第20章 律くんへ
律くんへ。
これを読んでるってことは、九時半、過ぎたよね。
十一時って言ったの、うそ。ごめんね。
本当は、九時半だった。
これを書いてるのは、二月一日の夜。だからほんとはまだ言ってないの。十一時って。
でも、言うってもう決めてる。律くんはたぶん聞くでしょ。何時ごろだったのって。分からないことがあると、ずっと見てる人だから。聞かれたら私は十一時って言う。ちょっと黙っちゃうかもしれない。ばれないといいな。
うそは、もう一つある。
多摩川の土手で、二人とも家にいれば何も起きないはずって言ったよね。
あれも、うそ。
四月一日の朝に、もう決めてたの。九日の夜は私が行くって。
*
四月一日の朝のこと、書くね。
目がさめて、カレンダーを見て、スマホを見て、律くんのLINEを探して、なかった。そこまでは土手で話したとおり。
話してない続きがあるの。
パジャマの上にコートを着て、坂を下りた。踏切まで。
まだ暗くて、誰もいなかった。桜だけが白く咲いてた。遮断機の前に立って線路を見てた。一回目のあと、私はあそこを一回も渡れなかったの。
警報機が鳴って、電車が一本通って、遮断機が上がった。
そのとき、決めた。
九日の夜は、私が行く。
律くんには、好きになってもらわない。
写真は、撮られない。
三つ決めたら、ちょっとだけ息ができるようになった。部屋に帰って手帳に線を引いた。左に一回目、右に今回。
決めたら泣くのかと思ってた。泣かなかった。泣いたのは、もっとあと。何回も。
*
ここから二日の夜。きのうは、そこまでしか書けなかった。
四月四日の朝、踏切にいたのは律くんを待ってたんじゃないよ。
律くんが毎年あの桜を撮ってるのは、一回目に聞いて知ってた。でも、それがあの日の朝だったなんて知らなかった。一回目の律くんは、そういうこと言わなかったから。
私はあそこを見に行っただけ。
うしろで、危ないって声がした。
電車が行って、振り返ったら、律くんがいた。
カメラを持って、ちょっと口をあけて、生きてた。
目、赤かったでしょ。花びらじゃないよ。
桜、まだ咲いてるねって言ったのは、ほかに何も言えなかったから。
分かるでしょ。
その日の帰りに駅前で、好きにならないでねって言った。律くんは、ならないならない、安心してって笑った。初対面でそれ言われたの初めて、って。
初対面じゃなかった。ごめんね。
一回目の律くんも、最初はそうやって笑ってた。だからちょっとだけほっとして、ちょっとだけ、さみしかった。
それから八か月、既読だけでごめんね。全部読んでた。二回ずつ。
千夏ちゃんに律くんを押しつけたのも、ごめん。かばう人がいなくなるようにって土手では言ったけど、それだけじゃなかった。
私がいなくなったあとに、律くんの隣に誰かいてほしかったの。
千夏ちゃんは、律くんの油少なめを私より先に知ってた人だから。
*
三日の夜。今日、節分だった。
豆は年の数より一個多く食べると、一年元気でいられるんだって。一個多く、食べといた。
九月の桟橋で、言わないでって止めたのは、その先をもう一回聞いたら、四月一日に決めたことができなくなりそうだったから。
十一月の最初の日曜、歩道橋を下りるとき、背中で、シャッターの音がした。
律くんが自分で決めて人を撮った音だって、すぐ分かった。
二秒くらい、止まっちゃった。振り返ったら泣いてるのがばれるから、振り返らなかった。
*
四日。今日はゼミだった。
夜、律くんに、あさってうち来るって送った。行くってすぐ返ってきた。一秒くらいで。笑っちゃった。
十二月のことを書くね。
踏切の見える所で、好きでいる一年がいいって言われたとき、だめって、最後まで言えなかった。
うれしかったから。
遅いよって言ったのはほんと。一回目は九月だったから。でも今回のほうがずっと遅くて、ずっとうれしかった。
江ノ島の神社で長くお願いしてたでしょ。何をお願いしたか、律くんは聞かなかったね。
律くんが、来年もあの桜を撮れますように。
元日の神社でも同じお願いをした。二回お願いしたから、たぶん、叶う。
江ノ島の日の夕方から、一回目の話をするのはやめた。今回の律くんと今回の一日を、過ごしたかったから。
二十八日のことも書かなきゃね。
アヤカちゃんのとこに行ったって聞いて、私、ほんとに怒った。最低って言った。今もちょっと怒ってる。
でも、帰って一人になってから、ずっと考えてた。
律くんが行ったのは、アヤカちゃんのところじゃなくて、私のいないところだったんだよね。
私がいなくなったら、律くんはこうやって、一人でどこかに朝まで座ってるのかなって。
それが、いちばん、こわかった。
年越しに渡したフィルム、撮りたい人ができたらって言ったよね。
できたら、でいいの。
私じゃなくて、いいからね。
一月に一枚だけ撮らせたのは、ずるかった。卒論出したからって理由になってないよね。
顔は残さないって、四月から決めてたのに。笑ってる顔なら、律くんもいつか見られるかなって思っちゃった。見られなかったら、どこかにしまっといて。
*
まだ四日の夜。ここからは、一回目の九日のこと。
一回目の九日も、雪だった。
夜の八時ごろ、私は律くんに送ったの。ミケ、こんな日どうしてるんだろって。
律くんは、見に行くかって返してきた。
九時二十分に歩道橋の下で待ち合わせた。ミケは軒下にも土手にもいなかった。
九時半に、警報機が鳴った。
赤いランプの中で、線路の真ん中に、ミケがいた。雪の上で丸くなって、動かなかった。
私は遮断機をくぐった。
律くんが何か叫んだ。雪で足がすべった。
それから、背中を押された。すごく、強く。
そのあとのことは、書かない。
ミケも私も、律くんに助けてもらったの。
九日も昼からミケを探す。今度こそうちに連れて帰る。ペット禁止だけど、一晩だけ。
九時半にミケと私がうちにいて、何も起きなかったら千夏ちゃんに電話する。十日の朝、この手紙を返してもらって自分で破る。律くんは、これを読まない。
だから、これを読んでるってことは、ミケ、見つからなかったんだね。
ミケが見つかったら、もしかしたら誰もいなくならないかもしれないって、思いたかった。
ミケのために行くんじゃないよ。
あの夜、あそこで、誰かがいなくなる。変えても、変えても、誰かが代わりに埋める。一年かけて何回も見てきた。
だったら、それは律くんじゃなくて、私。
八時ごろ、私はたぶん律くんに送っちゃうと思う。ミケ、こんな日どうしてるんだろって。一回目と同じ時間に、同じことを。こういうのは、止めようとしても戻ってくるから。
見に行くか、って言わないでね。
九時になったら、おやすみって言う。その前にたぶん、どうでもいいことをいくつか聞いちゃう。最後まで、ふつうの話がしたいから。ふつうに返してね。
十一時って言うのは、もし律くんが約束を破っても、九時半にはそこにいないように。一回目の律くんは、来た人だから。今回の律くんも来ちゃう人だって、知ってるから。
九時すぎに私は家を出る。
線路にミケがいたら、まず非常ボタンを押す。一回目は押せなかったから。
マフラー、してく。律くんにもらったやつ。あったかいから。
*
ここから五日の金曜。新宿で書いてる。
この手紙は今日、千夏ちゃんに預ける。九日の九時半を過ぎても私から連絡がなかったら、律くんに渡してって頼む。九時半より前には来ないでねって。千夏ちゃんまであそこにいたら困るから。踏切じゃなくて、歩道橋を渡ってね、とも言っとく。律くんの家の場所も教えとく。
千夏ちゃんに会いたいってLINEしたら、五時から律と会うから、六時ならって返ってきた。南口の窓の大きい喫茶店。
だからちょっとだけ早く来ちゃった。外から窓を見た。律くんがいた。千夏ちゃんと向かい合って座ってた。
千夏ちゃんが何か言って、律くんの腕をたたいた。律くんが、笑った。
一年のときからラーメン屋さんで、きっとああやって笑ってたんだと思う。
なんの用だったのかは知らない。聞かない。十二月のこと、ちゃんと謝ってたのかもね。
それで今、向かいのビルのドーナツ屋さんの二階で、これを書いてる。ここからあのお店の窓が見える。
あ、律くん、出てきた。
信号のとこで、空、見てる。雪、まだだよ。気が早いな。
……行っちゃった。
よかった。
律くんは、千夏ちゃんの隣なら笑える。
私がいなくなっても、律くんは、大丈夫。生きていける。
だから、やっと書ける。
好きにならないでって言った、ほんとの理由。
一回目のあと、私は五十日、律くんのいない町にいた。
毎晩、あの部屋に一人で帰った。鍵をあけて電気をつけて、誰もいない部屋にただいまって言った。言う相手、いないのに。
律くんの撮った写真を毎日見てた。踏切と、桜と、河原。人が一人も写ってない写真。律くんも、どこにも写ってなかった。
一人の部屋に帰るのがどういうことか、私、そこで知ったの。
律くんが中学の冬に、ずっとしてたこと。玄関で靴が履けなくなるくらいの。
律くんに、あれをもう一回させたくなかった。
私を好きにならなければ、私がいなくなっても律くんは一人にならない。
そう思ったの。四月一日の朝に。
……うまく、いかなかったね。
好きにならないでって言ったのに、好きになってくれて、ありがとう。
ほんとはね、生きたかった。
内定、十一月に断ったの。四月には、もういないから。でも、絵本、作ってみたかった。翔太に最初の一冊を送りたかった。お母さんの牡蠣、来年も食べたかった。
律くんと、来年の桜、歩道橋の上から見たかった。
書いたら、だめだね。破りたくなる。
だから楽しかったことを書くね。
二十四日、お店の前で待ってたこと。ココア、ぬるかったでしょ。
そのあとのラーメン。一口あげたら、うまって言ったね。
大晦日、歩道橋にいてくれたこと。のびたおそば、のびてるって言いながら全部食べてくれたね。
元日のアイス。頭、きーんってなったね。
一枚だけ撮られたこと。ケチって言われたこと。
全部、楽しかった。
幸せだったよ、律くん。
そろそろ千夏ちゃんのとこに行く。
千夏ちゃんに、ちゃんとご飯、食べさせてもらってね。ラーメンは油少なめ。胃薬、忘れないで。来年も、桜、撮ってね。
四月にゼミでもらった予定表、まだ持ってる。いちばん下の二月の欄。九日の横に小さく、また明日って書いてある。中間発表の日に書いたの。
四月の駅前で私が言っちゃった、また明日。一回目の律くんが毎日言ってた言葉。あの日から今回の律くんも、毎回言ってくれたでしょ。分かれ道で、歩道橋で、駅で。一回目と同じ言い方で。
私はずっと、じゃあねって返してた。また明日って言ったら、明日が来ることにしちゃう気がして。来ない日が近づいてくるの、知ってるのに。
でもね、言ってほしかった。毎回。律くんが言うと、明日が来るって律くんが決めてくれたみたいで、それで私、一日ずつ生きてた。
十二月に分かれ道で、言い直さなかったでしょ、私。あれ、わざとだよ。
最後に書くこと、決めてたの。
律くんは今これを読んで、たぶん、ばかって言ってる。
私も書きながら、ずっと自分に言ってた。ばかだなあって。
同時だね。
ハッピーアイスクリーム。
私の勝ち。だから来年も、アイスおごってね。
栞




