第6章 霧の桟橋
八月の最後の日曜日、歩道橋の上に紺色がいた。
踏切の写真を一枚撮っていつものように見上げたときだった。手すりにもたれて栞ちゃんがこっちを見下ろしていた。五月と同じ場所、五月と同じ姿勢。
手を振ると彼女は少しだけ手を上げて、歩道橋の向こう側へ降りていった。話しかける間もなかった。それだけのことで、その日はずっと何をしていても機嫌がよかった。航に電話でそう話したら「中学生かよ」と笑われた。
その前の週に、花火のフィルムを部室の暗室で現像していた。
俺のネガには光の線ばかりが並んでいた。赤、緑、金。その中に一コマだけ、色のない白い菊があった。少しだけ、ブレていた。シャッターを開けているあいだに、三脚の脚をどこかで蹴ったのかもしれない。
今年もブレた、と祖父なら笑ったと思う。
*
北条ゼミの夏合宿は九月の最初の週だった。長野の山あいの湖のほとりにある古い民宿を二泊三日で借りる。毎年の恒例で、昼は撮影、夜は講評会、そのあとは宴会。四年にとっては二月の作品展に向けた最後の合宿になる。
行きのバスで栞ちゃんはいちばん前の窓際に座った。俺はいちばん後ろで三年の男子たちとトランプをしていた。途中のサービスエリアで休憩したあと、栞ちゃんはコンビニの袋を二つ提げて戻ってきた。
「三年生に、差し入れ」
そう言って前の席から順番にお菓子を配っていく。後輩に気をつかわせない、さりげない配り方だった。北条先生まで「ありがとう」と一つ受け取っていた。
最後列まで来ると、彼女は佐伯たちにチョコの袋を渡して、俺の手のひらにはお菓子ではない小さな箱をのせた。
胃薬だった。
「どうせ、夜、飲むでしょ」
三年の男子たちが爆笑した。「芹沢、見抜かれてる」「先輩に介護されてる」。俺は何も言い返せなかった。
栞ちゃんはもう前の席に戻っていて、窓の外を見ていた。山の緑が窓ガラスに映って流れていく。その横顔が笑っているように見えた。
民宿に着くと北条先生がロビーにみんなを集めた。
「今回の課題を発表します」先生はいつもの穏やかな声で言った。「人を一人、撮ってください。風景の一部としてじゃなく、その人を撮る。ペアを組んで、お互いを撮り合うこと。ペアはくじで決めます」
ロビーが少しざわついた。俺は思わず天井を見た。人を撮る課題。よりによって、いちばん苦手なやつだ。
くじは先生の帽子の中に入っていた。三年と四年が一枚ずつ引いて、同じ番号の人がペアになる。俺の紙には「4」と書いてあった。
「4番の四年は?」
先生の声に窓際で小さく手が上がった。
栞ちゃんだった。
彼女は自分の紙を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。隣にいた四年の長谷川さんに小声で何か言った。
「え、交換? 無理無理、私もう佐伯くんと組むって決まっちゃったし」長谷川さんは笑って手を振った。「てか、水無瀬さんが芹沢くんと組むの、面白いじゃん」
「そうだね」
栞ちゃんは小さく息を吐いて紙を握りしめた。
「芹沢くんは人を撮らない。水無瀬さんは撮られない」北条先生が名簿に書きこみながら言った。四月の集合写真で彼女だけがカメラを持つ側に回ったことを、先生は覚えていたらしい。「いいペアだね。二人とも、ちょっとだけがんばってみて」
その夜、同じ三年の佐伯に聞いた。水無瀬さんは去年のゼミでは、先生にいちばん質問していた人だったらしい。今年は、まだ一回も手を挙げていない。テーマも決まっていない。花火の夜に聞いた「冬に」という言葉が、ぼんやり浮かんだ。
*
二日目の朝、湖には薄い霧がかかっていた。ペアごとに分かれて撮影に出る。
俺と栞ちゃんは湖のまわりの遊歩道を、黙って半周ほど歩いた。
お互いにカメラを相手に向けなかった。俺は湖面と木立と、桟橋の杭を撮った。人はいない。いつもどおりだ。栞ちゃんは小さな使い捨てのフィルムカメラを首から下げていた。
「カメラ、持ってたんだ」
「課題だから」
「何撮るの」
「まだ、決めてない」
四月の自己紹介と同じ答えだった。撮りたいものは、今は特にない。
「芹沢くんは、課題どうするの」
七月には律くんと呼んでいたのに、四月の呼び方に戻っていた。
「湖撮って、端っこに栞ちゃんが豆粒くらいに写ってたことにする」
栞ちゃんがふっと吹き出した。
「それ、先生に怒られるよ」
「だよね」
しばらく歩いてから俺は聞いた。
「栞ちゃん、文芸サークルだったんでしょ。小説とか書いてたの?」
「書いてた」
「どんなの」
「最後まで書けたのは、一本だけ」と彼女は言った。「あとは全部、途中でやめちゃった」
「その一本は、どんな話?」
彼女は少し考えて、首を振った。
「内緒」
「えー」
「芹沢くんが、人を撮れるようになったら教えてあげる」
それはたぶん一生教えてもらえないってことだ。そう言うと彼女は「かもね」と笑った。湖の上で霧がほどけていった。
霧が晴れはじめて湖の向こうの山が少しずつ姿をあらわした。桟橋の先まで歩いて、俺はしゃがんで水面を撮った。
そのとき、後ろで小さな音がした。
カシャ、という、俺のカメラよりずっと軽い音。
振り向くと、栞ちゃんは桟橋の手すりにもたれて湖の向こうを見ていた。首から下げた使い捨てカメラは胸の前で静かにぶら下がっている。
「今、撮った?」
「湖」
彼女は湖のほうを見たまま言った。
俺は湖のほうを見た。俺がしゃがんでいた場所から見えたのと同じ景色だった。たぶん。
*
夜の講評会では、それぞれがその日に撮ったものを、デジカメやスマホの画面で見せ合った。フィルムで撮っている俺と栞ちゃんは口で説明するしかない。
「芹沢くん、人は?」
北条先生に聞かれて俺は正直に答えた。
「まだ撮ってないです。湖と、桟橋と、木だけ」
「水無瀬さんは?」
「現像してから、出します」
先生は二人の顔を見比べて何も言わずにうなずいた。怒られるかと思ったのに、なぜか少しうれしそうだった。
講評会の最後に先生は自分の話をした。
「新聞社にいたころね、事故の現場で、人を撮るのが怖くなった時期があったんだよ」先生は民宿の湯のみを両手で包んでいた。「撮ったら、その人がそこにいたことに責任が生まれる。でも撮らなかったら、その人がそこにいたことさえ、どこにも残らない。だから、この課題を毎年出してる。まあ、無理に撮らなくてもいいけどね」
最後の一言で何人かが笑った。俺は笑えなかった。向かいの席で栞ちゃんも笑っていなかった。
講評会のあとは宴会になった。民宿の大広間に長机を並べて先生も一緒に飲む。こういう場は俺の得意分野だ。乾杯の音頭を取って、四年の先輩たちのグラスが空かないように目を配って、三年の男子をいじって笑わせる。誰かが話の輪からこぼれそうになったら、さりげなく話を振る。いつものように輪の真ん中にいた。佐伯は酒屋の息子だから強いんだと言って、先生がつぐ日本酒を一杯も断らなかった。
ふと顔を上げると、広間の隅で栞ちゃんがこっちを見ていた。
笑っていなかった。ジュースのコップを両手で持って、まるで遠くの景色を見るみたいに俺のほうを見ていた。優しいのに、なぜか、ひどく悲しそうな顔だった。
目が合うと、彼女は立ち上がって広間を出ていった。
俺は十分くらい、笑ったりしゃべったりしていた。何を話したのかはほとんど覚えていない。いつもより飲んでいた。昼間の課題のことも先生の話も、さっきの悲しそうな顔のことも、酔ってしまえば考えずに済む気がしていた。トイレ、と言って俺も広間を抜けだした。
*
彼女は湖の桟橋にいた。民宿の裏から細い道を下りたところだった。九月の夜の湖は思っていたより冷えた。空には、東京では見たことがないくらいの星が出ていた。
桟橋の先に座って彼女は膝を抱えていた。俺は人ひとり分あけて隣に座った。
「さっき、楽しそうだったね」と彼女は言った。
「楽しいよ」
「本当に?」
少し黙ってから、俺は答えた。
「……楽しいふりは、得意だから」
言ってから、しまったと思った。そんなことを誰かに言うつもりはなかった。でも、なぜか止まらなかった。
「中学のときさ」と俺は言った。「クラスで、無視されてたんだよね」
栞ちゃんは何も言わなかった。顔も上げずに、ただ聞いていた。
「中二の秋。きっかけは、ほんとに小さいこと。クラスでいちばんえらいやつの誘いを、一回断っただけ。次の日から、誰も俺と目を合わせなくなった。話しかけても、聞こえてないみたいに通りすぎていく。給食の班でも、俺のとこだけ机がちょっと離れてた。殴られたりはしてない。物を隠されたりもしてない。ただ、いないことにされた」
湖の上を冷たい風が渡っていった。
「四十人いる教室の真ん中で、一人なんだよ。あれ、けっこうきつくてさ。冬になったら、朝、玄関で靴が履けなくなった」
栞ちゃんの肩が少しだけ揺れた。
「そしたら、じいちゃんが、毎朝、河原に連れ出してくれてさ。理由は、一回も聞かなかった」
「隣のクラスの航だけが、廊下で普通に話しかけてきた。何も知らないふりして、昨日のテレビの話とかして。あいつがいなかったら、たぶん中三になっても戻れなかった」
星がひとつ流れた。どちらもそれには何も言わなかった。
「高校は、目立たないようにしてた。大学に入って、最初の夏休みが明けたとき、決めたんだよね。もう二度と、一人にならないって。にぎやかなとこにいて、軽いやつだと思われてれば、誰かが必ず隣にいる。一人の部屋に帰らなくて済む」
「だから、誰のことも本気にならなかった。本気になって、その人がいなくなったら、また教室の真ん中で一人になる気がして」
隣で、栞ちゃんが息を止めたのが分かった。
見ると、彼女の顔は、星明かりの下で真っ白だった。膝を抱えた指先が、腕に食いこむくらい強く握りしめられていた。
「……話してくれて、ありがとう」
彼女はやっとそれだけ言った。声が震えていた。
「誰かに話したの、初めてかも。航以外で」
「うん」
彼女はうつむいて膝に額をつけた。泣いているのかどうかは、暗くて分からなかった。
俺は星を見上げた。胸の奥のほうがさっきまでよりずっと軽くなっていた。言ってしまえばこんなに簡単なことだったのか、と思った。だからその続きも簡単に言える気がした。
「でもさ」と俺は言った。「栞ちゃんのことは——」
「言わないで」
彼女が顔を上げた。
濡れた目が、まっすぐに俺を見ていた。
「お願い。それだけは、言わないで」
「……なんで」
「言われたら、私——」
彼女はそこで唇を噛んで、言葉を飲みこんだ。それから、もう一度、ゆっくり言い直した。
「好きにならないでって、言ったよね。四月に」
「頼まれただけで、約束はしてない」
「じゃあ、もう一回、頼む」
彼女は立ち上がった。桟橋の板が小さくきしんだ。
「言わないで。今日だけじゃなくて、ずっと」
そう言って彼女は桟橋を戻っていった。民宿の明かりのほうへ。
俺は桟橋の先に一人で残された。
言いかけた言葉は行き場をなくして、喉の奥に引っかかったままだった。冷たい湖の上を風だけが何度も渡っていった。
一人になるのはあんなに怖かったはずなのに。そのときの俺は、一人で残されたことより彼女が一人で戻っていったことのほうが、ずっと気になっていた。
部屋に戻ると宴会はもう終わっていて、佐伯たちは布団の上で寝息を立てていた。俺は窓際の椅子に座って暗い湖を見ていた。カメラを手に取ってフィルムカウンターを見る。湖と桟橋と木。今日撮ったものの中に、人は一人もいない。
人を一人、撮ってください。先生の声を思い出した。
撮りたい人なら、いた。撮ってはいけない人だった。
それでもファインダーの向こうに彼女がいたらと考えるのを、俺は止められなかった。
*
三日目の朝、廊下の洗面所の前に佐伯がしゃがみこんでいた。夜中からずっと吐いていたらしい。その隣に栞ちゃんがいた。片手にタオルを持って、もう片方の手で佐伯の背中をゆっくりさすっていた。
俺はなんともなかった。ゆうべ寝る前に、もらった胃薬を飲んでいた。
栞ちゃんは俺に気づくと、何事もなかったみたいに「おはよう」と言った。朝ごはんの席でも帰りの支度のときも、四月からと同じ距離で。
出発の前、佐伯は青い顔で民宿のロビーのソファに沈んでいた。リュックから胃薬の箱を出して、二錠だけ押し出して渡した。佐伯は拝むみたいにそれを受け取って、水なしで飲もうとして長谷川さんに止められた。
箱はリュックの内ポケットに戻した。
帰りのバスで、彼女はまたいちばん前の窓際に座った。サービスエリアで休憩したあと、トイレから戻る途中で前の席の横を通りかかった。彼女は窓にもたれて眠っていた。膝の上にあの使い捨てカメラを両手で抱えて。
フィルムの残りを示す小さな窓が上を向いていた。
残り、三枚だった。
撮りたいものはまだ決めていない、と彼女は言った。それなのに二十七枚撮りのフィルムは、ほとんど残っていなかった。
聞けないまま、バスは東京へ向かって走り続けた。言わないで、と頼まれた言葉と一緒に、その疑問も俺の中にしまいこまれた。




