第18章 春を待つ猫
二月一日の朝、カレンダーをめくった。二月の欄は何も書いていなかった。十九日のところに小さく「搬入」と書いた。九日のところは、白いままにした。
二日の昼、千夏からLINEが来た。
〈面接、終わった〉
〈どうだった〉
〈御社、十二回言った〉
少しして、もう一行。
〈面接官、三回くらい笑ってた。いい意味か悪い意味かは知らない〉
スマホを持ったまま一人で吹き出した。
三日は節分で、母がパートの帰りにスーパーの豆を買ってきた。父は毎年、玄関の戸を細く開けて、外に向かって鬼は外と言う。近所に聞こえないくらいの小さい声で。年の数だけ食べなさいと母が言うので、数えて食べた。父は途中で数えるのをやめて、残りをまとめて口に入れていた。
*
木曜のゼミは作品展の準備で、教室じゅうが散らかっていた。四年の長谷川さんは卒論を出したあとの燃えつき方がすごくて、机に突っ伏したまま「パネルって何枚いるの」と三回聞いた。佐伯は展示の順番を決めるのに、写真を床に並べて一時間うなっていた。
北条先生は俺の踏切の写真を一枚ずつ見ていった。四月の桜から一月の霜の朝まで、三十七枚。
「あと、何枚撮る」
「二枚です。日曜が、あと二回あるので」
「最後の一枚は、決めてる?」
すぐには答えられなかった。
「まだです」
「そう」と先生は言った。「決まってないなら、決まってないまま、撮りに行きなさい」
先生はそれだけ言って、次の机へ移っていった。
栞ちゃんは教室のすみで、長谷川さんのパネルの寸法を一緒に測っていた。メジャーを持って、長谷川さんの「だめ、もう数字が頭に入らない」に笑いながら数字を読み上げていた。
ゼミのあと写真サークルの部室に寄ると、代表の宮坂さんがプリントの山の中から顔を上げた。
「律、作品展、間に合う?」
「たぶん」
「たぶんって」宮坂さんは笑って、それから窓の外の中庭のほうを見た。「水無瀬さんさ、最近、前みたいに笑うようになったね」
四月の新歓のとき、中庭で宮坂さんは逆のことを言っていた。前はもっとよく笑う子だった、と。
「そうですか」
「そうだよ。一年のときの、英語のクラスの顔」宮坂さんはプリントを一枚めくった。「律、なんかした?」
「なんにも」
「ふうん」
宮坂さんはプリントの山に目を戻した。
*
週間予報に雪のマークが出たのは、その木曜の夜だった。
テレビの天気予報の右のほう。九日のところに、雪だるまの絵がひとつ。その下に小さく「雪か雨」と書いてあった。
居間で母が「あら」と言った。
「九日、雪だって。東京で?」
「まだ分かんないって」と俺は言った。「こういうのは、外れることのほうが多い」
本当に、そう思いたかった。
その夜、栞ちゃんからLINEが来た。
〈あさって、うち来る?〉
〈行く〉
〈天気予報、一緒に見よ〉
金曜になっても雪だるまは消えなかった。天気予報の人は「南の海上を進む低気圧の、コースしだいです」と、前の晩と同じことを言った。
その金曜に千夏に用があって、新宿で会った。南口の窓の大きい喫茶店で、封筒を一通渡した。中には一行だけ書いた。
〈俺に何かあったら、栞ちゃんを頼む〉
千夏は読んで、ばかじゃないのって言って、俺の腕をたたいた。泣きそうな顔をしていたから、俺は笑った。
土曜のバイトで、店長はレジの横の小さなテレビを見ながら「九日、雪なら店閉めちゃおうかな。どうせ誰も来ないし」と言った。航からは〈九日、雪だってよ。美咲と鍋する〉とLINEが来た。ゼミのグループには佐伯から〈九日雪なら、実家の店番に呼ばれた。熱燗が売れるらしい〉と来て、長谷川さんが雪だるまのスタンプを三つ返していた。家では母が土曜に白菜を丸ごと一つ買ってきて、九日は鍋ね、と勝手に決めていた。
*
土曜の夜、バイトのあとで行った栞ちゃんの部屋はストーブの匂いがした。窓際の海の絵はがきと、江ノ島の背中の写真。その隣にいつのまにか、もう一枚増えていた。年越しの夜に二人で食べたそばの、のびた麺の写真だった。
「そば」
「千夏ちゃんに送ろうと思って撮ったの。送るの忘れて、印刷しちゃった」
「なんで、そばを印刷すんの」
「のびてたから」
わけが分からなかった。笑った。
ストーブの上でやかんが鳴っていた。栞ちゃんはココアを二つ作った。今度は二つともあったかかった。
スマホで夜の天気予報を流した。地図の上に低気圧の白い渦が描いてあって、それが少しずつ東京のほうへ寄ってきていた。
「東京二十三区でも、九日の夜から、積雪のおそれがあります」
天気予報の人が言った。
部屋の中が、しんとした。ストーブの火の音だけが小さく続いていた。
栞ちゃんは膝を抱えて画面を見ていた。顔色は、いつもと同じだった。
「やっぱり、来るんだ」と俺は言った。
「来るね」
彼女は画面を消した。それからこっちを向いた。
「九日の夜は、家にいて」
「栞ちゃんも」
「私も、家にいる」
「何時ごろだった?」
「十一時ごろ」と彼女は言った。「十一時すぎの、下り」
「十一時」
俺は繰り返した。
「その時間は、家から出ないで。踏切にも、坂にも、近づかないで」彼女は俺の目を見たまま言った。「二人とも、家にいる。それで、十日の朝、歩道橋で会お」
「……会お」
彼女は右手の小指を出した。
「指切り」
「小学生か」
「小学生のときの決まりは、一生有効なんでしょ」
言い返せなくて小指を出した。
小指どうしがからまった。彼女の指は、思っていたより冷たかった。
「ゆびきりげんまん」彼女が小さな声で歌った。「うそついたら、はりせんぼん、のーます」
「針千本は、やだな」
「じゃあ、うそつかないで」
「……つかない」
「ゆびきった」
小指が、離れた。
彼女は離した手をしばらく見てから、膝の上でもう片方の手と重ねた。
十一時。
十時半に家を出ればいい、と思った。
十二月の駅のホームで決めたことは、変わっていなかった。あの夜から四十日あまり、一回も揺れなかった。一回目にあそこで死んだのは俺で、今回もあそこで誰かが死ぬのなら、それは彼女じゃない。十一時より前に、あの踏切に立つ。彼女が来る前に。
十一時のことは、それ以上聞かなかった。聞いたら、この人は気づく。
指切りをしたばかりの小指が、まだ少し温かかった。うそつかないで、と言われて、つかない、と言った。この人は、俺が破ることを知らない。知らないまま、十日の朝の歩道橋で俺を待つ。
四月の桜を、この人の隣で撮りたかった。作品展が終わったあとの、部屋の壁の四十枚目に。また明日、と言うのを、来年もその次も、やめたくなかった。
それでも、と思った。
ストーブの火の音がしていた。彼女は膝を抱えたまま、消えた画面を見ていた。その横顔を、ちゃんと見ておこうと思った。
「十日の朝ね」と彼女は言った。「寝坊しないでね」
「しない」
「するでしょ。律くん、日曜の朝しか起きられないもん」
「十日、日曜じゃないけど」
「だから、言ってるの」
彼女はやっと笑った。いつもの、困ったような笑い方だった。
十時前に部屋を出た。玄関で靴をはいていると、彼女が「マフラー、いる?」と聞いた。年越しの紺色のを持っていた。
「それ、俺があげたやつじゃん」
「あ、そっか」
二人でちょっと笑った。
玄関で、また明日、と言った。
「また明日」と彼女も言った。十二月から、ちゃんと返してくれるようになっていた。
言ってから、針千本、と思った。
分かれ道で振り返ると、二階の角部屋の窓にまだ明かりがついていた。カーテンのすきまから誰かがこっちを見ているような気がした。手を振ったら、カーテンが少しだけ揺れた。
*
家に帰って窓を少しだけ開けた。二月の夜の空気は冷たくて乾いていた。空にはまだ星が見えていた。こんな夜の三日あとに雪が降るなんて、信じられなかった。
坂の下から警報機の音が上がってきた。
十一時すぎの、下りだった。
鳴りやむまで窓のそばにいた。
布団に入ってからも、十一時ごろ、という彼女の声が耳の奥で何回もくり返し響いていた。
*
七日の日曜はよく晴れた。いつものように踏切を撮った。遮断機の手前にしゃがんで祖父の構図に合わせる。急行が通りすぎるのを待ってシャッターを切った。
顔を上げると、歩道橋の階段の下に紺色のマフラーがしゃがんでいた。足もとに段ボールの箱と、キャットフードの小さな袋があった。少し離れた土手の草の上にミケが座っていた。
「何してんの」
「ミケ、つかまらないの」彼女は袋を小さく振った。ミケは耳だけこっちに向けた。「雪の日だけでも、うちに入れてあげたくて」
ミケのおなかが前より丸かった。
「太った?」
「赤ちゃん」と彼女は言った。「春に、生まれるの」
彼女が一歩近づくと、ミケは一歩下がった。もう一歩近づくと、草の中に消えた。
「一月から、ずっとこう」彼女は笑って立ち上がった。「用心深いの。お母さんになるから」
段ボールを抱えて彼女は歩道橋を上っていった。上で一回だけ振り返って手を振った。
振り返した。それだけで彼女は向こう側の階段を下りていった。
空には雲ひとつなかった。あさって、ここが白くなるところをうまく思い浮かべられなかった。
八日の夜、千夏からLINEが来た。
〈明日、家にいなよ〉
既読だけつけて、返事は打たなかった。
ニュースで、天気予報の人はもう「おそれ」とは言わなかった。
「あすの夕方から、東京でも雪になる見込みです。夜には、平地でも積雪となるでしょう。不要な外出は、お控えください」
画面の下に白い文字が流れていた。
母が台所から顔を出して「明日、早く帰ってきなさいよ」と言った。
「……うん」
居間で新聞を読んでいた父がテレビのほうを見たまま言った。
「雪か」
「うん」
「じいさんは、雪が降ると、夜中でもカメラ持って出てったな」父は新聞をたたんだ。「母さんに、いつも怒られてた」
「知ってる」
知っていた。中学のとき、雪の朝に一回だけ連れていってもらったことがある。真っ白な河原で、祖父は子どもみたいに何枚も何枚もシャッターを切っていた。
父は新聞を置いて、風呂に入りに行った。
部屋に戻って、壁にかけたコートの内ポケットを指で確かめた。年越しの夜にもらったフィルムが入ったままだった。
カーテンを開けた。空はまだ晴れていた。坂の下の踏切の赤いランプが、小さく、規則正しく、点いたり消えたりしていた。
スマホが震えた。
〈雪、来るね〉
〈来るね〉
〈約束、ちゃんと守ってね〉
〈守る〉
既読がすぐについた。
それから、もう一つ。
〈おやすみ。また明日〉
また明日、と彼女は書いていた。
〈また明日〉と返した。
明日は九日だった。




