↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハッピーアイスクリーム  作者: 成瀬ルイ
PR
19/22

第19章 雪の夜

 雪は昼すぎから降りはじめた。

 最初は雨に白いものがまじるくらいだった。三時を過ぎると雨の音がしなくなった。窓の外で、音のないものがただ落ちてくるようになった。

 店長から昼のうちにLINEが来ていた。

〈今日は閉めた。芹沢くんも家にいな〉

 四ツ谷では外濠の土手がもううっすら白かった。学食の窓際に人が集まって、みんなスマホで雪を撮っていた。掲示板に、午後の補講の休講の紙が貼られていた。

 大学からまっすぐ帰った。坂のてっぺんの駅で降りると、ホームの屋根の端からつららみたいな雪の塊が下がっていた。改札を出たとき、券売機の横につい目が行った。誰も立っていなかった。

 坂の上から見下ろすと、町じゅうの屋根が少しずつ白くなっていくところだった。坂の下の踏切だけが、赤いランプの色でときどき雪をピンクに染めていた。

 踏切は渡らないで、歩道橋を上がって家に帰った。


   *


 夜は母が鍋にした。土曜に丸ごと買ってきた白菜の、残りの半分だった。父はテレビのニュースを見ながら、黙って白菜を食べていた。画面の中で駅の改札に人があふれていた。都心の電車は本数を減らして、ゆっくり走っているらしかった。

「律の線は?」と母が聞いた。

「遅れてるけど、動いてる」

「動かなくていいのにね。こんな日は」

 母は窓のほうを見た。雪はさっきより大きな粒になっていた。

「じいちゃんなら、今ごろ出てってるな」と俺は言った。

 父が箸を止めた。口もとだけで笑った。父が笑うのを見たのは、ずいぶん久しぶりだった。

「出てってるな」と父は言った。

 航からは〈雪見鍋〉という一言と一緒に、美咲ちゃんとの鍋の写真が届いた。湯気で二人の顔がちょっとかすんでいた。

 八時に栞ちゃんからLINEが来た。

〈雪、すごいね〉

〈すごい〉

〈ちゃんと家にいる?〉

〈いる〉

〈私も〉

 少しして、もう一つ来た。

〈ミケ、こんな日どうしてるんだろ〉

〈どっかの家の軒下だろ〉

〈そうだよね〉

 写真が一枚届いた。窓の外の、雪の積もった手すり。部屋の明かりが白い雪をオレンジに照らしていた。

 顔は写っていなかった。


   *


 八時四十分に千夏からLINEが来た。

〈今から律んち行く〉

〈は? なんで〉

〈渡すものある〉

〈雪だぞ〉

〈知ってる。電車、めっちゃ遅れてる〉

 それきり既読もつかなくなった。部屋に戻って、机の前に座っていた。

 九時に、栞ちゃんからもう一つ来た。

〈明日の朝、何時に起きる?〉

〈六時〉

〈うそだ〉

〈六時半〉

〈寝坊しないでね〉

〈しない〉

〈するでしょ〉

〈しないって〉

 壁の時計を見ながら打っていた。一言ずつしか返せなかった。長く打てば、何かがこぼれる。この人は、長くなった文から何かを読む人だった。

 少しあいた。

〈おやすみ。また明日〉

 一行打って、消した。何を打つつもりだったのか、自分でも分からなかった。

〈また明日〉

 送って、スマホを伏せた。

 机の引き出しを開けた。奥に四月の朝のネガ。その手前に一月に焼いた一枚。前髪をはねさせて、目を細くして笑っている顔。しばらく見てから引き出しを閉めた。

 窓の外を雪が斜めに流れていた。坂の下で警報機が鳴って、止んだ。また鳴って、止んだ。電車はいつもよりずっと間をあけて、ゆっくり通りすぎていった。

 窓を少しだけ開けた。雪の夜は音がしなかった。車の音も人の声も、雪の中に吸いこまれていった。警報機の音だけが、坂の下からいつもより遠く聞こえた。

 次の警報機まで十五分あいた。その次は十八分あいた。

 壁の時計を見た。九時十分。九時十五分。

 十時半まで、まだ一時間以上あった。

 十時半になったら、壁のコートを着て、母にはコンビニとだけ言って、玄関を出る。坂を下りて、十一時の下りが来る前に、遮断機の前に立つ。

 栞ちゃんには、何も書かなかった。千夏に渡した一行だけでよかった。

 引き出しの中の一枚を、もう一回見ようとして、やめた。見たら、たぶん、立てなくなる。

 九時二十分を過ぎたころ、玄関のチャイムが鳴った。

 壁のコートを羽織って階段を下りた。


   *


 ドアを開けると、千夏が立っていた。頭も肩も真っ白だった。傘は持っていなかった。途中で捨てたのか最初から持っていなかったのか、分からなかった。息がすごく荒かった。

「……電車、止まりかけて」千夏は膝に手をついた。「駅から、走ってきた」

 うしろで母が「律? 誰?」と言った。

「何してんの、お前」

「これ」

 千夏はコートの内側から白い封筒を出した。湿って、角が少しよれていた。

 表に見覚えのある字で「律くんへ」と書いてあった。

「水無瀬さんから」千夏はまだ息を切らしていた。「九時半を過ぎても連絡がなかったら、律に渡してって。家の場所も、そのとき教わって。……でも、なんか、待てなくて」

 千夏の声が震えていた。

「さっきから、水無瀬さんに電話してるの。出ないの。一回も」

 九時半。

 封筒を開けた。便せんが何枚も入っていた。いちばん上の一枚の、最初の何行かだけが目に入った。

〈律くんへ。

 これを読んでるってことは、九時半、過ぎたよね。

 十一時って言ったの、うそ。ごめんね。

 本当は、九時半だった。〉

 その先は読めなかった。

 十時半より、一時間、早かった。

 時計を見た。九時二十七分だった。便せんをコートのポケットに突っこんだ。

 気がついたら玄関を飛び出していた。


   *


 雪は思っていたより深かった。スニーカーが一歩ごとに沈んだ。坂の途中で二回すべって二回とも手をついた。手のひらが雪で焼けるみたいに冷たかった。うしろで千夏が何か叫んでいた。何を言ったのかは聞こえなかった。

 頭の中でソラニワの『明日の天気』が鳴っていた。

 遮断機に、近づきすぎないでね。

 五月の歩道橋で彼女はそう言った。俺に、そう言った。

 坂の下から警報機の音が上がってきた。鳴りはじめたのか鳴りつづけているのか分からなかった。

 走った。

 雪のせいで町がいつもより遠かった。息を吸うたびにのどの奥が痛かった。曲がり角を一つ曲がると、坂の下に踏切の赤いランプが見えた。交互に、交互に、点いて消えていた。

 そのとき、長い警笛が鳴った。

 雪の中をまっすぐに、ずっと遠くまで。

 それから、ブレーキの音がした。金属が悲鳴みたいに長く鳴った。

 そして、何も聞こえなくなった。

 何の音もしなかった。自分の足音も、息の音も、しなかった。

 警報機だけが鳴りつづけていた。


   *


 踏切に着いたとき、遮断機は下りたままだった。

 電車が踏切を過ぎたところで止まっていた。窓の明かりが雪の中に四角く並んでいた。窓の向こうで、乗っている人たちがみんな同じほうを見ていた。誰もしゃべっていないように見えた。運転席のほうで懐中電灯の光が揺れていた。近所の家の窓がいくつも開いていた。誰かが電話で何か叫んでいた。

 遮断機の前に人が何人か立っていた。前に出ようとしたら、知らないおじさんに腕をつかまれた。

「だめだ。行っちゃだめだ」

 ふりほどこうとした。ほどけなかった。おじさんの手は震えていた。

「ボタンを」とおじさんは言った。俺に言ったのか自分に言ったのか、分からなかった。「あの子、非常ボタン、押してたんだ。それから、線路に猫がいて……」

 その先をおじさんは言わなかった。

 うしろで雪を踏む音が止まった。千夏が追いついたのだと思った。振り返れなかった。

 歩道橋の階段の下に、三毛猫が一匹うずくまっていた。雪をかぶって小さく震えていた。右の耳が欠けていた。

 ミケは、こっちを見ていた。

 赤いランプが、交互に、雪を照らした。

 遮断機の向こう、線路のすぐそばの、雪の上に。

 紺色のマフラーが、落ちていた。


   *


 そのあとのことは、順番どおりには覚えていない。

 母が傘も差さずに坂を下りてきた。何も言わずに俺のコートの前を合わせた。ボタンが一つずつずれていた。

 警察の人に名前を聞かれた。俺の名前と、それから、彼女の名前。

「水無瀬、栞です」

 家族の連絡先は、と聞かれた。知らない、と言った。広島の、海のある町。それしか言えなかった。

 千夏は母のコートの中で、ずっと震えていた。

 電車がまた動きだしたのは、日付が変わってからだった。母は千夏を帰さなかった。居間に布団を敷いた。

 俺は部屋のベッドに座っていた。コートは脱がなかった。ポケットの便せんには触らなかった。

 窓の外で、雪がだんだん小さくなっていった。


   *


 窓が少しずつ白くなった。坂の下で警報機が鳴った。始発だった。

 生まれてからずっと毎朝聞いてきた音だった。きのうと、何も変わらない音だった。

 スマホを見た。いちばん上に、彼女の名前があった。

〈また明日〉

 俺の吹き出しだった。その上に、彼女の〈おやすみ。また明日〉。ゆうべの九時の、最後の一行だった。

〈おはよう〉と打って、送った。

 画面を見ていた。四月から、返事が来ない日はあっても既読だけはいつもついた。

 既読は、つかなかった。

 画面を少しだけ上へ戻した。

〈しないって〉。〈しない〉。〈六時半〉。〈六時〉。

 彼女の吹き出しのあいだで、俺の吹き出しは、全部、一言だった。彼女は四回も話しかけてくれたのに、俺は時計ばかり見ていた。もっと長く返せばよかった。打って消した一行を、送ればよかった。

 もう少し戻した。おとといの夜にも、同じ〈おやすみ。また明日〉があった。その下に、同じ俺の〈また明日〉。

 指が止まらなくなった。

〈天気予報、一緒に見よ〉

 ストーブの前で膝を抱えていた横顔が浮かんだ。もう少し近くに座ればよかった。

〈ない〉

 一月。広島から写真が届くようになって、顔は、と聞いたときの返事だった。もう一回、聞けばよかった。

〈三十一日の夜、歩道橋にいる〉

 俺が送った一行だった。既読だけがついて、それでも彼女は来てくれた。のびたそばを、のびてるなんて言わなきゃよかった。うまいって言えばよかった。元日のハッピーアイスクリームは、先に言われた。何回でも先に言われて、何回でもおごればよかった。

 その前のことが、いっぺんに来た。二十八日の朝、券売機の横で、ココア二本ぶん待たせた。その前の夜、なんで出ていったんだろう。あの一晩、隣にいればよかった。

〈手、大丈夫?〉

 朝の七時前に来た一行だった。大丈夫、とも、ごめん、とも返さなかった。

〈ちゃんと寝てね〉

 十二月の一行だった。あの夜も、結局眠れなかった。二十四日は、店をもっと早く出ればよかった。ココアがぬるくなる前に。

〈全部、話すから〉

 その上に、〈日曜の朝、七時に、歩道橋で〉。八か月で初めて来た、彼女の字だった。

 その上は、俺の吹き出しばかりだった。〈夏休み、何してるんすか〉。いちばん上に、四月の〈今日はいろいろすみませんでした〉。どれにも小さく既読がついていた。

 机の引き出しを開けた。一月の一枚が、前髪をはねさせて笑っていた。

 一枚しか、なかった。

 もう一枚、と言ったら、一枚だけって言った、と返された。ケチ、と俺は言った。あのときフィルムは三十六枚目で終わっていた。新しいのを入れておけばよかった。もっとしつこく頼めばよかった。

 好きだって、一回もちゃんと言わなかった。

 来年の話も一回もしなかった。春になったら、って、一回でいいから言えばよかった。

 もっと、撮ればよかった。もっと、会いに行けばよかった。もっと、名前を呼べばよかった。

 もっと、一緒にいたかった。

 息が、うまく吸えなくなった。

 ベッドから床にずり落ちた。膝をついて、コートの胸をつかんだ。便せんの角が指に当たった。

 顔が濡れていた。いつから泣いていたのか、分からなかった。

 声は、出なかった。口を開けても喉の奥で何かがつかえて、息の音しかしなかった。

 床に額をつけたまま動けなかった。坂の下を次の電車が通っていった。また次の電車が通っていった。


   *


 七時を過ぎて階段を下りた。居間で父がテレビを見ていた。俺が入っていくと、父はリモコンを取って、テレビを消した。

 布団はたたんであった。千夏は始発で帰ったと、母が言った。

 十日の朝、歩道橋で会お。

 寝坊しないでね。

 玄関で靴を履こうとした。

 足は入った。ひもが結べなかった。指が言うことを聞かなかった。上がりかまちに座って、ひもの両はしを持ったまま、ずっと、そうしていた。

 中二の冬と同じだった。

 うしろで、床がきしんだ。

 父が黙って、自分のコートを着た。それから俺の前にしゃがんで、俺のスニーカーのひもを結んだ。きつく、二回。自分の長靴を履いて、玄関の戸を開けて、そこで待っていた。

 理由は聞かなかった。

 雪の坂を父のうしろについて下りた。父の長靴の跡を踏んで歩いた。踏切のほうは見なかった。

 歩道橋の階段の下で父は止まった。手すりの雪を手のひらで払った。それから、そこに立った。

 一人で階段を上った。

 手すりにはまだ雪が残っていた。下の踏切は、何もなかったみたいに遮断機を上げたり下げたりしていた。

 寝坊は、しなかった。

 コートのポケットから便せんを出した。

 開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。