第15章 ココア、二本
コーヒーはほとんど飲めなかった。
スマホには栞ちゃんの〈手、大丈夫?〉の下に、母からのLINEが二つたまっていた。ゆうべの十一時に〈帰り何時?〉。一時すぎに〈鍵、あけとくね〉。ファミレスを出たのは九時近くだった。
下りの電車は年末の朝で空いていた。向かいの席では大きな紙袋を足もとに置いた家族連れが、新幹線で食べる弁当の話をしていた。右手を膝の上にのせたまま、窓の外の晴れた町をずっと見ていた。
*
坂のてっぺんの駅に着いたのは十時すぎだった。改札を出たところで、足が止まった。
券売機の横に、栞ちゃんが立っていた。
足もとのごみ箱の上に自販機のココアの缶が二本、並んでいた。いつからそこにいたのか、聞けなかった。
彼女は俺の顔を見た。それから、俺の服を見た。きのうと同じコート。同じパーカー。
「……どこ、行ってたの」
声がかすれていた。手袋をしていない指先が赤くなっていた。
「朝、律くんちに行ったの。手、どうなったかなって。そしたら、お母さんが、ゆうべ帰ってきてないって」彼女は俺の右手を見た。絆創膏はゆうべ彼女が貼ったままだった。「既読、ついたのに、返ってこないし」
母の顔が浮かんだ。玄関先で何も知らない顔で、栞ちゃんに「ゆうべ帰ってないのよ」と言っている母の顔が。
「どこ、行ってたの」
嘘をつこうとは思わなかった。つける嘘が一つもなかった。
「……アヤカのとこ」
彼女の顔から、すっと色が引いていった。
「……泊まったの」
「入れてもらえなかった」
しばらくどっちも何も言わなかった。
「朝まで、駅前のファミレスにいた」
「入れてもらえてたら」と彼女は言った。「泊まってたんでしょ」
「……うん」
彼女は何も言わずに坂を下りはじめた。俺は半歩うしろをついていった。俺が半歩うしろを歩くのは、初めてだった。
分かれ道の少し手前、踏切が見えるところで、彼女は止まった。
振り返った顔は、もう濡れていた。
「なんで」
小さい声だった。それがだんだん大きくなった。
「なんで、アヤカちゃんなの。なんで、ゆうべなの。泊まっていけばって、言ったじゃん。一人で歩いてほしくないって、言ったじゃん」彼女の声が、裏返った。「私の部屋はだめで、アヤカちゃんの部屋は、いいの? 律くんが、一人の部屋に帰りたくないの、知ってたよ。自分で言ってたじゃん。知ってたから、泊まってって言ったのに」
彼女は息を吸った。吸いきれなかった。
「帰ってないって聞いて」と彼女は言った。「二月じゃなくても、いなくなっちゃうのかと思った」
「……怖くて」
言いかけて、やめた。
「いや。言い訳だ、それ」
「言い訳でいいよ!」
彼女は叫んだ。通りの向こうで犬の散歩をしていた人が、こっちを見た。
「言い訳でいいから、言ってよ。なんで黙ってんの。なんで、いつも、肝心なとこで——」
そこで、言葉が切れた。
彼女はこぶしで俺の胸を叩いた。一回。二回。三回目は、もう力が抜けていた。
「……最低」
痛かった。
声を上げて泣いている彼女の前で、俺は手を伸ばせなかった。伸ばしていい手じゃなかった。
坂の下で警報機が鳴って、止んだ。
「……帰って」と彼女は言った。「今日は、顔、見たくない」
彼女は線路から離れていく道を歩いていった。一度も、振り返らなかった。
昼間の踏切は何でもない踏切だった。警報機が鳴りやむのを待って渡った。ゆうべ渡れなかったのが嘘みたいだった。
家に帰ると母は台所にいた。何も聞かなかった。俺の顔を見て「ご飯、あるよ」とだけ言った。
母はゴム手袋をして、外した換気扇の羽根を流しでこすっていた。うちは毎年、二十八日が換気扇の日だった。テーブルの上にラップをかけた皿が一つあった。ゆうべの夕飯の、俺の分のハンバーグだった。電子レンジで温めて、母の背中を見ながら一人で食べた。流しの水の音がずっとしていた。
部屋に上がって机の上の写真を見た。江ノ島の、自分の分の一枚。はねた髪の、紺色の背中。
すぐに裏返した。
夜、風呂から上がると居間に父がいた。テレビはついていなかった。湯のみを持ったまま、俺が通りすぎるのを待っていたみたいだった。
「母さんが、心配してた」
「うん。ごめん」
「朝、女の子が来てたって」
「……うん」
「母さんが、玄関で、ゆうべ帰ってないって言っちゃったって。悪いことしたって、気にしてた」
父はしばらく黙っていた。十二月の、あの夜と同じ顔だった。何か言いかけて、やめる顔。
でも、今日はやめなかった。
「律」
「なに」
「謝るときは、言い訳するなよ」
それだけ言って、父は湯のみを持って台所へ行った。やかんに水を入れる音がした。父が何を知っているのかは分からなかった。たぶん、何も知らなかった。
居間に立ったまま、水の音を聞いていた。怖かった、は、理由じゃなかった。
*
次の日の昼、千夏から電話が来た。
「今から、出てこれる」
聞いているのに疑問の形をしていなかった。
千夏のバイト先の居酒屋の、裏口の非常階段の踊り場で、千夏は待っていた。エプロンをつけて、腕を組んで。
俺の顔を見るなり、千夏は言った。
「中途半端なことしたら、怒るからねって、言ったよね」
「うん」
「二回、言ったよね。夏と、こないだ」
「うん」
「〈しない〉って、律、返したよね」
「うん」
「なんで」千夏は言った。「なんで、アヤカちゃんとこ行ったの」
口を開きかけて、閉じた。
「言い訳になるから、言わない」
千夏の目が、すっと細くなった。
「そういうとこだよ」
千夏の両手が俺の肩を突き飛ばした。背中が非常階段の手すりにぶつかって、鉄の音がした。
「ばかじゃないの」
千夏の声が震えていた。
「水無瀬さんが、どんな顔して私んとこ来たか、分かってんの」
分からなかった。分かっていいとも思えなかった。
「ゆうべ、うちに来たの。泣きながら、律のこと、ひどいこといっぱい言ってて」千夏はエプロンの裾を握りしめた。「やっと落ち着いたと思ったら、最初に、『千夏ちゃんのサークルの子なのに、ごめんね』って」
何も言えなかった。
「私がアヤカちゃんにLINEしたら、『ごめんね』って、一言だけ」千夏は短く笑った。笑ってなかった。「謝ってんの。二人とも。なんで、みんな律の代わりに謝ってんの」
換気扇から出汁のにおいが流れてきた。下の通りをトラックが一台通っていった。
二人とも何も言わなかった。
「持ってくるか、迷ったんだけど」
千夏は足もとに置いてあった紙袋を拾い上げた。百円ショップの白い紙袋だった。
「これ、水無瀬さんから預かった」
口のところから中がちらっと見えた。小さな菓子の空き箱に、使い捨てカメラがいくつか並んでいた。
「作品展の分だって。それまで、預かっててって」千夏は紙袋の口を折りたたんだ。「律には、先に見られたくないって。当たり前でしょ」
手を、伸ばしかけた。伸ばしかけて、下ろした。
「見せないからね」
千夏は紙袋を胸に抱えて、階段を一段上がった。それから振り返った。
「でもさ。変なんだよ、水無瀬さん」
「変?」
「あんなに泣いてたのに、帰りぎわに、『律くん、ちゃんとご飯食べてるかな』って言ったの」千夏は眉を寄せた。「ばかじゃないの、って言っちゃった。ほんとに、ばかだよ。二人とも」
店の中から千夏を呼ぶ声がした。千夏は「今行きまーす」と返して、それからもう一度こっちを見た。
「三十一日、約束してたんでしょ」
「うん」
「行くかどうかは、律が決めな」千夏は言った。「でも、行かなかったら、私、一生、律と口きかない」
裏口のドアが閉まった。踊り場に出汁のにおいだけが残った。
非常階段を下りて、どこにも寄らずに駅まで歩いた。
夕方、航から電話が来た。うしろで掃除機の音がしていた。
「千夏から聞いた」
「うん」
「俺は怒んないよ。千夏が全部怒ったっぽいから」航はちょっと笑った。それから、笑うのをやめた。「お前が誰かとちゃんと一緒に帰ってんの、俺、うれしかったんだよ。十一月に言ったろ」
電話の向こうで美咲ちゃんが航を呼ぶ声がした。窓、まだ半分残ってるよ、と言っていた。航は「今行く」と返して、最後に一言だけ付け足した。
「黙るなよ。俺も、やめたから」
*
その夜、栞ちゃんに送る文を何回も書いた。
〈ごめん。怖かった〉
消した。
〈手、大丈夫。返さなくて、ごめん〉
消した。
〈アヤカとは、何もなかった〉
消した。何もなかったことには、できなかった。
〈もう、どこにも行かない〉
消した。二月九日のことを考えたら、書けなかった。
ごめん、から始めるとその先が全部言い訳になった。言い訳をやめると、ごめん、しか残らなかった。ごめん、だけ送るのはずるい気がした。
日付が変わるころ、一行だけ送った。
〈三十一日の夜、歩道橋にいる〉
既読は、すぐについた。
返事は、来なかった。
右手の絆創膏は、まだ替えていなかった。角が少しだけ、めくれはじめていた。




