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ハッピーアイスクリーム  作者: 成瀬ルイ
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第5章 白い花火

 夏休みに入ると栞ちゃんに会う理由がなくなった。

 ゼミは九月まで休みだ。木曜日の帰り道も分かれ道までの十分間も、もうない。会えるのはLINEの中だけだ。

 七月の終わりに一度だけ〈夏休み、何してるんすか〉と送ってみた。次の朝、既読がついていた。返事は来なかった。

 既読だけがついた画面を、何度か開いては閉じた。四月の〈今日はいろいろすみませんでした〉にも七月の一言にも、同じ小さな「既読」の字がついている。もう一通送れば、たぶんまた既読だけがつく。それがなぜか前より怖かった。

 〈踏切の夏草、すごいことになってます〉と打って、消した。〈新宿、暑すぎっす〉と打って、消した。送らなかった下書きのほうが、送った一行よりずっと多くなっていった。

 日曜の朝は変わらず踏切へ行った。ゼミのテーマの「踏切の一年」は夏休みでも休めない。同じ場所に立って、同じ構図で一枚だけ撮る。

 七月の踏切は四月とはまるで別の場所みたいだった。土手は背の高い夏草に埋まって、桜の木は濃い緑のかたまりになっている。線路の上の空気が熱でゆらゆら揺れていた。遮断機の黄色と黒だけが四月と同じ色をしていた。

 ファインダーをのぞきながら、四月の朝、遮断機のすぐ前に立っていた紺色の背中を思い出すことがある。あのとき彼女は何を見ていたんだろう。

 撮り終えるとつい歩道橋を見上げてしまう。五月のあの日、手すりにもたれて踏切を見下ろしていた紺色は、七月の終わりになっても、一度も現れなかった。


   *


 七月の最後の週末はサークルの海合宿だった。合宿といってもラケットを持ってきたやつは一人もいない。九十九里の民宿を二晩借りて、昼は海で騒ぎ、夜は浜で飲む。それだけの二泊三日だ。去年までの俺なら、いちばん騒いでいた側だった。

 一日目の昼、パラソルの下でアヤカが、お盆は帰らないと言った。

「居酒屋、お盆がいちばん忙しいから」アヤカは少し得意そうに言った。「おばあちゃんには、電話する」

 二日目の夜、浜辺の花火が終わってみんなが民宿へ引きあげていくなか、俺は砂の上に座ったまま暗い海を見ていた。

「律」

 隣に千夏が缶チューハイを二本持って座った。一本を俺の手に押しつける。

「今回、全然はしゃがないじゃん。アヤカちゃん、すねてたよ」

「そう?」

「そうだよ。昨日の夜も、女の子に囲まれてるのに、ずっとスマホ見てたでしょ。見ても、何も来ないのに」

 図星だった。来るはずのない通知を俺は何度も確かめていた。

「水無瀬さんのこと、本気なの?」

 千夏は前を向いたまま聞いた。波の音が、少しだけ大きくなった。

「……分かんない」

「分かんない、か」

「本気になったことないから。本気って、どういう感じなのか分かんない」

 千夏はふっと笑った。

「律が誰かのこと考えてぼーっとしてるの、初めて見たよ。一年のときから一緒にいて、初めて」

 缶を開けるとぷしゅ、と小さな音がした。

「一年の春さ」と千夏は言った。「私、律のこと、ちょっといいなって思ってたんだよ」

「……は?」

「新歓で、隅っこで黙ってた律。写真の話のときだけ、目がちゃんとしてて」千夏は缶を両手で持って海のほうを見た。「でも夏休み明けたら、急にチャラくなってたから、やめた。今は全然。安心して」

 何て言えばいいのか分からなかった。千夏は俺の顔を見て吹き出した。

「そんな顔しないでよ。二年も前の話だって。今は、それより内定のほうが大事」

 千夏はチューハイを一口飲んでから言った。

「私さ、水無瀬さんのこと好きだよ。あの人、ちゃんとした人だと思う。だから」

 千夏はそこで言葉を切って、缶を砂の上に置いた。

「律が中途半端なことするなら、私、怒るからね」

 いつもの軽い口調だった。でも、目は笑っていなかった。

「中途半端って、何」

「好きなのか分かんないまま、近づいたり離れたりするやつ。律の得意なやつ」

 言い返せなかった。千夏は立ち上がってジーンズの砂を払った。

「先戻ってる。あんまり飲みすぎないでね。胃、弱いんだから」

 千夏の足音が遠ざかって、浜には波の音だけが残った。

 その夜、民宿の廊下の隅で航に電話をかけた。航はサークルには入っていない。電話の向こうでテレビの音が小さくなった。

「本気になるって、どうやって分かんの」

 いきなり聞くと、航は少し黙ってから笑った。

「お前がそれ聞く日が来るとはな」

 航の声はいつもより少し疲れていた。

「なんかあった?」

「美咲と、ちょっと揉めてる」航は言った。「将来どうするのって。卒業したら一緒に住むのか、とか。俺、まだ就活も始まってないのに、答えられなくてさ。黙ってたら、余計に怒られた」

「それ、俺に相談して大丈夫なやつ?」

「お前に相談するわけないだろ」航は笑った。「で、なんだっけ。本気の話か」

「真面目に聞いてる」

「分かってるよ」航は言った。「お前さ、あのカメラ、一回も買い替えたことないだろ。踏切も、毎年同じとこから撮ってるし」

「それが何」

「別に」航は笑った。「自分で考えろよ。俺、今から美咲に電話かけ直さなきゃいけないから」

 電話はそれで切れた。廊下の窓から暗い海を見た。一度も買い替えたことのないカメラ。毎年同じ場所から撮る踏切。航が何を言いたいのか分かるような気がした。分かりたくない気もした。


   *


 八月に入っても、バイトは週に五日入れた。家にいてもやることがなかった。

 朝は坂のてっぺんの駅のホームのいちばん端に立って、各駅停車を待つ。線路の上の空気はもう朝から揺れていた。新宿の西口の古いビルの一階で、昼から夜までガラスケースのカメラを磨く。店長はラジオで高校野球を聞いていて、九回の裏になると、ラジオに向かってこぶしを握っていた。

「芹沢くん、夏休みなのに、よく来るねえ」

「フィルム代っす」

 嘘ではなかった。フィルムは一本二千円を超える。バイト代の半分はフィルムに消えて、もう半分は去年までなら飲み代に消えていた。今年の夏は、その半分が少しずつ残っていった。

 夜に帰ると、母がパートでもらってきた惣菜を温めなおしてくれた。居間では父が野球のニュースを見ていて、俺が入っていくと音をひとつ下げた。

 ある晩、バイトの帰りに坂のてっぺんの駅で降りて、駅前のコンビニに寄った。店の前の自販機の横には誰もいなかった。麦茶を一本買って、分かれ道まで歩きながら飲んだ。ふだん麦茶なんか買わない。分かれ道で、線路から離れていく道のほうを一回だけ見た。分かれ道までは、やっぱり十分だった。

 家に着いて、壁のカレンダーを見た。木曜日だった。


   *


 お盆になると家の仏間に盆棚が組まれる。母が毎年きゅうりとなすで馬と牛をつくって、棚の前に並べる。迎え火を焚く十三日の夕方、俺は棚の飾りつけを手伝わされた。父は玄関の前でしゃがんで、黙っておがらに火をつけていた。父が祖父の話をするのを、俺はこの三年、一度も聞いたことがない。

 仏間に入るとき、俺はいつも少しだけ目を伏せる。棚のいちばん上に祖父の遺影がある。三年前の春、病院のベッドの上で「これを使え」と本人が指定した、六十代のころの写真だ。カメラを首から下げてまぶしそうに笑っている。

 その顔を、俺は三年間まっすぐ見たことがない。

「律、ちょっと。その提灯、もう少し右」

「ここ?」

「そう。おじいちゃん、律がそっぽ向いてばっかりだから、さみしがってるよ」

 母は冗談のつもりで言ったのだと思う。俺は笑って提灯の位置を直した。遺影のほうは、やっぱり見られなかった。

 送り盆の日、出かけようとして玄関で靴をはいていると、母が虫よけのスプレーを持って台所から出てきた。河原は蚊がすごいんだから、と言って、俺の腕と首にしつこいくらい吹きつけた。

「おじいちゃん、今夜帰っちゃうんだからね。ちゃんと見送ってきて」

「花火見るだけだよ」

「おじいちゃんも、毎年そう言って出てった」と母は言った。


   *


 この町の花火大会は昔から送り盆の夜にある。多摩川の河原で町内会が打ち上げる、二千発ほどの小さな花火大会だ。土手には屋台が並び、河原の砂利の上に近所の人たちがブルーシートを広げる。祖父に言わせると、もともとは川で亡くなった人を送るための花火だったらしい。本当かどうかはやっぱり確かめないうちに、祖父は死んだ。

 この花火大会にはひとつ変わったところがある。町内会のテントで申しこむと、短いメッセージを一発の花火に添えてもらえるのだ。打ち上げの前にアナウンスの人がそれを読み上げる。「おばあちゃん、米寿おめでとう」とか「たっくん、一歳の誕生日おめでとう」とか。ときどき「天国のお父さんへ」というのも混じる。

 中学二年の冬、学校に行かなくなった俺を祖父は毎朝この河原へ連れ出した。理由は一度も聞かなかった。カメラを俺の首にかけて「撮りたいものが見つかるまで、ここで待ってればいい」とだけ言った。川と空と、遠くの鉄橋。人のいないものばかり撮っていた俺の写真を、祖父は一枚残らず褒めた。

 その祖父と毎年この花火を、土手のいちばん上から見た。祖父は花火を撮るのがへたで、毎年「今年もブレた」と笑っていた。死んでからは俺がひとりで三脚を立てて撮っている。人のいない、夜空と光だけの写真を。

 八月十六日の夕方、俺は三脚とカメラを担いで土手を上がった。いつもの場所に三脚を立てた。打ち上げまでまだ三十分ある。河原には浴衣の子どもや腰の曲がったおばあさんや、缶ビールを手にした家族が集まりはじめていた。

 打ち上げの前に飲み物を買っておこうと俺は土手を下りた。町内会のテントの横で氷水に浸かったラムネを売っている。列に並ぶと、すぐ前の長机でメッセージの用紙に何かを書いている人がいた。

 紺色の浴衣ではなかった。いつもの紺色のワンピースだった。栞ちゃんだった。

 俺には気づいていなかった。書いては手を止め、また書く。最後に、彼女は用紙のいちばん下の名前を書く欄の上で、長いこと筆ペンを止めていた。ペン先をつけようとしては、離す。それを何度か繰り返してから、彼女は結局、何も書かずに用紙を受付の人に渡した。

 名前の欄は、空白のままだった。

 彼女はそのまま河原のほうへ歩いていった。声をかけそびれて、俺はラムネを一本だけ買って土手の上に戻った。


   *


 七時半ちょうどに最初の一発が上がった。腹の底に響く音がして夜空に赤い大輪が開く。河原のあちこちから歓声が上がった。続けて緑、金、銀。三脚のシャッターを開けたまま、俺は光の軌跡がフィルムに焼きついていくのを待った。

 二十分ほど過ぎたころ、アナウンスの声が低くなった。

『続きまして、匿名の方からのメッセージです』

 河原のざわめきが、ほんの少し静かになった。

『冬にいなくなった、あなたへ。ありがとうって、言えなくて、ごめんね』

 ひゅう、と細い音がのぼっていった。

 夜空に開いたのは、白い花火だった。色のない、たった一輪の白い菊。ほかの花火よりずっと長くゆっくりと光の糸を垂らして、それから静かに消えていった。

 俺は土手の下を見た。

 テントから少し離れた人の少ない河原の端に、栞ちゃんが立っていた。空を見上げていた。

 泣いていた。

 声は出していなかった。肩も震えていなかった。ただ、次の花火が上がるたびにその光に照らされて、頬の上を光るものがすべり落ちていくのが見えた。拭おうともしないで、彼女は白い花火が消えたあとの夜空をずっと見上げていた。

 俺は三脚からカメラを外して、持ち上げかけて、やめた。

 人は撮らない、と決めているからじゃなかった。この顔は、撮ってはいけないと思った。

 三脚をそのままにして俺は土手を下りた。足音は花火の音にかき消された。すぐそばまで行って、ようやく彼女が振り向いた。濡れた頬を慌てて手の甲でこする。

「……なんで、いるの」

「毎年来てるんだ。じいちゃんと見てた花火だから」

「うん」

 彼女はそれだけ言ってまた空を見上げた。俺は少し離れて隣に立った。二人で花火を見ていた。赤、青、金。光が開くたびに彼女の横顔が違う色に照らされた。

「さっきの、白いの」

 聞いていいのか分からなかった。でも聞かずにはいられなかった。

「聞いてたんだ」

「名前の欄、書いてなかったよね。テントで」

 彼女は目を見開いて、小さく息を吐いた。

「書けなかったの」

「誰に?」

「……大事な人」

「家族?」

「ううん」

「亡くなったの」

「うん」

 彼女は夜空を見上げたまま小さく言った。

「冬に」

「去年の?」

 彼女は答えなかった。答えないまま花火の消えたあとの空を見ていた。

「好きな人だった?」

 自分の声が、かすれた。

「うん」

 彼女は、はっきりとうなずいた。

「すごく好きだった。今も」

「どんな人?」

 彼女は少し考えてから胸の前で腕を組んだ。

「真面目な人」と彼女は言った。

 大きな花火が三つ続けて上がって河原じゅうが白く明るくなった。少し遅れて、どん、どん、どん、と胸を叩くような音が届いた。

「ありがとうって、言えなかったの。最後に」と彼女は言った。「だから、花火に言ってもらった。自分じゃ、もう言えないから」

 それきり彼女は何も言わなかった。

 俺も、何も言えなかった。何か言うべきだと思ったのに、言葉がひとつも出てこなかった。慰める言葉も、気の利いた言葉も、女の子の前ならいくらでも出てくるはずの言葉が、全部どこかへ行ってしまっていた。

 四月に駅前で言われた言葉の理由が、分かった気がした。この人は好きな人を冬に失くしたのだ。だからもう誰も好きにならない。誰にも好かれたくない。

 最後の連発が終わると夜空には白い煙だけが残った。どれがさっきの白い花火の煙だったのかは、もう分からなかった。


   *


 帰っていく人の波にまじって土手の階段を上がった。その途中で彼女のスマホが鳴った。画面を見て、彼女はためらってから耳に当てた。

「もしもし。うん。うん、元気。心配しないで」

 聞いたことのない声だった。いつもの落ち着いた先輩の声とは違う、少し幼い、家の中の声だった。

「お盆? ごめん、今年は帰れなかった。うん、ゼミが忙しくて。うん。翔太にも、よろしく言っておいて」

 電話を切ると、彼女は画面を見つめたまま動かなかった。

「お母さん?」

「うん。広島。海のある町」彼女は笑った。「言ってなかったっけ」

「聞いてない」

「そっか。弟がね、高校生なの」

 階段の途中で彼女は立ち止まった。

「さっきのこと、誰にも言わないでね。千夏ちゃんにも」

「言わないよ」

「ありがとう」

「あのさ」と俺は言った。「LINE、返事はくれなくてもいいから。追加だけでも、してくんない?」

 彼女は困ったように笑った。

「だめ」

「だよね」

「でも」

 彼女は階段を一段上がって振り向かずに言った。

「日曜の朝、踏切にいるでしょ」

「いるけど」

「なら、いい」

 何が、いいのか分からなかった。聞き返す前に、彼女は階段を上がりきって、屋台の明かりの向こうの暗がりへ歩いていった。

 置きっぱなしにしていた三脚を回収して、カメラのフィルムを巻いた。今夜撮った花火の写真には、たぶんさっきの白い一輪も写っている。人のいない、光だけの写真。それなのにその一枚だけは、ちゃんと誰かが写っているような気がした。

 帰り道、坂の下の踏切を通った。夜の踏切は街灯にぼんやり照らされて、昼間よりずっと静かだった。遮断機は上がったまま、赤いランプも消えている。線路の向こうに黒い桜の木の影が立っていた。

 踏切の手前で俺は立ち止まった。

 日曜の朝、踏切にいるでしょ。なら、いい。

 彼女の声をもう一度頭の中でなぞってから、俺は踏切を渡った。


   *


 家に帰ると、仏間の盆棚はもう片づけはじめられていた。送り火の燃えかすの匂いがまだ部屋に残っていた。棚のいちばん上の遺影だけが、まだそこにあった。

 俺は仏間の入口に立って、少しだけ、その写真を見た。

 三秒くらいだったと思う。カメラを首から下げて、まぶしそうに笑っている祖父の顔。それ以上はやっぱり見ていられなかった。でも、三年間でいちばん長く見た。

 部屋に戻ってベッドに寝転んだ。天井を見ていると河原の光景が浮かんだ。名前のない白い花火と、拭おうともしない涙と、「すごく好きだった。今も」という声。

 顔も知らない、名前も知らない、冬に死んだ誰か。

 天井の暗がりに白い一輪が、まだ残っていた。

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