第19章 雪の夜
雪は昼すぎから降りはじめた。
最初は雨に白いものがまじるくらいだった。三時を過ぎると雨の音がしなくなった。窓の外で、音のないものがただ落ちてくるようになった。
店長から昼のうちにLINEが来ていた。
〈今日は閉めた。芹沢くんも家にいな〉
四ツ谷では外濠の土手がもううっすら白かった。学食の窓際に人が集まって、みんなスマホで雪を撮っていた。掲示板に、午後の補講の休講の紙が貼られていた。
大学からまっすぐ帰った。坂のてっぺんの駅で降りると、ホームの屋根の端からつららみたいな雪の塊が下がっていた。改札を出たとき、券売機の横につい目が行った。誰も立っていなかった。
坂の上から見下ろすと、町じゅうの屋根が少しずつ白くなっていくところだった。坂の下の踏切だけが、赤いランプの色でときどき雪をピンクに染めていた。
踏切は渡らないで、歩道橋を上がって家に帰った。
*
夜は母が鍋にした。土曜に丸ごと買ってきた白菜の、残りの半分だった。父はテレビのニュースを見ながら、黙って白菜を食べていた。画面の中で駅の改札に人があふれていた。都心の電車は本数を減らして、ゆっくり走っているらしかった。
「律の線は?」と母が聞いた。
「遅れてるけど、動いてる」
「動かなくていいのにね。こんな日は」
母は窓のほうを見た。雪はさっきより大きな粒になっていた。
「じいちゃんなら、今ごろ出てってるな」と俺は言った。
父が箸を止めた。口もとだけで笑った。父が笑うのを見たのは、ずいぶん久しぶりだった。
「出てってるな」と父は言った。
航からは〈雪見鍋〉という一言と一緒に、美咲ちゃんとの鍋の写真が届いた。湯気で二人の顔がちょっとかすんでいた。
八時に栞ちゃんからLINEが来た。
〈雪、すごいね〉
〈すごい〉
〈ちゃんと家にいる?〉
〈いる〉
〈私も〉
少しして、もう一つ来た。
〈ミケ、こんな日どうしてるんだろ〉
〈どっかの家の軒下だろ〉
〈そうだよね〉
写真が一枚届いた。窓の外の、雪の積もった手すり。部屋の明かりが白い雪をオレンジに照らしていた。
顔は写っていなかった。
*
八時四十分に千夏からLINEが来た。
〈今から律んち行く〉
〈は? なんで〉
〈渡すものある〉
〈雪だぞ〉
〈知ってる。電車、めっちゃ遅れてる〉
それきり既読もつかなくなった。部屋に戻って、机の前に座っていた。
九時に、栞ちゃんからもう一つ来た。
〈明日の朝、何時に起きる?〉
〈六時〉
〈うそだ〉
〈六時半〉
〈寝坊しないでね〉
〈しない〉
〈するでしょ〉
〈しないって〉
壁の時計を見ながら打っていた。一言ずつしか返せなかった。長く打てば、何かがこぼれる。この人は、長くなった文から何かを読む人だった。
少しあいた。
〈おやすみ。また明日〉
一行打って、消した。何を打つつもりだったのか、自分でも分からなかった。
〈また明日〉
送って、スマホを伏せた。
机の引き出しを開けた。奥に四月の朝のネガ。その手前に一月に焼いた一枚。前髪をはねさせて、目を細くして笑っている顔。しばらく見てから引き出しを閉めた。
窓の外を雪が斜めに流れていた。坂の下で警報機が鳴って、止んだ。また鳴って、止んだ。電車はいつもよりずっと間をあけて、ゆっくり通りすぎていった。
窓を少しだけ開けた。雪の夜は音がしなかった。車の音も人の声も、雪の中に吸いこまれていった。警報機の音だけが、坂の下からいつもより遠く聞こえた。
次の警報機まで十五分あいた。その次は十八分あいた。
壁の時計を見た。九時十分。九時十五分。
十時半まで、まだ一時間以上あった。
十時半になったら、壁のコートを着て、母にはコンビニとだけ言って、玄関を出る。坂を下りて、十一時の下りが来る前に、遮断機の前に立つ。
栞ちゃんには、何も書かなかった。千夏に渡した一行だけでよかった。
引き出しの中の一枚を、もう一回見ようとして、やめた。見たら、たぶん、立てなくなる。
九時二十分を過ぎたころ、玄関のチャイムが鳴った。
壁のコートを羽織って階段を下りた。
*
ドアを開けると、千夏が立っていた。頭も肩も真っ白だった。傘は持っていなかった。途中で捨てたのか最初から持っていなかったのか、分からなかった。息がすごく荒かった。
「……電車、止まりかけて」千夏は膝に手をついた。「駅から、走ってきた」
うしろで母が「律? 誰?」と言った。
「何してんの、お前」
「これ」
千夏はコートの内側から白い封筒を出した。湿って、角が少しよれていた。
表に見覚えのある字で「律くんへ」と書いてあった。
「水無瀬さんから」千夏はまだ息を切らしていた。「九時半を過ぎても連絡がなかったら、律に渡してって。家の場所も、そのとき教わって。……でも、なんか、待てなくて」
千夏の声が震えていた。
「さっきから、水無瀬さんに電話してるの。出ないの。一回も」
九時半。
封筒を開けた。便せんが何枚も入っていた。いちばん上の一枚の、最初の何行かだけが目に入った。
〈律くんへ。
これを読んでるってことは、九時半、過ぎたよね。
十一時って言ったの、うそ。ごめんね。
本当は、九時半だった。〉
その先は読めなかった。
十時半より、一時間、早かった。
時計を見た。九時二十七分だった。便せんをコートのポケットに突っこんだ。
気がついたら玄関を飛び出していた。
*
雪は思っていたより深かった。スニーカーが一歩ごとに沈んだ。坂の途中で二回すべって二回とも手をついた。手のひらが雪で焼けるみたいに冷たかった。うしろで千夏が何か叫んでいた。何を言ったのかは聞こえなかった。
頭の中でソラニワの『明日の天気』が鳴っていた。
遮断機に、近づきすぎないでね。
五月の歩道橋で彼女はそう言った。俺に、そう言った。
坂の下から警報機の音が上がってきた。鳴りはじめたのか鳴りつづけているのか分からなかった。
走った。
雪のせいで町がいつもより遠かった。息を吸うたびにのどの奥が痛かった。曲がり角を一つ曲がると、坂の下に踏切の赤いランプが見えた。交互に、交互に、点いて消えていた。
そのとき、長い警笛が鳴った。
雪の中をまっすぐに、ずっと遠くまで。
それから、ブレーキの音がした。金属が悲鳴みたいに長く鳴った。
そして、何も聞こえなくなった。
何の音もしなかった。自分の足音も、息の音も、しなかった。
警報機だけが鳴りつづけていた。
*
踏切に着いたとき、遮断機は下りたままだった。
電車が踏切を過ぎたところで止まっていた。窓の明かりが雪の中に四角く並んでいた。窓の向こうで、乗っている人たちがみんな同じほうを見ていた。誰もしゃべっていないように見えた。運転席のほうで懐中電灯の光が揺れていた。近所の家の窓がいくつも開いていた。誰かが電話で何か叫んでいた。
遮断機の前に人が何人か立っていた。前に出ようとしたら、知らないおじさんに腕をつかまれた。
「だめだ。行っちゃだめだ」
ふりほどこうとした。ほどけなかった。おじさんの手は震えていた。
「ボタンを」とおじさんは言った。俺に言ったのか自分に言ったのか、分からなかった。「あの子、非常ボタン、押してたんだ。それから、線路に猫がいて……」
その先をおじさんは言わなかった。
うしろで雪を踏む音が止まった。千夏が追いついたのだと思った。振り返れなかった。
歩道橋の階段の下に、三毛猫が一匹うずくまっていた。雪をかぶって小さく震えていた。右の耳が欠けていた。
ミケは、こっちを見ていた。
赤いランプが、交互に、雪を照らした。
遮断機の向こう、線路のすぐそばの、雪の上に。
紺色のマフラーが、落ちていた。
*
そのあとのことは、順番どおりには覚えていない。
母が傘も差さずに坂を下りてきた。何も言わずに俺のコートの前を合わせた。ボタンが一つずつずれていた。
警察の人に名前を聞かれた。俺の名前と、それから、彼女の名前。
「水無瀬、栞です」
家族の連絡先は、と聞かれた。知らない、と言った。広島の、海のある町。それしか言えなかった。
千夏は母のコートの中で、ずっと震えていた。
電車がまた動きだしたのは、日付が変わってからだった。母は千夏を帰さなかった。居間に布団を敷いた。
俺は部屋のベッドに座っていた。コートは脱がなかった。ポケットの便せんには触らなかった。
窓の外で、雪がだんだん小さくなっていった。
*
窓が少しずつ白くなった。坂の下で警報機が鳴った。始発だった。
生まれてからずっと毎朝聞いてきた音だった。きのうと、何も変わらない音だった。
スマホを見た。いちばん上に、彼女の名前があった。
〈また明日〉
俺の吹き出しだった。その上に、彼女の〈おやすみ。また明日〉。ゆうべの九時の、最後の一行だった。
〈おはよう〉と打って、送った。
画面を見ていた。四月から、返事が来ない日はあっても既読だけはいつもついた。
既読は、つかなかった。
画面を少しだけ上へ戻した。
〈しないって〉。〈しない〉。〈六時半〉。〈六時〉。
彼女の吹き出しのあいだで、俺の吹き出しは、全部、一言だった。彼女は四回も話しかけてくれたのに、俺は時計ばかり見ていた。もっと長く返せばよかった。打って消した一行を、送ればよかった。
もう少し戻した。おとといの夜にも、同じ〈おやすみ。また明日〉があった。その下に、同じ俺の〈また明日〉。
指が止まらなくなった。
〈天気予報、一緒に見よ〉
ストーブの前で膝を抱えていた横顔が浮かんだ。もう少し近くに座ればよかった。
〈ない〉
一月。広島から写真が届くようになって、顔は、と聞いたときの返事だった。もう一回、聞けばよかった。
〈三十一日の夜、歩道橋にいる〉
俺が送った一行だった。既読だけがついて、それでも彼女は来てくれた。のびたそばを、のびてるなんて言わなきゃよかった。うまいって言えばよかった。元日のハッピーアイスクリームは、先に言われた。何回でも先に言われて、何回でもおごればよかった。
その前のことが、いっぺんに来た。二十八日の朝、券売機の横で、ココア二本ぶん待たせた。その前の夜、なんで出ていったんだろう。あの一晩、隣にいればよかった。
〈手、大丈夫?〉
朝の七時前に来た一行だった。大丈夫、とも、ごめん、とも返さなかった。
〈ちゃんと寝てね〉
十二月の一行だった。あの夜も、結局眠れなかった。二十四日は、店をもっと早く出ればよかった。ココアがぬるくなる前に。
〈全部、話すから〉
その上に、〈日曜の朝、七時に、歩道橋で〉。八か月で初めて来た、彼女の字だった。
その上は、俺の吹き出しばかりだった。〈夏休み、何してるんすか〉。いちばん上に、四月の〈今日はいろいろすみませんでした〉。どれにも小さく既読がついていた。
机の引き出しを開けた。一月の一枚が、前髪をはねさせて笑っていた。
一枚しか、なかった。
もう一枚、と言ったら、一枚だけって言った、と返された。ケチ、と俺は言った。あのときフィルムは三十六枚目で終わっていた。新しいのを入れておけばよかった。もっとしつこく頼めばよかった。
好きだって、一回もちゃんと言わなかった。
来年の話も一回もしなかった。春になったら、って、一回でいいから言えばよかった。
もっと、撮ればよかった。もっと、会いに行けばよかった。もっと、名前を呼べばよかった。
もっと、一緒にいたかった。
息が、うまく吸えなくなった。
ベッドから床にずり落ちた。膝をついて、コートの胸をつかんだ。便せんの角が指に当たった。
顔が濡れていた。いつから泣いていたのか、分からなかった。
声は、出なかった。口を開けても喉の奥で何かがつかえて、息の音しかしなかった。
床に額をつけたまま動けなかった。坂の下を次の電車が通っていった。また次の電車が通っていった。
*
七時を過ぎて階段を下りた。居間で父がテレビを見ていた。俺が入っていくと、父はリモコンを取って、テレビを消した。
布団はたたんであった。千夏は始発で帰ったと、母が言った。
十日の朝、歩道橋で会お。
寝坊しないでね。
玄関で靴を履こうとした。
足は入った。ひもが結べなかった。指が言うことを聞かなかった。上がりかまちに座って、ひもの両はしを持ったまま、ずっと、そうしていた。
中二の冬と同じだった。
うしろで、床がきしんだ。
父が黙って、自分のコートを着た。それから俺の前にしゃがんで、俺のスニーカーのひもを結んだ。きつく、二回。自分の長靴を履いて、玄関の戸を開けて、そこで待っていた。
理由は聞かなかった。
雪の坂を父のうしろについて下りた。父の長靴の跡を踏んで歩いた。踏切のほうは見なかった。
歩道橋の階段の下で父は止まった。手すりの雪を手のひらで払った。それから、そこに立った。
一人で階段を上った。
手すりにはまだ雪が残っていた。下の踏切は、何もなかったみたいに遮断機を上げたり下げたりしていた。
寝坊は、しなかった。
コートのポケットから便せんを出した。
開いた。




