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ハッピーアイスクリーム  作者: 成瀬ルイ
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第16章 のびたおそば

 マフラーは二十六日のバイトの帰りに買ってあった。新宿の駅ビルの閉店まぎわの売り場で、紺色のを一本。コートも手帳も、なくなった傘も紺色の人に、また紺色かよと自分でも思った。それでも、ほかの色は似合わない気がした。

 包んでもらった袋はそのまま机の上に置いてあった。二十七日も、二十八日も、二十九日も、三十日も。

 三十日は朝から父と家の窓をふいた。父が脚立に上って、俺は下でバケツを押さえていた。父は一度だけ俺の右手の絆創膏を見て、何も言わずに乾いた雑巾を寄こした。濡らすな、ということらしかった。

 三十一日の夜、九時すぎにその袋をコートのポケットにねじこんで家を出た。

「どこ行くの、こんな日に」と台所から母が言った。

「ちょっと」

「そば、ゆでとくよ」

「先に食べてて」


   *


 歩道橋の上は思っていたより寒かった。手すりは触ると指が貼りつきそうなくらい冷たかった。下では踏切の警報機が、ときどき思い出したみたいに鳴った。大晦日でもこの線の電車はいつもどおりだった。上りも下りも十分か十五分に一本。終電は一時の少し前。それまでは待つつもりだった。

 坂の下の寺のほうへ、ときどき人が歩いていった。家族連れ、年寄りの夫婦、缶ビールを持った若いやつら。みんな白い息を吐きながら、楽しそうにしゃべっていた。

 九時半。十時。十時半。

 スマホを見るたびに画面の時計がひとつずつ進んだ。トーク画面は〈三十一日の夜、歩道橋にいる〉の下で止まったままだった。既読の文字だけが、ずっとそこにあった。

 四月から何十回も見てきた画面だった。今は待っていられた。待つしか、なかった。

 来なかったら、と考えるのはやめた。考えないで待った。

 十時半すぎに一回だけ階段を下りて、自販機で缶のココアを二本買った。一本はその場で飲んだ。もう一本はコートのポケットに入れて、また上がった。手すりにもたれていると、ポケットの中の缶が少しずつ冷めていくのが分かった。足の指はとっくに感覚がなかった。

 十一時を過ぎたころ、階段のほうで足音がした。

 紺色のコートが、上がってきた。

 栞ちゃんは階段を上りきったところで止まった。俺から三歩ぶんくらい離れていた。人ひとり分より、ずっと遠かった。

 どっちも動かなかった。下を上りの電車が通りすぎて、音が遠くなっても、まだ何も言えなかった。彼女はマフラーをしていなくて、コートの襟を指でつまんで首もとを押さえていた。

 何か言わなきゃ、と思った。考えてきた言葉は一つも出てこなかった。

「……ごめん」

 言わなきゃいけないことだけ言った。

「二十七日の夜、栞ちゃんの部屋を出て、アヤカのとこに行った。入れてもらえなかったから何もなかった、ってだけで、行った。〈手、大丈夫?〉も、読んだのに返さなかった。手当てしてもらったばっかりの手で、逃げた。ごめん。もう、しない」

 理由は言わなかった。

 彼女は何も言わなかった。手すりのほうを向いて、踏切を見下ろしていた。

 寺へ向かう家族連れの笑い声が下の道を通りすぎて、また静かになった。

「理由、言わないんだ」と彼女が言った。

「言ったら、言い訳になるから」

「知ってる」

 彼女はまだこっちを見なかった。

「怖かったんでしょ」

 息が、止まった。

 うなずくことしか、できなかった。

「……私だって、怖いよ」と彼女は言った。「ずっと、怖いよ」

 下で警報機が鳴りはじめた。赤いランプが彼女の頬を交互に照らした。電車が通りすぎて、また静かになるまで二人とも黙っていた。

「許さないから」

 彼女はやっとこっちを向いた。目が赤かった。泣いてはいなかった。

「今年いっぱいは、許さないから」

「あと、五十分」

「数えないで」

 そう言って彼女はちょっとだけ笑った。笑ったのが自分でも悔しかったみたいで、すぐに口をとがらせた。

「そば」と彼女は言った。「二人分、ゆでちゃったから」

 ポケットのココアを出した。とっくにぬるくなっていた。彼女は少しだけそれを見て、黙って受け取った。両手で包んだまま、開けなかった。

 歩道橋を下りて分かれ道のほうへ歩いた。今度は彼女が半歩前を歩いた。ときどき振り返って、俺がちゃんとついてきているか確かめていた。


   *


 栞ちゃんの部屋はあったかかった。窓際の海の絵はがきの隣に、写真が一枚増えていた。はねた髪の、紺色の背中。

「貼ってる」

「見ないで」

 彼女は俺の背中を押して、台所のほうへ向かせた。

 小さな台所の鍋の中で、そばはちょっとのびていた。ゆでてからずいぶん待ったらしかった。

「のびてる」

「文句言うなら、食べなくていい」

「食べる」

 こたつはなかった。床に座布団を二枚並べて、机の上にどんぶりを二つ置いた。ねぎとかまぼこと、えび天が一本ずつ。えび天はスーパーの半額のシールが貼ってある袋から出てきた。

「半額」

「大晦日の夜の、えび天はね、全部半額なの」

「知らなかった」

「一人暮らし四年目をなめないで」

 スマホで流していた歌番組が終わりに近づいていた。知らない演歌の人が大きなこぶしを回していた。栞ちゃんはそばをすすりながら、その人の口の動きをまねした。全然似ていなかった。

 食べ終わると、彼女は黙って俺の右手を取った。

「替えてないでしょ」

 絆創膏の角がすっかりめくれていた。

「替えたら、なくなる気がして」

「何が」

 答えられなかった。彼女も、もう聞かなかった。台所で水を細く出して、古い絆創膏をそっとはがして傷を洗った。かさぶたがもうできかけていた。新しい絆創膏を、角がめくれないようにゆっくり貼ってくれた。

 今日は、指は震えていなかった。

 十一時四十分、スマホが鳴った。千夏だった。スピーカーにすると向こうはずいぶんにぎやかだった。親戚の家にいるらしい。

「律、行ったんだ」千夏の声だった。「水無瀬さんもいる?」

「いるよ」と栞ちゃんが言った。

「許したの?」

「今年いっぱいは、許さない」

「あと二十分じゃん」

 千夏が向こうで吹き出した。誰かが「千夏、そば伸びるよ」と言う声がした。

「ねえ、二人とも、来年どうすんの」と千夏が言った。「律は、就活。水無瀬さんは、卒業旅行とか行くの?」

 俺と栞ちゃんは同時に黙った。

 目が合った。どっちも、先に何か言うのを待っていた。

「そばが、のびてる」と俺は言った。

「えび天、半額だった」と彼女は言った。

「二人して、何なの」

 千夏があきれた声を出して、それから少し黙った。

「まあ、いいや。来たんなら、いい」千夏は言った。「水無瀬さん。律のこと、よろしくね」

「……うん」と栞ちゃんは言った。

「あけおめは、ちゃんと年が明けてから言うから。じゃあね」

 電話が切れた。部屋が急に静かになった。

 窓の外のずっと遠くで鐘が鳴った。坂の下のほうの古い寺の鐘だった。間をあけて、もう一回。また、もう一回。

「除夜の鐘」と彼女が言った。

 しばらく二人で数えた。数えないで、と言った人が指を折って数えていた。

 十二時になった。

 スマホの画面の数字がゼロに変わった。歌番組の人たちがいっせいに何か叫んでいた。

「あけましておめでとう」と俺は言った。

「おめでとう」

 彼女はこっちを見た。

「許した」

 それだけ言って、彼女は俺の肩に額をくっつけた。

 遠くで鐘がまだ鳴っていた。


   *


 ポケットからくしゃくしゃになった袋を出した。

「何それ」

「プレゼント。年越しに、って言ってたから」

 袋を開けた彼女は黙っていた。

「紺色」

「紺色ばっかり持ってる人に、紺色」

「知ってて、紺色にしたの?」

「ほかの色、似合わない気がして」

 彼女は笑って首に巻いた。うまく巻けなくて二回やり直した。三回目で口もとまで埋まった。

「……あったかい」

 マフラーの中で声がくぐもっていた。

 それから彼女は机の引き出しを開けて、小さな包みを出した。茶色い紙できちんと包んである。開けると、フィルムが一本入っていた。俺がいつも使っているのと同じやつだった。一本二千円もするのに。

「撮りたい人ができたら」と彼女は言った。「それで、撮って」

「できたら、って」

「できたら、でいいの」

 マフラーに顎をうずめて、俺の手の中のフィルムを見ていた。

 フィルムをコートの内ポケットにしまった。いつか撮る一本はここに入れておこうと思った。

 その夜は泊まった。狭いベッドに二人で入ると、彼女はマフラーを巻いたまま寝ようとした。取ってあげたら文句を言われた。枕もとにたたんで置いたら、寝ぼけた手がそれを探して握ったまま眠った。


   *


 朝は俺のほうが先に目がさめた。カーテンのすきまから白い光が入っていた。隣で彼女がまだ寝ていた。口が少し開いていた。江ノ島の電車のときと同じ寝顔だった。

 カメラはかばんの中にあった。出さなかった。

 でも、撮りたいと思った。

 撮っちゃいけない、とは思わなかった。

 スマホが震えた。母からだった。

〈あけましておめでとう。そば、残ってるよ〉

〈あけおめ。昼には帰る〉と返すとすぐに既読がついて、鏡餅のスタンプが一つ来た。

 初詣には彼女が起きてから行った。坂の途中の小さな神社だった。鳥居は俺の背丈くらいしかなくて、近所の人が何人か白い息を吐きながら並んでいた。

 二人で手を合わせた。手を合わせている時間は、たぶん二人とも同じくらい長かった。何をお願いしたのかは聞かなかった。聞かれもしなかった。

 社務所の前におみくじの箱があった。一回百円。

 俺も彼女も、その前でちょっとだけ足を止めた。それから、どっちからともなくそのまま通りすぎた。

 鳥居をくぐって坂に出たとき、冷たい風が吹いた。

「寒っ」

「寒っ」

 声がぴったり重なった。彼女が俺の袖をつかんだ。

「ハッピーアイスクリーム!」

 先に言われた。

「ずる」

「私の勝ち」マフラーの上で目が笑っていた。「おごってね」

「元日の朝に、アイス?」

「元日の朝に、アイス」

 坂の上のコンビニでカップのアイスを二つ買った。彼女はまた、いちばん安いバニラを取った。店の前で二人で食べた。マフラーを巻いた人が白い息を吐きながら、アイスを食べていた。

 頭がきーんとする、と彼女は言った。俺もした。それで二人でまた笑った。

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