第17章 一枚だけ
元日の昼、雑煮を食べていると母が箸を止めた。
「この前、朝に来た子。栞ちゃん、だっけ」
「うん」
「ちゃんと謝ったの」
何を、とは聞かれなかった。母は何も知らないはずだった。
「謝った」
「そう」母はまた箸を動かした。「今度、ちゃんと連れてきなさいよ。あのとき、玄関で、すごく寒そうな顔してたんだから」
正月のあいだ、仏間の前を通るたびに祖父の遺影が目の端に入った。カメラを首から下げて、まぶしそうに笑っている六十代の祖父。
夏の送り盆の夜は三秒しか見られなかった。その正月は、たぶん五秒くらい見ていた。数えてはいなかった。
*
三が日が明けると栞ちゃんは広島に帰った。四日間だけ、と言っていた。新幹線のホームまで送っていったら「大げさ」と笑われた。大げさだった。
「お土産、何がいい」と彼女が聞いた。
「牡蠣」
「生は無理」
「じゃあ、なんでも」
「なんでもが、いちばん困るの」
「また明日」
「四日間だけって、言ったでしょ」
ドアが閉まる前に、彼女は笑って、小さく手を振った。俺も振った。新幹線は思っていたよりずっと静かに動き出した。
帰ってから写真が届くようになった。波のない海。灰色の空の下に牡蠣の筏がずらっと並んでいる。港の自販機。実家の台所の窓から見える隣の家の屋根。
〈顔は?〉と送った。
〈ない〉
すぐに返事が来て、そのあとにふてくされた猫のスタンプが一つ来た。
二日目の夜、もう一枚届いた。今度はこたつの上の鍋だった。湯気の向こうに知らない手が二本、箸をのばしていた。たぶんお母さんと翔太くんの手だ。
一秒後、その写真は〈送信を取り消しました〉に変わった。
〈まちがえた〉
〈見た〉
〈見てない〉
〈見た。鍋〉
返事がなかなか来なくて、それから一行だけ来た。
〈翔太が、律くんて誰って、うるさい〉
布団の中で声を出して笑った。隣の部屋の母に「うるさい」と壁を叩かれた。
三日目の朝、彼女から〈ミケは?〉と来た。
日曜でもないのに踏切まで下りていった。ミケは土手の枯れ草の上で、日なたに丸くなっていた。近づくと片目だけ開けて、また閉じた。スマホで一枚撮って〈いた〉と送ると、すぐに〈よかった〉と返ってきた。
少しして、もう一つ来た。
〈なでといて〉
手をのばしたら、ミケは起き上がって土手の上のほうへ行ってしまった。
帰りに用もないのに坂を上って、分かれ道まで歩いた。二階の角部屋はカーテンが閉まっていた。しばらく見上げてから家に帰った。
*
栞ちゃんはもみじ饅頭の箱を抱えて帰ってきた。
「なんでもって言ったから、いちばん普通の」
「普通が、いちばんうまい」
坂の駅の改札の前で、彼女は箱を俺に押しつけた。それからちょっとだけ目をそらした。
「お母さんが、律くんによろしくって」
「言ったの? 俺のこと」
「翔太が、全部しゃべった」
広島の波のない海のそばの台所で、会ったこともない人が俺の名前を口にしている。それがなんだか不思議だった。
*
栞ちゃんが卒論を出したのは一月の半ばの木曜日だった。
前の晩の十時すぎに、彼女から〈プリンター、紙詰まった〉と来た。
行ってみると、栞ちゃんは机の横にしゃがんで、プリンターのふたを開けたり閉めたりしていた。横からトレイを引き抜くと、くしゃくしゃの紙が一枚出てきた。プリンターはまた動きだした。
「どこで覚えたの」
「四月に、ゼミで見た」
刷り上がった紙が一枚ずつ出てくるのを、床に座って二人で見ていた。百枚を少し超えていた。彼女はページの番号を指でたどって、抜けていないか一枚ずつ確かめた。俺は途中で数が分からなくなった。日付が変わる少し前に最後の一枚が出てきて、彼女は束を両手で持って、とんとんと机でそろえた。
次の日の昼、学部の事務室の前で待っていると、先に長谷川さんが出てきた。俺の顔を見るなり「出待ち?」と笑って、それから栞ちゃんと手袋のままハイタッチをした。
彼女は分厚い封筒を胸に抱えて入っていって、手ぶらで出てきた。
「出した」
「おつかれ」
「肩、軽い」
彼女は空っぽの両手を見下ろして、笑った。
その夜は四ツ谷の安い居酒屋で、千夏と航と美咲ちゃんと五人で乾杯した。
「水無瀬さん、卒論おつかれさまでした!」
千夏の声が店じゅうに響いた。隣の席の会社員がつられて拍手をした。
千夏は例のESが通って、二月に面接があるらしかった。
「面接ではね、御社でいいんだって」千夏は胸を張った。「書くときは貴社、しゃべるときは御社。水無瀬さんに教わった」
「七回言っていいの?」と航が言った。
「十回言う」
千夏はそう言って本当に「御社、御社」と練習しはじめた。
「水無瀬さん、卒論って何書いたんですか」と航が聞いた。
「写真絵本。同じ写真絵本の、昔の版と今の版を比べたの」
「読みたい」と千夏が言った。
「だめ。先生だけでいいの」
「水無瀬さん」と美咲ちゃんが身を乗り出した。「律くんって、どんな彼氏なんですか」
栞ちゃんはちょっと考えた。
「油少なめの人」
航がビールを吹いた。
航と美咲ちゃんは、卒業したら一緒に住むと決めたらしい。航は美咲ちゃんの前では相変わらず口数が少なかった。それでも美咲ちゃんが何か言うたびに、ちゃんとうなずいていた。
栞ちゃんはほとんど飲まなかった。ウーロン茶のグラスを両手で持って、みんなの話を聞いてずっと笑っていた。ときどき声を立てて笑った。
千夏がトイレに立ったとき、テーブルの下で栞ちゃんの靴の先が俺の靴に一回だけ当たった。わざとだったのかは分からない。顔を見たら、ウーロン茶を飲んでいた。
*
次の日曜も踏切を撮った。一月の朝の光は低くて、線路の上に長い影が伸びていた。遮断機の手前にしゃがんで祖父の構図に合わせる。急行が通りすぎるのを待ってシャッターを切る。
フィルムのカウンターは三十六を指していた。この一本は、あと一枚で終わる。
カメラを持って歩道橋に上がると、栞ちゃんが手すりにもたれていた。年越しの紺色のマフラーに口もとまで埋まっていた。
隣に並んで線路の向こうを見た。しばらくして、彼女が言った。
「……一枚だけ、いいよ」
何のことか、分からなかった。
「顔」と彼女は言った。「一枚だけ」
下で警報機が鳴りはじめた。赤いランプが交互に点いて、遮断機が下りてくる。
電車が通りすぎるまで、俺は何も言えなかった。カメラを持つ手が、止まっていた。
「……なんで、急に」
「卒論、出したから」
理由になってなかった。でも聞き返さなかった。聞き返したら取り消される気がした。
彼女は手すりから離れて、俺の正面に立った。朝の光が横から当たっていた。マフラーを少しだけ下げて、口もとを出した。
ファインダーをのぞいた。
四角い枠の中に、彼女の顔があった。
揺れていた。揺れているのは、俺の手だった。四月にスマホを向けられた彼女の手が、蛍光灯の下で震えていたのを今さら思い出した。
「笑って、とか、言わないでね」と彼女が言った。
「言わない」
「言わないの?」
「言ってほしいの?」
「言わないで」
ピントを合わせた。目に、合わせた。
彼女は笑おうとしていた。うまくいっていなかった。口の端が少しだけ上がって、また下がった。
そのとき、川のほうから風が吹いた。
マフラーの上で彼女の前髪が、ぴょこんとはねた。
「はねた」
思わず言った。
彼女が吹き出した。
シャッターを切った。いつもより音が大きく聞こえた。
巻き上げのレバーに親指をかけた。三十六枚目だった。レバーは途中で止まって、それ以上は動かなかった。
「一枚だけ」と彼女が言った。
「もう一枚」
「一枚だけって、言った」
「ケチ」
「ケチでいいの」
どっちにしても、フィルムはもう残っていなかった。
彼女はマフラーを口もとまで引き上げた。それから俺に背中を向けて、手すりのほうへ戻っていった。
背中にはカメラを向けなかった。
*
店の暗室でその一本を現像した。踏切のコマを一枚ずつ焼いていった。四月から焼きためてきた分と合わせると三十五枚になった。春の桜、梅雨の雨、夏草、枯れた土手、霜の朝。同じ場所で同じ構図で、季節だけが変わっていく。
三十六枚目を現像液に沈めた。
赤い安全灯の下で、白い印画紙にゆっくり影が浮かんでくる。最初に、マフラーの紺。それから、髪の黒。最後に、顔。
笑っていた。
前髪をはねさせて、目を細くして、口を少し開けて。今まで見たどの顔よりも普通に笑っていた。
バットを揺らす手を、止められなかった。止めたらムラになる。
四月に暗室で彼女が言っていたことだった。教えてもらったことがある、って。
暗室を出ると、店長が乾かしている写真をのぞきこんでいた。この前の背中の写真のときと同じ場所で。
「前から、撮れたんだ」
「一枚だけです」
「そっか」店長は写真を見たまま言った。「いい顔だね。撮ったほうも」
何のことか聞かなかった。
家に帰って、焼いた三十五枚の踏切を部屋の床に並べてみた。四月から順番に一列に。作品展の壁の割り当ては四十枚分だった。
三十五枚目のあとに空いたところが残った。
そこは空けたままにしておいた。
乾かした写真を次の木曜日に見せた。分かれ道の手前の、踏切が見えるところで。
彼女は黙って見ていた。
「……笑ってる」
「笑ってた」
「律くんが撮ると、こうなるんだ」
それだけ言って写真を俺の手に返した。手袋の指先が写真の端をなでた。
「どこに置くの」
「引き出し」
「飾らないんだ」
「飾ったら、毎日見ちゃうから」
彼女は、変なの、と言って笑った。
*
その写真は机の引き出しにしまった。引き出しの奥には四月の朝のネガが入っている。踏切で撮ってしまった十三枚目。焼かないと約束した、ブレた顔。
その隣に焼いた一枚を置いた。ピントの合っていない顔と合っている顔が、同じ引き出しに並んだ。
引き出しを閉めて壁のカレンダーを見た。
もう、一月三十一日だった。
寝る前に一月をめくろうとして、手を止めた。
二月の欄を見るのは、明日の朝でいいと思った。




