第7章 ハッピーアイスクリーム
「言うなって言われたから、言わない」
九月の終わり、飲み会のあとのラーメン屋で俺は宣言した。カウンターの右に千夏、左に航。航は珍しく、美咲のバイトが終わるまでの時間つぶしについてきていた。
「言わないけど、やめない。態度で示す」
「それ、ストーカーの理論だぞ」と航が言った。
「違う。正々堂々としたストーカー」
「余計だめじゃん」千夏が麺をすすりながら言った。「てか律、合宿で何があったの。言わないでって、何を」
「言わない」
「うわ、めんどくさ」
千夏はれんげで俺の丼をつついた。油少なめのスープに小さな波が立った。
「まあでも、いいんじゃない」千夏は言った。「律がそんな顔で何かを宣言するの、初めて見たし。中途半端じゃないなら、私は怒らないよ」
「顔?」
「すっごい真面目な顔。胃、弱そうな顔」
航が吹き出して、カウンターの向こうで店員さんがまたこっちを見た。
*
十月一日の朝、四ツ谷駅の乗り換えの通路で紺のスーツの後ろ姿を見かけた。
栞ちゃんだった。腰まである髪をひとつに結んで、黒いパンプスで、まわりのスーツの人たちと同じ速さで歩いていく。今日は多くの会社の内定式の日だ。
声はかけなかった。彼女はこっちに気づかないまま、地下鉄の乗り場のほうへ歩いていった。何かを我慢するみたいに、まっすぐ前だけを見て。
次の木曜日のゼミで、栞ちゃんはいちばん奥の席でノートパソコンを開いていた。画面にはびっしりと字が並んでいた。
「卒論、もう書いてるんすか」
ゼミのあとで聞くと、彼女は画面から目を上げずに答えた。
「一月に出すから」
「まだ三か月以上あるじゃないすか」
「ちゃんと出さないと、先生が困るでしょ」
*
最初の偶然は、歌だった。
ゼミの帰りの電車で、たまたま同じ車両になった栞ちゃんのイヤホンから、小さく音がもれていた。聞き覚えのある、ソラニワというバンドの『明日の天気』という曲。その夜、千夏と行ったラーメン屋の有線で同じ曲が流れた。次の日、サークルのカラオケで一年の女の子が同じ曲を入れた。
二つ目は、言葉だった。
ゼミで北条先生が「さて」と言うのと同時に、栞ちゃんと俺がそろって「雨」と言った。窓の外でちょうど雨が降りはじめたところだった。教室じゅうが笑って、栞ちゃんは耳まで赤くなって下を向いた。
三つ目は、猫だった。
十月に入ってから、日曜の朝に踏切へ行くと、遮断機の脇に三毛猫が座っているようになった。右の耳の先が少し欠けている。人に慣れていて、しゃがむと俺のスニーカーに額をこすりつけてきた。
踏切の向かいの家のおばあさんが毎朝えさをやっているらしい。「このへんを回ってる子でね。秋になると、ここに来るのよ」とおばあさんは言った。それでも、俺が撮りに来る時間に三週続けて同じ場所に座っているのは、なんだか出来すぎている気がした。
そんなことを、スマホのメモに書きつけていた。
〈運命メモ〉
〈1 『明日の天気』、三日連続〉
〈2 栞ちゃんと同時に「雨」〉
〈3 三毛猫(右耳欠け)、日曜の朝、三週連続で同じ時間に遮断機の脇〉
十月の終わりが近づくころには、メモは十個を超えていた。
「数えてるのがキモい」
メモを見せると千夏は一言で切り捨てた。
「キモくない。記録だよ。写真と一緒」
「写真と一緒にしないでよ、写真がかわいそう」千夏は俺のスマホをひったくって画面をスクロールした。「てか、この猫。えさもらってるんでしょ? 猫なんて、毎朝同じ時間に同じとこにいるもんだよ」
「でも、俺が行く時間ぴったりなんだって」
「律が毎週同じ時間に行くからでしょ」
「名前もつけた。運命」
「猫に重い名前つけないで。ミケにして」
「運命」
「ミケ」
横で航が「お前ら、小学生か」と頭を抱えていた。
*
その週の日曜の朝、踏切で一枚撮り終えると遮断機の脇にミケが座っていた。いや、運命が。
しゃがんで指を出していると頭の上で足音がした。見上げると、歩道橋の階段を栞ちゃんが下りてくるところだった。
五月からずっと、彼女は歩道橋の上で、俺は下だった。
「その子」
「ミケ。じゃなくて、運命。千夏はミケって呼ぶけど」
「重い」
栞ちゃんは小さく吹き出した。俺から少し離れてしゃがみこんで、そっと猫に手を伸ばした。
「ミケ」
運命、のほうは呼ばれなかった。猫はにおいをかいで、それから彼女の手のひらに自分から頭をこすりつけた。
「人なつっこいんだよ、こいつ」と俺は言った。「初めて会った人にも、こうなんだ」
「そうなんだ」
栞ちゃんは猫の欠けた右耳を、指先でそっとなでた。猫は目を細めて、されるままになっていた。
遮断機が鳴りはじめると猫はさっと土手の草むらへ消えていった。栞ちゃんは立ち上がって膝の砂を払った。踏切の赤いランプが交互に彼女の横顔を照らしていた。
「また明日」
「じゃあね」
彼女はまた歩道橋を上がっていった。
*
千夏がボウリング大会をやると言いだしたのは、その週末のことだった。サークルの秋の恒例行事らしい。新宿のボウリング場でレーンを五つ押さえて、二十人くらいをくじ引きで分ける。サークルの人間じゃなくても友達なら誰を呼んでもいい。
千夏はそのころ、冬のインターンの面接を三つ抱えていた。それなのにボウリング場に電話してレーンを押さえて、二十人分の靴のサイズをLINEで集めて、ティッシュの空き箱でくじの箱まで作っていた。
「面接の前の週は、何か別のことしてないと無理なの」と千夏は言った。「考えすぎて、志望動機が全部『食べることが好きだから』に戻っちゃう」
「水無瀬さんも呼んだから」
千夏はさらっと言った。
「は?」
「来るって。あと航くんと、航くんの彼女も」
「なんで航まで」
「人数合わせ」千夏は笑った。「勘違いしないでよ。私は水無瀬さんと遊びたいだけ。律のためじゃないから」
当日、ボウリング場のロビーに、紺色のパーカーを着た栞ちゃんが立っていた。四年生の先輩が二十人の三年と二年に囲まれて、居心地が悪そうにしていた。俺と目が合うと彼女は小さく会釈をした。
くじ引きの箱が回ってきた。俺は「7」を引いた。
「7番レーンの人ー」と千夏が叫んだ。
手を挙げたのは、俺と、航と、航の彼女の美咲ちゃんと。
それから、栞ちゃんだった。
栞ちゃんは自分のくじを見下ろして、千夏のほうを見た。千夏は両手を挙げて首をぶんぶん横に振った。
「いじってない! ほんとにいじってないからね!」
航が「運命メモ、十一個目だな」と小声で言った。
*
栞ちゃんはびっくりするくらいボウリングが下手だった。一投目、ボールは彼女の手を離れた瞬間に右へ曲がって、そのまま溝に落ちた。二投目は左に落ちた。三投目はまっすぐ転がったと思ったら途中で失速して、ピンの手前でほとんど止まりかけた。
「栞ちゃん、それ全部ガター」
「うるさい」
「投げ方が、なんかこう、ボールを置いてる」
「うるさい。見ないで」
美咲ちゃんが「水無瀬さん、かわいい」と笑い、航が「律、先輩にうるさいって言われてるぞ」と笑った。栞ちゃんは頬をふくらませて次のボールを両手で抱えた。
自分の番を待つあいだ、美咲ちゃんは栞ちゃんの隣に座ってずっと話しかけていた。高校の文化祭で、航が迷子の呼び出しの放送をかけられた話。航の部屋のカーテンが中学のときから同じ柄だという話。栞ちゃんは「そうなんだ」と言いながら、ときどき航のほうを見て口もとをおさえていた。
「ぜんぶ嘘です」と航がレーンから言った。
「ぜんぶほんとです」と美咲ちゃんが言った。
航と美咲ちゃんが会うのは二週間ぶりらしかった。美咲ちゃんはずっと笑っていたけれど、航がスマホでインターンの連絡を確かめるたびに、ほんの少しだけ口をとがらせていた。航はそれに気づいていて、気づかないふりをしていた。
四フレーム目の一投目だった。
栞ちゃんのボールはやっぱり右へ曲がりかけた。また溝だ、と全員が思った。ところがボールは溝のふちをぎりぎりでなぞって、レーンの端からゆっくり中央へ戻ってきた。そのままピンのど真ん中に吸いこまれた。
十本、全部倒れた。
一瞬、7番レーンが静まり返った。
「……あ」
「あ、ストライク」
栞ちゃんと俺の声が、ぴったり重なった。
俺は反射的に叫んでいた。
「ハッピーアイスクリーム!」
栞ちゃんがきょとんとした顔で俺を見た。
「なにそれ」
「知らないの? 同時に同じこと言ったら、先にハッピーアイスクリームって言ったほうが、アイスおごってもらえるんだよ。じいちゃんに教わった」
「なにそれ、小学生」
「小学生のときの決まりは、一生有効なんだよ」
「ずるい。今のは私のストライクなのに」
そう言った栞ちゃんの口もとがふるふる震えていた。こらえているのが分かった。分かったから、俺はもう一回言った。
「ハッピーアイスクリーム」
栞ちゃんが、吹き出した。
両手で口を押さえても止まらなかった。肩を震わせて、彼女は笑った。声を出して笑った。「ばかじゃないの」と言いながら、まだ笑っていた。
四月から半年、この人が声を出して笑うのを、俺は初めて見た。
美咲ちゃんが「え、そんなにうける?」と目を丸くし、航が腹を抱えて笑い、隣のレーンから千夏が「なになに、何があったの」と駆けてきた。
笑いがやっとおさまったとき、栞ちゃんはひとつ息をついて、俺の前に手のひらを出した。
ハイタッチだと気づくのに、二秒かかった。
俺が手を合わせると、ぱちん、と小さな音がした。
人ひとり分の隙間が、そのときだけ、なくなった。
航が俺の背中を叩いて、耳もとでささやいた。
「お前、今、すげえいい顔してるぞ」
知ってる、と言いかけてやめた。たぶん栞ちゃんも同じ顔をしていたから。
ゲームが終わってシューズを返しに行くと、千夏が隣に並んで小声で言った。
「ごめん。くじ、いじった」
「は?」
「7番だけ、四枚とも先に抜いといた。律と水無瀬さんと、航くんたちの分」千夏は両手を合わせた。「運命メモ、ノーカンでお願い」
「お前さあ……」
「でも、見たでしょ。水無瀬さんが、あんなふうに笑ったとこ」千夏はにっと笑った。「いじった甲斐、あったよ」
怒る気にはなれなかった。
*
ボウリング場を出ると新宿の夜は少し肌寒かった。二次会のカラオケへ流れていく集団から離れて、俺と栞ちゃんは駅まで歩いた。同じ電車だから、という理由で。
栞ちゃんの手にはコンビニで買ったアイスのカップがあった。俺がおごった。ハッピーアイスクリームは俺の勝ちだったのに、なぜか俺がおごることになった。
コンビニの冷凍ケースの前で、栞ちゃんはバニラとチョコのあいだで少し迷って、いちばん安いバニラを取った。おごりなんだから高いのにすればいいのに、と言ったら、これがいちばん好きなの、と言った。
「今日、楽しかった」
栞ちゃんがアイスの木のスプーンをくわえたまま言った。
「よかった」
「千夏ちゃんに、お礼言っておいて」
「自分で言いなよ」
「うん。そうする」
信号待ちで俺はポケットからスマホを出した。今日のことを書いておこうと思った。
「何してるの」
「運命メモ」
「なにそれ」
「今日のくじ。……は、千夏のしわざだったから、ノーカンだけど」
画面を見せると、栞ちゃんは首をかしげて、俺の手からスマホを受け取った。
〈11 ボウリング、くじで同じレーン(←千夏のしわざ。ノーカン)〉
「ノーカン」のところで彼女の口もとがゆるんだ。指が画面を上へスクロールしていった。
〈10 栞ちゃんと、学食の同じ自販機で、同じホットのレモンティー〉
〈9 帰りの電車、栞ちゃんと同じ車両(今月三回目)〉
〈8 ミケ(運命)、四週連続〉
〈……〉
〈1 『明日の天気』、三日連続〉
彼女の指が、止まった。
「十月に入ってから、十回」と俺は言った。「これ、運命じゃない?」
さっきまでと同じ調子で言ったつもりだった。笑ってもらえると思っていた。ばかじゃないの、と言って。
栞ちゃんは、笑わなかった。
スマホの画面を見下ろしたまま、彼女は黙っていた。信号が青に変わってまわりの人たちが横断歩道を渡りはじめても、彼女は動かなかった。
「全部、ちゃんと書いてあるんだね」
「記録だから。写真と一緒」
「そっか」
彼女はスマホを俺に返した。指先が、冷たかった。
「運命じゃないよ」と彼女は言った。それから信号のほうを向いた。青が点滅しはじめていた。
「律くん。それ、数えるの、やめたほうがいいよ」
「なんで」
「数えても、いいことないから」
そう言って、彼女は点滅する横断歩道を小走りで渡っていった。俺は、渡りそこねた。赤に変わった信号の向こうで、紺色のパーカーが人ごみにまぎれていく。
さっきまであんなに笑っていたのに。
電車の中でも栞ちゃんはずっと窓の外を見ていた。俺が何か言っても「うん」としか言わなかった。乗り換えの駅で、彼女は「先に行くね」と言って一本前の各駅停車に乗った。
律くん、と呼ばれたのは、七月以来だった。
家に帰って俺は運命メモを開いた。やめたほうがいい、と言われた。でもやめる理由が分からなかった。少し迷ってから、十二個目を書いた。
〈12 栞ちゃんが、笑わなかった〉
書いてから、それは偶然じゃないな、と思った。偶然じゃないことを、運命メモに書いていた。
消そうか迷って、結局、消さなかった。




