第8章 歩道橋の背中
運命メモはあの夜から開いていない。
数えるの、やめたほうがいいよ。そう言われたからじゃない、と思いたかった。でもゼミで栞ちゃんと同時に何かを言いかけるたびに、俺は口を閉じるようになった。帰りの電車で同じ車両になっても、もう数えなかった。
栞ちゃんのほうはもっと分かりやすかった。ボウリングの次の木曜日から、彼女はゼミが終わるとすぐに教室を出ていくようになった。一本前の各駅停車に乗る。分かれ道まで一緒に歩くこともなくなった。笑い転げてハイタッチまでしたあの夜が、なかったことになったみたいだった。
四月から何度も線を引かれてきた。それでも少しずつ近づいている気がしていた。その「気がしていた」を、まとめて返された気分だった。
*
十月の最後の金曜日はサークルのハロウィンの飲み会だった。新宿の居酒屋の座敷に、猫耳やら魔女の帽子やらをつけた三十人が詰めこまれていた。俺は何もつけずにいつものようにハイボールを頼んで、いつものように場を回した。誰かのグラスが空けば声をかけ、話の輪からこぼれそうな一年生がいれば話を振った。
楽しいふりは、得意だ。その夜はいつもよりうまくできた。
トイレに立った帰り、廊下の突き当たりでアヤカがしゃがみこんでいた。黒い猫耳のカチューシャを手に持ったまま、スマホを握りしめていた。
「アヤカ?」
顔を上げた彼女の目は、真っ赤だった。
「……おばあちゃんが、倒れたって。さっき、お母さんから」
青森の、駅から車で四十分のりんご畑の家。七月に聞いた話を俺は覚えていた。
「帰んなくていいの」
「帰りたいよ」アヤカは笑おうとして、うまくいかなかった。「でも新幹線、片道一万七千円とかするし。バイト代、来週なの。お母さんも、来なくていいって。来ても、できることないからって」
そう言ってアヤカは膝に額をつけた。廊下の向こうから座敷の笑い声が聞こえてきた。誰かが音程の外れた歌を歌っていた。
「……一人の部屋、今日は帰りたくない」
七月に改札の前で冗談みたいに言っていたのと、ほとんど同じ言葉だった。今度は、冗談の顔をしていなかった。
俺はその横にしゃがんだ。
断る理由はいくらでもあった。断らない理由もいくらでもあった。いちばん大きかったのは、俺もその夜、一人の部屋に帰りたくなかったことだ。
その夜、俺はアヤカの部屋に泊まった。
*
朝の光は思っていたより白かった。
アヤカの部屋は四谷三丁目の駅から十分ほど歩いた、古いマンションの五階にあった。六畳のワンルームで、家賃の半分は親が払ってくれている、と前に言っていた。窓のカーテンが半分開いていて向かいのビルの非常階段が見えた。
本棚のかわりに、りんごの段ボールが二つ横にして重ねてあった。側面に青森の知らない町の名前と、赤いりんごの絵が刷ってあった。冷蔵庫の扉には居酒屋のシフト表がマグネットでとめてあって、土曜と日曜に赤いペンで丸がついていた。
アヤカは俺より先に起きていた。キッチンの床に座ってスマホの画面を見ていた。
「おばあちゃん、大丈夫だった」と彼女は言った。「さっき、お母さんからLINE来た。検査で何日か入院するけど、意識もちゃんとしてるって」
「よかった」
「うん」
アヤカのスマホがもう一回鳴った。画面に〈おばちゃん〉と出ていた。
〈おばあちゃん、どうだった?〉
〈きょう無理なら休んでいいからね〉
アヤカは〈大丈夫でした! 行きます〉と打って、少し考えてから、泣いている猫のスタンプを一つ足した。
「休めばいいのに」
「休んだら、ここで一日じゅう考えちゃうもん」アヤカはスマホを伏せた。「それに今日、まかない、唐揚げの日だし」
何を言えばいいのか分からなかった。アヤカも何も言わなかった。やかんが鳴った。マグカップは一つしかなかった。アヤカはそれを俺の前に置いて、自分は歯みがき用のプラスチックのコップにお湯をそそいだ。二人でインスタントのコーヒーを飲んで、九時前に部屋を出た。バイト先のランチの仕込みがあるから、とアヤカも四ツ谷の駅までついてきた。
土曜日の四ツ谷は平日よりずっと静かだった。新宿通りを歩いて駅前まで来たときだった。
改札から出てくる人の流れの中に、紺色が見えた。
栞ちゃんだった。トートバッグを肩にかけて大学のほうへ歩いてくる。図書館だろう、と思った。卒論を書いている、と言っていた。
目が合った。
彼女は、俺を見て、それからアヤカを見た。昨日のままの服を見られた気がした。
足が止まったのは、一秒くらいだったと思う。彼女は、小さく会釈をした。四月に中庭で俺を断ったときと同じ、落ち着いた顔で。
「おはよう」
それだけ言って、彼女は俺たちの横を通りすぎていった。
トートバッグの紐を握る指先が、白くなっていた。それが見えたのは、たぶん俺だけだった。
「今の人」とアヤカが言った。「ゼミの先輩でしょ。律くんの本命」
「違う」
「嘘。顔に書いてある」
アヤカは通りすぎていった紺色の背中を見ていた。それから俺のほうを向いた。
「昨日は、ありがと。ほんとに助かった」アヤカは言った。「でもさ、律くん。私、二番目とか、向いてないんだよね」
「アヤカ、それは——」
「いいの。分かってたから」アヤカは笑った。今度は、ちゃんと笑えていた。「来週、バイト代入ったら、青森帰る。おばあちゃんの顔見てくる」
そう言って、アヤカは一人で南北線の階段を下りていった。俺は追いかけなかった。追いかける資格がないことくらいは分かっていた。
*
家に帰ると母が台所から顔を出した。
「おかえり。朝ごはんは?」
「いい」
母は俺の顔をちらっと見て、何も聞かなかった。居間では父が新聞を広げていて、こっちを見もしなかった。いつもの土曜日だった。
部屋に入ってベッドに倒れこんだ。天井を見ていると、白くなった指先が浮かんだ。アヤカの赤い目と、「二番目とか、向いてないんだよね」という声も。
本気で好きな人の前で、俺は自分がいちばん嫌いなやり方で、一人の部屋から逃げた。
夜になってアヤカにLINEを書いた。三回書いて、三回消した。何を書いても言い訳にしかならなかった。
*
日曜の朝、それでも俺は踏切へ行った。
十一月に入った踏切は少しずつ秋の色になっていた。土手の草が枯れはじめて、桜の葉が赤茶色に縮れている。遮断機の脇にミケはいなかった。
一枚撮って歩道橋を見上げた。
いた。
手すりにもたれて栞ちゃんが踏切を見下ろしていた。来ないかもしれない、と思っていた。来ないでほしい、とも少し思っていた。
階段を上がっていくと彼女はこっちを見ないまま言った。
「おはよう」
「おはよう」
しばらく二人で踏切を見下ろした。遮断機が下りて、急行が通りすぎて、また上がった。彼女は、葉の落ちかけた桜の木を見ていた。
「土曜の、朝の」と俺は言った。
「うん」
「あれは、その」
「説明しなくていいよ」彼女は言った。静かな声だった。「私に、何か言われる筋合いないでしょ」
「でも」
「よかったじゃん」
彼女は少しだけ笑った。
「一人の部屋に、帰らなくて済んだんでしょ」
合宿の夜、桟橋で俺が話したことだった。
何も言い返せなかった。彼女の言い方には皮肉も怒りもなかった。本当に、よかった、と思っているみたいな声だった。それが、いちばんこたえた。
「じゃあね」
いつもの、また明日、は言えなかった。言える顔を、していなかった。
彼女は手すりから離れて歩道橋の向こう側へ歩きはじめた。朝の光が線路の上からまっすぐに差していた。紺色のコートの背中が、その光の中を遠ざかっていく。
気がつくとカメラを構えていた。
ファインダーの中に彼女の背中があった。手すりと、線路の上の空と、光。そして、ひとりで歩いていく人。
人は撮らない。撮ったら、いつか、見られない写真になるから。
それでも、今この背中を撮らなかったら、この朝彼女がここにいたことさえどこにも残らない気がした。
シャッターを切った。
カシャ、という古い機械の音が、日曜の朝の静けさの中に思ったより大きく響いた。
彼女の足が、止まった。
振り返るかと思った。振り返らなかった。ほんの二秒くらい、その場に立ち止まって、彼女はまた歩きはじめた。階段を下りて線路の向こうの道へ消えていった。
俺はカメラを下ろした。手が、少し震えていた。四月の朝、踏切で思わずシャッターを切ったのとは違う。撮ると決めて人を撮ったのは、生まれて初めてだった。
*
残りのコマは月曜の朝に外濠の土手で使い切った。四限のあと、部室の暗室でフィルムを現像した。
次の日、歩道橋の一枚を焼いた。赤い安全灯の下で、白い印画紙にゆっくりと影が浮かんでくる。最初に、歩道橋の手すり。それから、線路の上の空。最後に、光の中を歩いていく紺色の背中。
*
木曜日はゼミの中間発表だった。教室の机を並べ替えて、それぞれが撮りためてきた写真を広げる。三年は前期からの途中経過を、四年は二月の作品展に向けた構成を見せることになっていた。
机を動かす前、栞ちゃんは窓際の席でクリアファイルから一枚の紙を出していた。四月の顔合わせの日に配られた、一年間の予定表だった。半年ぶんの折り目がついて角が少し丸くなっている。
彼女は手帳を開いて予定表と見比べてから、ペンのキャップを外した。表のいちばん下の欄に何かを小さく書きこんだ。書き終えると、しばらくその欄を見て、紙をクリアファイルに戻した。何を書いたのかは、ここからは分からなかった。
俺は四月から撮ってきた踏切の写真を二十五枚並べた。桜が満開の朝から、葉桜、梅雨の雨、夏草、枯れはじめた土手まで。同じ場所、同じ構図、同じ時間。季節だけが少しずつ変わっていく。
その列のいちばん最後に、一枚だけ違う写真を置いた。
歩道橋の上の、後ろ姿。
教室が静かになった。四年の長谷川さんが隣の誰かに「え、これって」と小声で言うのが聞こえた。
北条先生は二十五枚をひとつずつ見ていって、最後の一枚の前で足を止めた。
「芹沢くん」先生は言った。「人は入れないんじゃなかった?」
「写りこんだんじゃないです」と俺は言った。「撮りました」
先生は黙ってその写真を見ていた。
「顔が見えないのに、この人がどんな顔をしているか分かるね」
それだけ言って、先生は次の学生のほうへ歩いていった。いい写真だ、とは言わなかった。でもメモを取る先生の口もとがゆるんでいた。
佐伯は実家の酒屋の帳場を十五枚並べた。帳面の束と、古いそろばんと、伝票をめくる父親の太い指。四月の自己紹介で言っていた写真だった。
長谷川さんの商店街は、夏のあいだにシャッターが二枚増えていた。閉まった店の写真の横に、閉まる前の同じ店が並んでいた。長谷川さんは説明の途中で一回だけ声がつまって、ごまかすみたいに笑った。
栞ちゃんの番は最後だった。
机の上には、何も並んでいなかった。
「水無瀬さん、テーマは」
「決まりました」
教室がざわついた。六月にも、九月の合宿のときにも、まだテーマが決まっていなかった人だ。
「題は、『また明日』です」と彼女は言った。「写真は、二月に全部出します。今日は、題だけで、すみません」
また明日。
「楽しみにしてる」と北条先生は言った。
栞ちゃんは小さく頭を下げて座った。俺のほうは、一度も見なかった。
*
ゼミが終わると、彼女はいつものようにすぐに教室を出ていった。俺は追いかけた。階段の踊り場で彼女は立ち止まった。俺が追いつくのを待っていたみたいだった。
「撮られるの、苦手だって言ったよね」
振り向いた彼女の目は、怒っていた。四月から一度も見たことのない顔だった。
「ゼミのみんなの前で出すなんて、ずるいよ」
「……ごめん」
「人は撮らない主義なんじゃなかったの」
「撮りたかったから」と俺は言った。「撮らなかったら、あの朝が、どこにも残らないと思った」
彼女は何か言いかけて、やめた。唇を結んで、俺の顔を見ていた。怒っている顔が少しずつ別の顔に変わっていった。泣くのをこらえるときの顔に、どこか似ていた。
「顔は、だめ」
小さな声だった。
「え?」
「背中なら、いいよ」と彼女は言った。「背中なら、撮っていい。顔は、絶対にだめ」
それだけ言って彼女は階段を下りていった。今度は一本前の各駅停車には間に合わない時間だった。
俺は踊り場に立ったまま、今の言葉を頭の中で繰り返した。
背中なら、いい。
それが許可だと分かるまで、少し時間がかかった。
その夜、久しぶりに運命メモを開いた。十二個目の〈栞ちゃんが、笑わなかった〉の下に十三個目を書いた。
〈13 背中なら、いいって言われた〉
偶然じゃないことを書くのはこれで二回目だった。
アヤカとのトーク画面を開いた。もう一度だけ書いて、今度は消さずに送った。
〈おばあちゃん、よくなるといいね。この前は、ごめん〉
その夜のうちに既読はつかなかった。次の日の夜遅くになって、猫が手を振っているスタンプがひとつだけ返ってきた。怒っているのか許してくれたのか、スタンプだけでは分からなかった。




