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ハッピーアイスクリーム  作者: 成瀬ルイ
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第13章 ぬるいココア

 金曜日は「また明日」の明日だった。

 昼休みの学食で栞ちゃんは千夏の隣に座って、俺の向かいでカレーを食べた。しゃべっていたのはほとんど千夏で、俺たちはろくに話さなかった。それだけで一日じゅう機嫌がよかった。我ながら安い。

 付き合うことになった、と千夏に話したのは栞ちゃんのほうだったらしい。夜、千夏からLINEが来た。

〈聞いた〉

 ちょっとあいて。

〈おめでと〉

〈中途半端なことしたら、怒るからね〉

 〈しない〉と返したら一瞬で既読がついて、親指を立てた熊のスタンプが飛んできた。

 航には自分で電話した。航は三秒くらい黙ってから「お前が?」と言った。それから「よかったな」と言って、もう一回「お前が?」と言った。二回目のほうが本気で驚いていた。


   *


 二十日の日曜は朝からよく晴れた。

 いつもどおり坂の下の踏切を撮った。遮断機の手前にしゃがんで祖父の構図に合わせて、急行が来るのを待つ。シャッターを切って顔を上げたら、歩道橋の上で紺色のコートが手を振っていた。そのまま俺がカメラをしまうまで、手すりにもたれて待っていてくれた。

「で、どこ行くの。まだ聞いてないんだけど」

 階段を下りてきた栞ちゃんは、コートのポケットから二つ折りのメモを出した。乗り換えの駅と時刻が几帳面な字でびっしり書いてある。いちばん下に、行き先。

「江ノ島」

「海、見たいでしょって」と彼女は言った。「一回目の律くんが、連れてってくれたの」

 江ノ島なんて行ったこともなかった。一回目の俺は、なんでそんなところを思いついたんだろう。たぶんあのアイコンの海を毎日みたいに眺めてたんだと思う。今の俺と同じで。


   *


 電車を二回乗り換えて、一時間ちょっと。

 二回目の乗り換えのあと、彼女がイヤホンを片方外して黙ってこっちに差し出した。耳に入れたら知ってる曲が流れてきた。ソラニワの『明日の天気』。運命メモの一行目の曲だ。

 何か言おうとして、やめた。彼女も何も言わなかった。窓の外を畑と住宅地と、ときどき川が流れていく。

 三曲目のあたりで肩が重くなった。見たら、寝ていた。俺の肩に頭をのせて、口を少しだけ開けて。

 七月の電車では、ひとり分の隙間をあけて、文庫本から顔を上げなかったくせに。

 カメラは膝の上にあったけど撮らなかった。肩を動かしたら起こしてしまいそうで。終点まで動かなかった。肩がしびれても、動かなかった。


   *


 駅を出たら潮の匂いがした。長い橋の先に島があった。思ってたより近くて、思ってたより大きい。橋の上は風がすごくて、栞ちゃんの髪がうしろから前へばさっと吹き上がった。

「はねた」

 両手で押さえても押さえても、はねる。笑ったら彼女も笑った。

 橋の真ん中で立ち止まって、海のほうを見た。右も左も海で、冬の光がまぶしかった。風の音がうるさくて、ほかには何も聞こえなかった。振り返ったら栞ちゃんは何歩かうしろで、コートのポケットに両手を入れて、早く行こうという顔をしていた。

 島に渡ると土産物屋の並ぶ坂道で、途中の一軒にだけ長い列ができていた。

「一回目の律くんは、ここに二十分並んだ」

「並んだの?」

「並んだ。寒い寒いって言いながら」

「じゃあ、並ぶか」

「並ぶの?」

「並ぶでしょ。来たんだから」

 列はやっぱり二十分だった。

 焼き上がったせんべいは顔が隠れるくらいでかくて、紙袋からはみ出していた。かじったらばりっとすごい音がした。栞ちゃんが吹き出した。

「なに」

「一回目も、おんなじ音した」

 島の奥へ階段を上ったり下りたりした。神社の前で彼女はちょっと長く手を合わせていた。何をお願いしたのかは、聞かなかった。


   *


 島のいちばん奥で長い階段を下りた。段が急で、途中から栞ちゃんは俺のコートの袖をつまんで下りた。下りきると岩だらけの磯に出た。

 目の前が、全部、海だった。

 平らな岩が波打ちぎわまで続いていて、あちこちに潮だまりがある。釣りの人とカメラの人が何人かいて、みんな同じほうを向いていた。

 海の向こうに、富士山があった。

 びっくりするくらいはっきり見えた。雪をかぶったてっぺんまで、全部。日はそれよりずっと左の、伊豆のほうの山に傾いていた。

「富士山に沈むんじゃないんだ」と彼女が言った。

「冬は、もっと左なんだって」

「詳しいね」

「じいちゃんの受け売り」

 彼女はなんだかうれしそうに笑った。前から知ってたみたいな顔で。

 栞ちゃんは平らな岩を見つけてそこに座った。俺も隣に座った。隙間は、なかった。

 波が岩にぶつかって白く砕ける。そのたびに細かいしぶきが風に乗って飛んでくる。

「うちの海はね、波がないの」と彼女が言った。

「広島の?」

「うん。島ばっかりで、湖みたいなの。牡蠣の筏が、ずーっと並んでて」彼女は膝を抱えた。「小さいころは、海ってそういうものだと思ってた。こっちに来て、初めて、海が怒ってるのを見た」

「怒ってる?」

「波って、怒ってるみたいじゃない?」

 ちょっと笑ってから彼女は言った。

「一回目も、この話したの。同じ話になっちゃうけど」

「いいよ」と俺は言った。「聞きたい」

 彼女はちらっと俺を見て、また海のほうを向いて話しはじめた。弟の翔太が小さいころ、筏まで泳いでいくって言って聞かなかったこと。お母さんが牡蠣の殻で指を切っても絆創膏を一枚貼るだけで、また殻をむいてたこと。高校の帰りに自転車を止めて夕方の海をただぼーっと見てたこと。

「一月に」と彼女が言った。「ちょっとだけ、帰ろうかな」

「お母さん、喜ぶよ」

「翔太は、たぶん、喜ばないふりする」

 楽しそうな声だった。

 日が山の端にかかった。まわりでシャッターの音が増えた。俺もカメラを出して海を撮った。富士山と沈んでいく日と、海の上にのびる光の道。一枚撮って、巻き上げて、もう一枚。

 ファインダーから目を離したら、栞ちゃんがこっちを見ていた。

「背中、撮っていい?」

 ちょっと考えてから彼女は言った。

「いいよ。今日は、はねてないから」

 言ったそばから風が吹いて、また、はねた。二人して笑った。

 彼女は立ち上がって波打ちぎわのほうへ何歩か歩いて、くるっと背中を向けた。紺色のコートと、はねた髪と、富士山と、沈んでいく日。

 シャッターを切った。

 戻ってきた栞ちゃんが「焼いたら、見せて」と言った。

「顔、写ってないよ」

「知ってる」と彼女は言った。「だから、見せて」

 日が沈んだらいきなり寒くなった。空がオレンジから紫になっていく。富士山の形だけが最後まで黒く残っていた。

 帰りの階段がとにかく長かった。上りきるころには二人とも息が切れていて、顔を見合わせてまた笑った。

 島のてっぺんの庭園には、もう灯りがついていた。

 栞ちゃんは灯りの下をゆっくり歩いて、ときどき立ち止まっては見上げた。

「……きれい」

 正直に言うと灯りはほとんど見ていなかった。

 夕方から栞ちゃんは一回目の話をしなくなっていた。気づいたのは帰りの電車に乗ってからだった。

 彼女は行きみたいには眠らなかった。卒論の締め切りが一月の何日だとか、千夏のESは間に合うのかとか、航のメモの②は書けたのかとか、そんな話をした。窓の外はもう真っ暗だった。

 なんてことない話ばっかりだった。


   *


 二十二日は年内最後の授業の日だった。学食で千夏が書き上がったESを小声で読み上げた。栞ちゃんは向かいで目をつぶって聞いていた。最後まで読むと千夏は顔を上げて、「御社、ゼロ」と言った。栞ちゃんが小さく拍手をしたので、俺もした。「二十五日の朝に出す」と千夏は言った。


   *


 二十四日は店がやたら混んだ。

 クリスマスに中古のカメラを買いに来る人が、こんなにいるなんて知らなかった。娘に、と古いハーフカメラを選んでいくお父さんがいた。店長は朝からごきげんで、八時に店を閉めたあともレジを締めながら鼻歌を歌っていた。

 八時半を回ったころ、店長が閉めたガラス戸の外をのぞいて言った。

「芹沢くん、外の子、さっきから待ってるよ。あとはやっとくから、上がりな」

 頭を下げて裏口から飛び出した。店の前のガードレールに栞ちゃんがもたれていた。コートの襟に顎をうずめて、紙コップを一つ持っている。

「二つ買ったんだけど、待ってるあいだに一つ飲んじゃった」と彼女は言った。「こっちは、まだあったかいから」

 受け取ったココアは、ぬるかった。

「ぬるい」

「あったかいって言ったのに」

 彼女は、なぜか笑った。

「一回目は、このあとどこ行ったの」

「ラーメン」

「クリスマスに?」

「クリスマスに」

 ぬるいココアは駅に着くまでに全部飲んだ。甘すぎて、うまかった。

 電車で四ツ谷まで行って、いつものラーメン屋に入った。クリスマスの夜なのに、カウンターは飲み会帰りの学生で半分埋まっていた。

「麺かため、味濃いめ、油多め」

 栞ちゃんが先に頼んだ。俺はちょっと迷った。

「油、多めで」

「だめ」と彼女が言った。「律くんは、少なめ」

「なんで」

「明日もバイトでしょ」

 店員さんが笑いをこらえた顔で「少なめで」と言い直した。

 待っているあいだにスマホが震えた。航からだった。

〈②、言えた〉

 ちょっとして、もう一行。

〈美咲、泣いてた。いい意味で〉

 画面を見せたら栞ちゃんは「よかった」と言って、自分のことみたいに笑った。

 ラーメンが来ると彼女はおいしそうにすすって、油の浮いたスープをれんげで何度も口に運んだ。見ていたら、彼女は丼を少しだけこっちへ押した。

「一口だけね」

 れんげで一口もらった。重たくて、うまかった。

「うま」

「でしょ」と彼女は言った。「油多めは、おいしいから」

「プレゼント、用意してない」と俺は言った。

「私も」

「年越し、どうする」

「一緒に」と彼女は言った。「プレゼントは、そのときにしよ」

 店を出て駅に向かう途中、教会の前を通った。六月の雨の日、彼女が一度だけ振り返った場所だ。

 今日は、隣を歩いていた。


   *


 坂のてっぺんの駅に着いたのは十一時すぎだった。分かれ道までの坂を並んで下りた。息が白い。

 栞ちゃんが黙って俺のコートのポケットに手を突っこんできて、変な顔をした。

「なにこれ」

 出てきたのは歩道橋でもらったカイロだった。とっくに冷えてかちかちに固まっていた。

「捨てられなくて」

「ばか」

 彼女は笑って、自分のポケットから新しいカイロを出した。袋を破ってしゃかしゃか振ってから、俺のポケットに入れる。古いほうは自分のポケットにしまって、また俺のポケットに手を入れてきた。

 分かれ道に着くまでどっちも手を出さなかった。

 メリークリスマスって言い忘れたのに気づいたのは、家に着いてからだった。

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