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ハッピーアイスクリーム  作者: 成瀬ルイ
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18/22

第18章 春を待つ猫

 二月一日の朝、カレンダーをめくった。二月の欄は何も書いていなかった。十九日のところに小さく「搬入」と書いた。九日のところは、白いままにした。

 二日の昼、千夏からLINEが来た。

〈面接、終わった〉

〈どうだった〉

〈御社、十二回言った〉

 少しして、もう一行。

〈面接官、三回くらい笑ってた。いい意味か悪い意味かは知らない〉

 スマホを持ったまま一人で吹き出した。

 三日は節分で、母がパートの帰りにスーパーの豆を買ってきた。父は毎年、玄関の戸を細く開けて、外に向かって鬼は外と言う。近所に聞こえないくらいの小さい声で。年の数だけ食べなさいと母が言うので、数えて食べた。父は途中で数えるのをやめて、残りをまとめて口に入れていた。


   *


 木曜のゼミは作品展の準備で、教室じゅうが散らかっていた。四年の長谷川さんは卒論を出したあとの燃えつき方がすごくて、机に突っ伏したまま「パネルって何枚いるの」と三回聞いた。佐伯は展示の順番を決めるのに、写真を床に並べて一時間うなっていた。

 北条先生は俺の踏切の写真を一枚ずつ見ていった。四月の桜から一月の霜の朝まで、三十七枚。

「あと、何枚撮る」

「二枚です。日曜が、あと二回あるので」

「最後の一枚は、決めてる?」

 すぐには答えられなかった。

「まだです」

「そう」と先生は言った。「決まってないなら、決まってないまま、撮りに行きなさい」

 先生はそれだけ言って、次の机へ移っていった。

 栞ちゃんは教室のすみで、長谷川さんのパネルの寸法を一緒に測っていた。メジャーを持って、長谷川さんの「だめ、もう数字が頭に入らない」に笑いながら数字を読み上げていた。

 ゼミのあと写真サークルの部室に寄ると、代表の宮坂さんがプリントの山の中から顔を上げた。

「律、作品展、間に合う?」

「たぶん」

「たぶんって」宮坂さんは笑って、それから窓の外の中庭のほうを見た。「水無瀬さんさ、最近、前みたいに笑うようになったね」

 四月の新歓のとき、中庭で宮坂さんは逆のことを言っていた。前はもっとよく笑う子だった、と。

「そうですか」

「そうだよ。一年のときの、英語のクラスの顔」宮坂さんはプリントを一枚めくった。「律、なんかした?」

「なんにも」

「ふうん」

 宮坂さんはプリントの山に目を戻した。


   *


 週間予報に雪のマークが出たのは、その木曜の夜だった。

 テレビの天気予報の右のほう。九日のところに、雪だるまの絵がひとつ。その下に小さく「雪か雨」と書いてあった。

 居間で母が「あら」と言った。

「九日、雪だって。東京で?」

「まだ分かんないって」と俺は言った。「こういうのは、外れることのほうが多い」

 本当に、そう思いたかった。

 その夜、栞ちゃんからLINEが来た。

〈あさって、うち来る?〉

〈行く〉

〈天気予報、一緒に見よ〉

 金曜になっても雪だるまは消えなかった。天気予報の人は「南の海上を進む低気圧の、コースしだいです」と、前の晩と同じことを言った。

 その金曜に千夏に用があって、新宿で会った。南口の窓の大きい喫茶店で、封筒を一通渡した。中には一行だけ書いた。

〈俺に何かあったら、栞ちゃんを頼む〉

 千夏は読んで、ばかじゃないのって言って、俺の腕をたたいた。泣きそうな顔をしていたから、俺は笑った。

 土曜のバイトで、店長はレジの横の小さなテレビを見ながら「九日、雪なら店閉めちゃおうかな。どうせ誰も来ないし」と言った。航からは〈九日、雪だってよ。美咲と鍋する〉とLINEが来た。ゼミのグループには佐伯から〈九日雪なら、実家の店番に呼ばれた。熱燗が売れるらしい〉と来て、長谷川さんが雪だるまのスタンプを三つ返していた。家では母が土曜に白菜を丸ごと一つ買ってきて、九日は鍋ね、と勝手に決めていた。


   *


 土曜の夜、バイトのあとで行った栞ちゃんの部屋はストーブの匂いがした。窓際の海の絵はがきと、江ノ島の背中の写真。その隣にいつのまにか、もう一枚増えていた。年越しの夜に二人で食べたそばの、のびた麺の写真だった。

「そば」

「千夏ちゃんに送ろうと思って撮ったの。送るの忘れて、印刷しちゃった」

「なんで、そばを印刷すんの」

「のびてたから」

 わけが分からなかった。笑った。

 ストーブの上でやかんが鳴っていた。栞ちゃんはココアを二つ作った。今度は二つともあったかかった。

 スマホで夜の天気予報を流した。地図の上に低気圧の白い渦が描いてあって、それが少しずつ東京のほうへ寄ってきていた。

「東京二十三区でも、九日の夜から、積雪のおそれがあります」

 天気予報の人が言った。

 部屋の中が、しんとした。ストーブの火の音だけが小さく続いていた。

 栞ちゃんは膝を抱えて画面を見ていた。顔色は、いつもと同じだった。

「やっぱり、来るんだ」と俺は言った。

「来るね」

 彼女は画面を消した。それからこっちを向いた。

「九日の夜は、家にいて」

「栞ちゃんも」

「私も、家にいる」

「何時ごろだった?」

「十一時ごろ」と彼女は言った。「十一時すぎの、下り」

「十一時」

 俺は繰り返した。

「その時間は、家から出ないで。踏切にも、坂にも、近づかないで」彼女は俺の目を見たまま言った。「二人とも、家にいる。それで、十日の朝、歩道橋で会お」

「……会お」

 彼女は右手の小指を出した。

「指切り」

「小学生か」

「小学生のときの決まりは、一生有効なんでしょ」

 言い返せなくて小指を出した。

 小指どうしがからまった。彼女の指は、思っていたより冷たかった。

「ゆびきりげんまん」彼女が小さな声で歌った。「うそついたら、はりせんぼん、のーます」

「針千本は、やだな」

「じゃあ、うそつかないで」

「……つかない」

「ゆびきった」

 小指が、離れた。

 彼女は離した手をしばらく見てから、膝の上でもう片方の手と重ねた。

 十一時。

 十時半に家を出ればいい、と思った。

 十二月の駅のホームで決めたことは、変わっていなかった。あの夜から四十日あまり、一回も揺れなかった。一回目にあそこで死んだのは俺で、今回もあそこで誰かが死ぬのなら、それは彼女じゃない。十一時より前に、あの踏切に立つ。彼女が来る前に。

 十一時のことは、それ以上聞かなかった。聞いたら、この人は気づく。

 指切りをしたばかりの小指が、まだ少し温かかった。うそつかないで、と言われて、つかない、と言った。この人は、俺が破ることを知らない。知らないまま、十日の朝の歩道橋で俺を待つ。

 四月の桜を、この人の隣で撮りたかった。作品展が終わったあとの、部屋の壁の四十枚目に。また明日、と言うのを、来年もその次も、やめたくなかった。

 それでも、と思った。

 ストーブの火の音がしていた。彼女は膝を抱えたまま、消えた画面を見ていた。その横顔を、ちゃんと見ておこうと思った。

「十日の朝ね」と彼女は言った。「寝坊しないでね」

「しない」

「するでしょ。律くん、日曜の朝しか起きられないもん」

「十日、日曜じゃないけど」

「だから、言ってるの」

 彼女はやっと笑った。いつもの、困ったような笑い方だった。

 十時前に部屋を出た。玄関で靴をはいていると、彼女が「マフラー、いる?」と聞いた。年越しの紺色のを持っていた。

「それ、俺があげたやつじゃん」

「あ、そっか」

 二人でちょっと笑った。

 玄関で、また明日、と言った。

「また明日」と彼女も言った。十二月から、ちゃんと返してくれるようになっていた。

 言ってから、針千本、と思った。

 分かれ道で振り返ると、二階の角部屋の窓にまだ明かりがついていた。カーテンのすきまから誰かがこっちを見ているような気がした。手を振ったら、カーテンが少しだけ揺れた。


   *


 家に帰って窓を少しだけ開けた。二月の夜の空気は冷たくて乾いていた。空にはまだ星が見えていた。こんな夜の三日あとに雪が降るなんて、信じられなかった。

 坂の下から警報機の音が上がってきた。

 十一時すぎの、下りだった。

 鳴りやむまで窓のそばにいた。

 布団に入ってからも、十一時ごろ、という彼女の声が耳の奥で何回もくり返し響いていた。


   *


 七日の日曜はよく晴れた。いつものように踏切を撮った。遮断機の手前にしゃがんで祖父の構図に合わせる。急行が通りすぎるのを待ってシャッターを切った。

 顔を上げると、歩道橋の階段の下に紺色のマフラーがしゃがんでいた。足もとに段ボールの箱と、キャットフードの小さな袋があった。少し離れた土手の草の上にミケが座っていた。

「何してんの」

「ミケ、つかまらないの」彼女は袋を小さく振った。ミケは耳だけこっちに向けた。「雪の日だけでも、うちに入れてあげたくて」

 ミケのおなかが前より丸かった。

「太った?」

「赤ちゃん」と彼女は言った。「春に、生まれるの」

 彼女が一歩近づくと、ミケは一歩下がった。もう一歩近づくと、草の中に消えた。

「一月から、ずっとこう」彼女は笑って立ち上がった。「用心深いの。お母さんになるから」

 段ボールを抱えて彼女は歩道橋を上っていった。上で一回だけ振り返って手を振った。

 振り返した。それだけで彼女は向こう側の階段を下りていった。

 空には雲ひとつなかった。あさって、ここが白くなるところをうまく思い浮かべられなかった。

 八日の夜、千夏からLINEが来た。

〈明日、家にいなよ〉

 既読だけつけて、返事は打たなかった。

 ニュースで、天気予報の人はもう「おそれ」とは言わなかった。

「あすの夕方から、東京でも雪になる見込みです。夜には、平地でも積雪となるでしょう。不要な外出は、お控えください」

 画面の下に白い文字が流れていた。

 母が台所から顔を出して「明日、早く帰ってきなさいよ」と言った。

「……うん」

 居間で新聞を読んでいた父がテレビのほうを見たまま言った。

「雪か」

「うん」

「じいさんは、雪が降ると、夜中でもカメラ持って出てったな」父は新聞をたたんだ。「母さんに、いつも怒られてた」

「知ってる」

 知っていた。中学のとき、雪の朝に一回だけ連れていってもらったことがある。真っ白な河原で、祖父は子どもみたいに何枚も何枚もシャッターを切っていた。

 父は新聞を置いて、風呂に入りに行った。

 部屋に戻って、壁にかけたコートの内ポケットを指で確かめた。年越しの夜にもらったフィルムが入ったままだった。

 カーテンを開けた。空はまだ晴れていた。坂の下の踏切の赤いランプが、小さく、規則正しく、点いたり消えたりしていた。

 スマホが震えた。

〈雪、来るね〉

〈来るね〉

〈約束、ちゃんと守ってね〉

〈守る〉

 既読がすぐについた。

 それから、もう一つ。

〈おやすみ。また明日〉

 また明日、と彼女は書いていた。

〈また明日〉と返した。

 明日は九日だった。

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