かずに笑いながらよそってくれた。日曜からろくに食べていなかった。

 部屋に入って運命メモを開いた。十六行目に何か打とうとして、指が止まった。

 今夜は同じ車両でも、くじでも、猫でもなかった。

 画面を消した。

 運命じゃなくて、俺が決めたことだったから。

 その夜は日曜から初めて、朝まで眠った。

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