第21章 言わなかったこと
二月十日の朝、歩道橋の上で便せんを最後まで読んだ。ばか、って声に出して言った。
彼女の勝ちだった。
階段を下りると、父が同じところに立っていた。
*
十四日の日曜にも踏切を撮った。遮断機の脇に花束がいくつも置いてあった。三十九枚目だった。
作品展の壁には四十枚分の場所があった。三十九枚を順番に貼って、最後の一つは空けたまま出した。
北条先生は空いたところの前で、長いこと立っていた。何も言わなかった。
隣の彼女の場所には、『また明日』の札だけが貼ってあった。
向かいの壁には長谷川さんの商店街と、佐伯の酒屋の帳場が並んでいた。シャッターの閉まった店の前で、八百屋のおばあさんが笑っていた。帳場の写真には、佐伯のお父さんの背中が写っていた。
長谷川さんは毎朝会場に来ると、その札の前で足を止めてから、自分の写真のほうへ行った。
作品展が終わって、三十九枚は部屋の壁に同じ順番で貼った。最後の一つ分は空けたままにした。
*
葬式は広島で身内だけで済ませたと、北条先生から聞いた。三月のはじめに知らない番号から電話があった。
「芹沢、律くん?」と女の人の声が言った。「栞の、母です」
あの子が最後にLINEを送った相手が、俺だったらしい。番号は北条先生に聞いたと言った。
「お正月明けにあの子が帰ってきたとき、律くんによろしくねって、私が言ったのよ」お母さんは少し黙った。「……あの子の、最近の写真、持ってないかしら。春から、顔の写真を一枚も送ってこなくて。お葬式も、高校の卒業式の写真しか、なかったの」
引き出しの中に一枚だけあった。一月の歩道橋の上。前髪をはねさせて、目を細くして笑っている顔。
店の暗室で四つ切りに焼いた。
新幹線で四時間かかった。海のある町だった。波のない海に牡蠣の筏が並んでいた。
小さな家の仏間で、白い布をかけた台の上に、セーラー服の彼女がいた。大学に入る前の、まだ丸い顔で、まっすぐこっちを見ていた。
お母さんに封筒を渡した。お母さんは写真を出して、長いこと黙っていた。
「……笑ってる」
台の上の写真と手の中の写真を、何度も見くらべた。
「あの子が、こんな顔で笑うの、いつ以来かしら」
うしろから翔太がのぞきこんだ。制服の袖で目をこすった。「姉ちゃんだ」と言った。
少しして、俺のほうを見ないで言った。
「絵本、作るって言ってた。一冊目は、俺にくれるって」
二冊目は、誰だったんだろう。
お母さんはセーラー服の写真を台から下ろして、俺の焼いた一枚を置いた。
笑っている顔が、こっちを向いた。
目は、そらさなかった。
気がついたら、声が出ていた。子どもみたいな声だった。止めようとしても止まらなかった。お母さんが背中に手を置いた。その手の置き方が、彼女に似ていた。
帰りぎわ、玄関で住所を聞かれて、メモに書いた。お母さんはそれを二つに折って、手のひらに握ってから言った。
「あの子のこと、好きになってくれて、ありがとうね」
好きにならないで、と言われたことは、言わなかった。
*
三月の半ばに、広島から小さな包みが届いた。
中に紺色の手帳と、便せんが一枚入っていた。布の表紙の角が、少しだけ白く擦れていた。
〈芹沢律様 あの子のコートのポケットに入っていたそうです。警察の方が返してくださいました。最初のほうだけ、読んでしまいました。ごめんなさい。律くんの名前ばかりだったので、私が持っているより、律くんに持っていてほしいと思いました。 栞の母〉
次の日曜、踏切を撮ってから歩道橋に上がった。彼女がいつも踏切を見下ろしていた手すりにもたれて、手帳を開いた。
ゴムのバンドは少しゆるくなっていた。表紙の裏に、小さい字で一行だけあった。
〈律くんのこと、忘れないうちに〉
最初のページは定規で引いた線で、縦に二つに分けてあった。左の上に「一回目」。右の上に「今回」。
〈四月四日〉
〈一回目|中庭で「可愛いね」と声をかけられる。断る。ゼミで、後輩だと分かる。帰りの電車で「栞ちゃん」〉
〈今回|朝、踏切。撮られちゃった。中庭で「運命じゃない?」。帰りの電車で「栞ちゃん」。やっぱり、そうなる。別れてから、駅前のコンビニに戻って、ココアを買った。手がふるえて、缶が開けられなかった。レシートは、栞にする〉
〈四月五日〉
〈一回目|新歓の暗室には、行かなかった〉
〈今回|行った。ずっと揺らしてないとムラになるって、言っちゃった。秋に律くんが教えてくれたこと。教えてくれた人の前で。好物は、わざとカレーって言った〉
〈六月 テーマ発表の日〉
〈一回目|雨。律くんの傘に、二人で入る。駅まで〉
〈今回|傘を断って、走った。教会の前で、振り返っちゃった。雨でよかった〉
〈六月 学食〉
〈一回目|律くんは油少なめ。多めのほうがうまいんだよなって言うから、多めにしてみた。一口ずつ取っていく〉
〈今回|ラーメンに誘われた。最初から、多めって言った〉
〈七月 木曜〉
〈一回目|分かれ道まで、律くんと〉
〈今回|コンビニの前で待った。待ってないって言った。麦茶、味がしなかった〉
〈七月 恵比寿〉
〈一回目|『不在の肖像』。縁側の写真の前で、律くんが、おじいさんの遺影の話をする〉
〈今回|行かないつもりだった。行った。同じ写真の前で、同じ話。重くないよって、それしか言えなかった。二回目なのに、一回目より痛かった〉
〈八月十六日 花火〉
〈一回目|土手のいちばん上で、律くんと。律くんの花火の写真は、今年もブレた〉
〈今回|名前を、書けなかった〉
〈九月 合宿〉
〈一回目|くじで同じ。桟橋で、中学のときの話。そのあと、〉
その先は線で消してあった。消してあっても、読めた。
付き合う。
〈今回|くじで同じ。交換してもらえなかった。同じ話。言わせなかった。ほんとは、もう一回聞きたかった。小説のこと、また聞かれた。弟と海の話。今度は内緒にした。人を撮れるようになったら、って。そうなってほしかった〉
「今回」の欄の余白に、小さい字で書いてあった。
〈ハッピーアイスクリーム、笑っちゃった〉
〈十月の終わり 四ツ谷駅〉
〈一回目| 〉
〈今回|律くんと、知らない女の子。これで、いい〉
これで、いい、の字だけが少し震えていた。
〈十一月 牡蠣〉
〈一回目|律くんと二人で。律くん、お腹をこわす〉
〈今回|千夏ちゃんと、律くん。よく火を通した。三人で食べた。楽しかった。楽しいって書いたら、いけない気がする〉
その下に、色のちがうペンで一行あった。
〈次の日、私〉
〈十二月十日〉
〈一回目| 〉
〈今回|ゼリー、二個。どっちが好きか分かんなかったからって。どっちも好き。もう話しかけないでって言った〉
〈十二月十三日〉
〈一回目| 〉
〈今回|全部、話した。信じたくない顔、って自分で言った。鉄橋の話をしたら、黙った。最後まで、聞いてくれた〉
〈十二月十七日〉
〈一回目|九月、桟橋で〉
〈今回|踏切の見える所で。電車が行くまで、待ってから言ってくれた。遅いよって言った。髪、はねてたの、知ってた。言わないでくれた〉
〈十二月二十四日〉
〈一回目|店の前で。ココア、ぬるかった〉
〈今回|同じがよかった。捨てられなくてって、冷たいカイロ。私がもらった〉
〈十二月二十七日〉
〈一回目|自転車。律くんの右手〉
〈今回|同じ手の、同じ所。泊まってって、初めて言えた。帰っちゃった。また明日って、言わなかった〉
〈十二月二十八日〉
〈一回目| 〉
〈今回|駅で待った。ココア、二本。最低って言った。帰ってきたから、言えた〉
〈十二月三十一日〉
〈一回目|律くんと、年越しそば〉
〈今回|歩道橋に、いてくれた。そば、のびた。一回目より、おいしかった〉
〈一月 歩道橋〉
〈一回目| 〉
〈今回|一枚だけ、撮られた。もう一枚って言われた。ほんとは、何枚でもよかった〉
ページをめくろうとした指が、そこで止まった。
〈二月七日〉
〈一回目| 〉
〈今回|ミケ、つかまらない。春に赤ちゃん。見たかったな〉
最後に字のあるページに、レシートがはさまっていた。角の丸くなった、駅のコンビニのレシートだった。四月四日。ココア、一本。
〈二月九日〉
〈一回目|雪。律〉
「今回」の欄は白かった。まんなかに、ペン先を置いただけの小さな点がひとつあった。
白いところを指でなぞった。
ページのいちばん下、欄の外に、一行だけあった。
〈もっと、一緒にいたかった〉
小さい字だった。そこだけ、少しも震えていなかった。
好きだ、と声に出して言った。
下を急行が通りすぎて、自分の声も聞こえなかった。ページが風でめくれかけた。手帳を閉じて、ゴムのバンドをかけた。坂を上って家に着くまで、何度もかけ直していた。
*
三月の終わりに、千夏がバイト先の店に来た。紙袋を持っていた。中に菓子の空き箱。使い捨てカメラが五つ並んでいた。
「現像、お願いします」と千夏は言った。客みたいな言い方だった。「作品展に、出せなかった」
千夏はもう一つ封筒を出した。俺の字で「千夏へ」と書いてあった。
「これ、返す」
「……なんで」
「私が持ってると、ずっと頼まれてる気がするから」千夏はカウンターに封筒を置いた。「頼まれても、水無瀬さんは、もういないんだし。律のことは、律が自分でやって」
「金曜の喫茶店で、律は笑ってて、水無瀬さんは窓の外ばっかり見てた」千夏はそこで言葉を切った。「……おんなじだったんだよ。二人とも」
「九日の夜、水無瀬さんに、十回電話した。出なかった。だから、律んちに行った」
千夏は紙袋を俺のほうへ押した。
「どっちも、行かせたくなかった」
*
店長に頼んでラボに出した。写真が戻ってきたのは、四月三日の土曜だった。百枚とちょっと。撮ってから長くたっていたせいで、どれも色が薄かった。
全部、俺だった。
歩道橋の上から撮った、遮断機の手前にしゃがんでいる日曜の朝の俺の背中。湖の桟橋で霧を見ている背中。坂の上の駅のホームで電車を待っている背中。江ノ島の橋の上で海のほうを向いている背中。なんてことない日ばっかりだった。
その中に一枚、遠くから撮った背中があった。四ツ谷の駅前で、アヤカと並んで立っている俺だった。十月の終わりの、土曜の朝だった。
最後の一枚だけ、前からだった。
カメラを構えてファインダーをのぞいている俺。顔の半分はカメラに隠れていた。いつ撮られたのか、分からなかった。
律くんも、どこにも写ってなかった、と手紙に書いてあった。
今度は、全部に俺がいた。
*
その夜、店の暗室で十三枚目を焼いた。
焼かないと約束したネガだった。
誰にも頼まれていない。自分で決めた。
赤い安全灯の下で、印画紙に、ゆっくり影が浮かんできた。最初に、遮断機の黒。それから、花びらの白。最後に、コートの肩と、ネガでは分からなかった、ブレた横顔。
彼女は、線路を見ていた。
泣きながら、笑っていた。
俺の声を聞いて、まだ振り返る前の顔だった。
最後まで、見ていられた。
*
四月四日の朝、踏切で桜を撮った。
日曜だった。遮断機の手前にしゃがんで、祖父の構図に合わせる。土手の古い桜は今年も、町でいちばん早く咲いていた。風が吹くたびに花びらが線路の上を流れていった。
警報機が鳴って急行が通りすぎた。シャッターを切った。ファインダーの中には、誰も入ってこなかった。
遮断機が上がると、犬を連れたおじいさんが踏切を渡ってきた。桜を見上げて、今年も早いなあ、と誰に言うでもなく言った。
遮断機の脇の花束はもうなかった。顔を上げると、歩道橋の階段の下にミケがいた。右の耳の欠けた三毛猫。そのうしろから小さいのが三匹、よたよたついてきた。しゃがんで手をのばした。今度は逃げなかった。欠けた耳のところを、一回だけなでた。ミケはこっちを一回だけ見て、それから子猫を連れて土手の草の中へ入っていった。
来年も、桜、撮ってね。
撮ったよ、と思った。
踏切から帰って、部屋の壁の最後の空いたところに、十三枚目を貼った。作品展から持って帰ってきた三十九枚の、そのあとに。
最後の一枚は、決めてる? と先生は聞いた。
最後の一枚は、最初の朝の一枚だった。
*
夜、四ツ谷で千夏と航とラーメンを食べた。千夏が、第一志望の食品メーカーから内々定をもらったお祝いだった。面接ではちゃんと御社と言えたらしい。航は美咲と住む部屋を、探しはじめたところだった。
カウンターに座るとき、気がついたら隣を一つ空けていた。千夏は何も言わずに、その席に自分の鞄を置いた。
「麺かため、味濃いめ」
そこで、ちょっと止まった。
「……油、多め」
千夏がこっちを見た。航も見た。二人とも、何も言わなかった。
スープは一口目から重たかった。うまかった。
鞄からカメラを出した。年越しの夜に彼女にもらったフィルムは、あの夜からずっとコートの内ポケットに入っていた。踏切から帰ってから、それを入れた。
ファインダーをのぞいた。湯気の向こうで、千夏と航が顔を見合わせた。
「ちゃんと撮って」
「ちゃんと撮って」
二人の声が重なった。
「ハッピーアイスクリーム!」と千夏が言った。航がこっちを見た。
「水無瀬さんが、教えてくれた」
シャッターを切った。
撮りたい人なら、いた。
店を出ると、四ツ谷の駅の向こうに外濠の桜が白く見えた。
「じゃあね」と千夏が言った。
坂の上の駅で降りて、駅のコンビニでアイスを買った。いちばん安いバニラにした。
歩道橋に上がった。彼女がいつも立っていた手すりの、隣に立った。ふたを開けて、一口食べた。頭が、きーんとした。下の踏切で、土手の桜が街灯に白く浮かんでいた。
帰りぎわ、隣の手すりを見た。
また明日、と言った。




