第14章 六時の坂
二十六日のバイトのあと、店長に頼んで店の奥の暗室を借りた。中古のカメラを試し撮りしたフィルムを焼くための、物置みたいな部屋だ。
江ノ島の一本を焼いた。赤い安全灯の下で、印画紙にゆっくり影が浮かんでくる。最初に、岩の黒。それから、海の上の光の道。最後に、はねた髪の、紺色の背中。
二枚焼いた。一枚は自分の分にした。
暗室を出ると店長がレジの横で、乾かしている写真をのぞきこんでいた。
「この前の、外で待ってた子?」
「そうです」
「背中かあ」店長はなぜかうれしそうに言った。「いいね。背中は、うそつかないから」
次の朝、いつものように踏切を撮ってから歩道橋の上でもう一枚を渡した。栞ちゃんは両手で写真の端を持って、長いこと見ていた。
「はねてる」
「はねてる」
彼女は吹き出した。写真を持ったまま肩を揺らして笑った。
「ひどい。富士山より目立ってる」
「いい写真だろ」
「うん」と彼女は言った。「いい写真」
写真をコートの内ポケットにしまって、彼女は手すりにもたれた。線路の上の空が、やけに青かった。なんか全部うまくいく気がした。
「一回目の十二月、ほかに何があった?」
聞くつもりはなかった。
栞ちゃんはすぐには答えなかった。手すりに置いた手袋の指先を、じっと見ていた。
「数えないでって、言ったのに」
「数えてない。聞いてるだけ」
「同じだよ」
「同じじゃないって」
しばらく黙ってから、彼女は小さく息をはいた。白い息が、すぐ消えた。
「今日」
「今日?」
「夕方の六時ごろ。この坂で、ライトのついてない自転車が下りてきて」彼女は坂の上のほうを見た。「律くんが、私を引っぱってくれたの。そのとき、右手の甲を、ブロック塀でこすって。三日くらい、フィルムの巻き上げがしにくいって言ってた」
右手を見た。今は、何ともない手だった。
「じゃあさ」と俺は言った。「今日は、六時にこの坂にいなきゃいいんじゃん」
「変わらないよ」
「やってみなきゃ分かんないだろ」
どうしても確かめたかった。
彼女は俺の顔を見ていた。それから目をそらして、手袋の指先をいじった。
「一回だけね」
少しして、もう一言。
「私だって、変わってほしいもん」
*
いったん家に帰って、着替えてからまた出かけた。玄関で靴をはいていると、居間で新聞を読んでいた父が顔を上げないまま「気をつけてな」と言った。いつもの声だった。「うん」と返すまでに、少しかかった。
昼すぎの電車で新宿に出た。作戦は単純だった。六時をまたいで町からいちばん遠いところにいる。映画館の真っ暗な席に座っている。それだけ。
年末の映画館は混んでいて、真ん中の列の端っこしか取れなかった。始まったのは名前も聞いたことのない外国の映画だった。家族がばらばらになってまた集まる話、だったと思う。正直ほとんど覚えていない。
時計ばかり見ていた。
五時五十分。五時五十五分。隣で栞ちゃんも、スマホの画面を手のひらで隠しながら何回も見ていた。
六時になった。
スクリーンの中で誰かが笑っていた。客席の誰かがポップコーンを落とした。それだけだった。
六時十分になって、六時半になった。俺の右手は膝の上で、何ともないままだった。
映画が終わって外に出ると、新宿の夜は年末の人でごった返していた。俺は人混みの真ん中で思わず栞ちゃんの両手をつかんだ。
「変わったじゃん」
「うん」
「変わったって。な?」
「うん」
彼女は笑った。ちょっとだけ気をつけながら笑っているみたいな笑い方だった。それでも、笑ってくれた。
駅前の安い中華で餃子を二皿食べた。俺はずっとしゃべっていた。二月もこうやって外にいればいいんじゃないか。一日じゅう町からいちばん遠いところに。映画を二本見てもいい。三本でもいい。
「三本は、お尻が痛くなるよ」と彼女は言った。
「じゃあ、二本と、ボウリング」
「ボウリングは、やだ。ガターばっかりだもん」
「ストライク出したじゃん」
「あれは、たまたま」
それで二人で笑った。笑いながら、彼女は俺の皿から餃子を一個とっていった。
*
帰りの電車で栞ちゃんは俺の右手を手袋の両手で包んで、ずっと握っていた。
「何それ」
「寒いから」
彼女は窓の外を見たまま言った。
坂のてっぺんの駅に着いたのは九時前だった。
「坂、やめとこ」と俺は言った。「今日は、念のため」
線路沿いの細い道を遠回りして下りた。片側は線路との境の金網で、もう片側は古い家のブロック塀。街灯はところどころにしかない。
栞ちゃんは俺の左側を歩いていた。手は俺のコートのポケットの中だった。
「六時、過ぎたね」と彼女が言った。
「とっくに」
「そうだね」
音がしたのは、そのときだった。
かしゃかしゃ、というチェーンの音。振り返ったら暗がりの上のほうから何かがすごい速さで下りてきた。ライトは、ついていなかった。
考える前に体が動いていた。ポケットの中の手ごと彼女を引っぱった。金網のほうへ。自転車がさっきまで彼女のいたところを風みたいに抜けていった。乗っていた男は振り返りもしなかった。
右手の甲が、熱かった。
見ると金網にこすった皮膚がめくれて、血がにじんでいた。指の付け根の、少し上。
栞ちゃんが俺の右手を両手で持った。街灯の下まで引っぱっていって、黙って見ていた。
「……同じ所」
坂じゃなかった。ブロック塀でもなかった。六時でもなかった。それなのに、同じ手の、同じ所だった。
偶然だよ、と言いかけて、やめた。運命メモに十六行目を書く気にはとてもなれなかった。
*
アパートまで、彼女は一言もしゃべらなかった。俺の右手を自分のコートのポケットに入れて、外の鉄の階段を上がるときも離さなかった。二人分の足音が、かん、かん、と夜に響いた。
栞ちゃんの部屋の狭い台所で手を洗われた。水道の水を細く出して、傷のまわりの砂を指の腹で一つずつ落としていく。消毒、しないの、と聞いたら、しないほうが早く治るの、と言った。引き出しから傷用の絆創膏を出して、角がめくれないようにゆっくり貼ってくれた。
その指が、ずっと震えていた。
「痛い?」
「痛くない」
嘘だった。
手当てが終わっても彼女は俺の手を離さなかった。絆創膏の上からそっと親指でなでていた。
「変わらないの」と彼女は言った。「小さいことも、ちゃんと、戻ってくるの」
「……ふざけんなよ」
声が出た。彼女に言ったんじゃなかった。
「なんで、こんなどうでもいいことまで。六時、過ぎたじゃん。坂、通ってないじゃん。なんで——」
そこから先は言葉にならなかった。台所の換気扇が、ずっと回っていた。
栞ちゃんは何も言わなかった。俺の手を持ったまま下を向いていた。
「二月は、試せないの」
小さな声だった。
「一回しか、ないから」
絆創膏の上で親指が止まっていた。しばらくして彼女が言った。
「……今日は、泊まっていけば」
顔を上げると、彼女はまっすぐこっちを見ていた。目のふちが少し赤かった。
「夜道、一人で歩いてほしくない」
その目を見ていたら、何かが喉もとまで来た。まだ言葉になっていなかった。朝までここにいたら、たぶん、なる。
絆創膏の上で止まっている親指を見た。同じ手の、同じ所だった。
このまま朝までいたら、二月まで全部、一回目のとおりに運ばれていく気がした。
うなずけばよかった。うなずいて、ここにいればよかった。
「大丈夫」と俺は言った。「すぐそこだし」
玄関で靴をはいていると、うしろで彼女が何か言いかけて、やめた気配がした。振り返らなかった。
「おやすみ」
「……おやすみ」
また明日、は、出てこなかった。
ドアが閉まった。チェーンの音は、しなかった。
*
坂を下りた。途中で古いブロック塀の前を通った。一回目の俺が手をこすった塀だった。
踏切まで来るとちょうど警報機が鳴りはじめた。赤いランプが交互に点いて、黄色と黒の棒がゆっくり下りてくる。下りの電車が通りすぎて、棒が上がった。
渡れなかった。
右手の甲がどくん、どくん、と脈を打っていた。警報機はもう止まっているのに、耳の奥でまだ鳴っていた。
足が、動かなかった。いつもの踏切だった。毎週この前にしゃがんで、ファインダーをのぞいてきた。四月の朝、彼女はこの遮断機の前に立っていた。それなのに、一歩が出なかった。
遮断機の柱を蹴った。爪先が痛いだけだった。歩道橋を見上げた。上る気にもなれなかった。
気がついたら、坂を上っていた。家とは反対のほうへ。
分かれ道で一回だけ、アパートのほうを見た。二階の角部屋に、まだ明かりがついていた。
見なかったことにして坂を上った。
日曜の夜の駅には誰もいなかった。ホームのベンチは座ると氷みたいに冷たかった。坂の下から警報機の音が上がってきて、止まった。また鳴って、また止まった。そのたびに右手の甲が脈を打った。二月九日まで、あと何日あるのか。数えないでって言われたのに、頭が勝手に数えていた。四十四日だった。
四十四日あとの夜のことを、彼女は土手で言った。私も、家にいる。二人とも行かなければ、何も起きないはずだから。
はず、と彼女は言った。
今夜、分かってしまった。六時を過ぎても、坂を通らなくても、同じ手の同じ所に戻ってきた。だったら、あの夜も戻ってくる。二人とも家にいても、どっちかが、あそこに立つことになる。
そして、そういうことを俺より先に、ずっと前から知っているのは彼女だった。私も、家にいる、と言ったときの顔を思い出した。鉄橋を見ながら、いつもの顔で言った。いつもの顔で、この人は、自分で行くつもりなんじゃないか。
だったら。
さっきあの部屋で喉もとまで来たものが、ベンチの上で言葉になった。
一回目にあそこで死んだのは、俺だ。もともと俺の番だった。彼女より先に、あそこに立てばいい。
怖かった。死ぬのが怖いのか、彼女が死ぬのが怖いのか、それを今、平気な顔で思いついてしまった自分が怖いのか、分からなかった。分かったのは一つだけだった。朝まであの部屋にいたら、俺はこれを言う。言ったら、彼女は止める。
誰かに会いたかった。
彼女じゃない誰かに。二月九日のことを、何も知らない誰かに。
スマホを出した。トーク一覧をさかのぼっていって、猫が手を振っているスタンプのところで指が止まった。
〈起きてる?〉
送ってから、何をしてるんだろう、と思った。思っただけだった。
既読はすぐについた。
〈起きてるよ〉
〈どうしたの〉
〈今から、行ってもいい?〉
次の返事はなかなか来なかった。電車が来て、乗って、二駅すぎた。
〈いいよ〉
車内には忘年会帰りらしい人が何人か、座席で眠っていた。ドアの近くで大学生らしい集団が、大声で誰かの名前を呼んで笑っていた。去年までの俺は、あっち側にいた。
四谷三丁目の駅を出たのは十一時すぎだった。古いマンションの五階で、ドアを開けたアヤカは俺の顔を見て、それから右手の絆創膏を見た。
「ひどい顔」
何も言えなかった。
アヤカはドアノブに手をかけたまま、脇によけなかった。肩ごしに部屋の奥が見えた。こたつが出ていた。こたつの上にりんごが三つ、ころがっていた。
「それ」とアヤカは言った。「誰に貼ってもらったの」
答えられなかった。
アヤカはしばらく黙っていた。それから、ちょっとだけ笑った。
「私さ、二番目とか向いてないって、言ったよね」
「うん」
「二番目ですら、なかったんだね」
責める声じゃなかった。
「ごめん」
「謝んないで」とアヤカは言った。「謝られたら、ほんとに何でもなかったことになるじゃん」
それから、絆創膏のほうをもう一回だけ見た。
「帰りな。それ、貼ってくれた人のとこ」
ドアが静かに閉まった。
チェーンの音がした。
*
最終にはまだ間に合った。乗らなかった。駅前の朝までやっているファミレスに入った。ドリンクバーだけ頼んで窓ぎわの席に座った。
栞ちゃんの部屋のドアは、まだチェーンがかかっていないかもしれなかった。それでも、立てなかった。
一時すぎに一回、スマホが震えた。見なかった。
隣のボックス席では終電を逃したらしい学生が三人、テーブルに突っぷして眠っていた。店員が二時ごろと四時ごろに水を注ぎに来た。そのたびに、すみません、と言った。
次に震えたのは朝の七時前だった。窓の外が白くなりはじめていた。テーブルの上でコーヒーがとっくに冷めていた。
画面に、海の写真のアイコンがあった。
〈手、大丈夫?〉
開いてしまった。既読が、ついた。
返事を打とうとした。大丈夫、と打って、消した。ごめん、と打って、消した。何を打っても本当のことは書けなかった。
右手の甲の絆創膏は、ゆうべ彼女が貼ってくれたままだった。角は一つもめくれていなかった。
画面の向こうで、彼女は既読の文字を見ているはずだった。
四月から八か月、俺がずっとされてきたことを、俺は、彼女にした。




