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ハッピーアイスクリーム  作者: 成瀬ルイ
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第4章 麦茶と木曜日

 七月に入ると、栞ちゃんと千夏はすっかり仲よくなっていた。

 きっかけは千夏のESだったらしい。食品メーカーの志望動機が書けないと、学食で頭を抱えていた千夏に、栞ちゃんが「ちょっと見せて」と言って持っていたペンで線を引きはじめたのだ。千夏はESを一本書くたびに、栞ちゃんのところへ持っていくようになった。「水無瀬さんの赤ペン、面接官より怖い」と千夏はうれしそうに文句を言っていた。

 学食の窓際や図書館の前のベンチで、二人が並んで話しこんでいるのを何度か見かけた。千夏が何か言って、栞ちゃんが口もとを押さえて笑う。俺の前ではめったに見せない笑い方だった。俺が近づくと二人はぴたりと話をやめる。

「何の話?」

「律には関係ない話」と千夏が言う。

「律くんには関係ない話」と栞ちゃんも言う。

 息がぴったり合っているのがなんだか面白くなかった。面白くないことはほかにもあった。

 七月の最初の金曜日、サークルの飲み会でアヤカが隣に座ってきた。

「律くん、最近付き合い悪くない?」

「そう?」

「二次会、三回連続で帰ったでしょ。みんな言ってるよ、律くんに本命ができたって」

「できてないって」

 笑って答えてハイボールを飲んだ。グラスの中の氷がからん、と鳴った。

 本命という言葉が、なぜか耳に残った。この二年、俺の周りにはいつも誰かがいた。誰かがいれば一人の部屋に帰らなくて済む。それだけで十分だと思っていた。

 一次会が終わって店を出ると、アヤカが改札の前で俺の袖をつかんだ。

「律くんが二次会来ないと、つまんない」アヤカは笑った。「一人の部屋に帰るの、やなんだよね。地元、遠いし」

「どこだっけ」

「青森。駅から車で四十分の、りんご畑しかないとこ」アヤカは指で四十を作ってみせた。「こっちだと、バイト先の居酒屋のおばちゃんが、東京のお母さん。まかないの唐揚げ、いつも一個多くしてくれるの」

 冗談みたいな言い方だった。でもその気持ちは俺にはよく分かった。分かったから、少し胸が痛んだ。その夜も二次会には行かなかった。


   *


 ゼミの帰りに、坂のてっぺんの駅から分かれ道まで一緒に歩くようになったのは、六月の雨の日のあとからだった。一緒に、というほどのものじゃない。同じ電車で帰ってくれば同じ改札を出ることになるし、分かれ道までは道が一本しかない。

 最初の木曜は、彼女が十歩くらい先を歩いていた。次の木曜は五歩くらい先だった。三回目の木曜、俺がコンビニに寄って出てくると、彼女は店の前の自販機の横で麦茶を飲んでいた。

「待ってたんすか」

「待ってない。のど、かわいたから」

 麦茶はもう半分くらいなくなっていた。

 その日からは、なんとなく並んで歩くようになった。並んでといっても、彼女はいつも半歩うしろを歩く。話すことはたいしたことじゃなかった。ゼミで先生が言ったこと。長谷川さんの卒論のテーマがまだ決まらないこと。坂の途中の家の紫陽花が、先週より青くなったこと。俺が日曜に撮った踏切の話をすると、彼女は「ふうん」とだけ言って、その次の週に「先週の、どうだった」と聞いた。覚えていたのか、と思った。

 分かれ道までは十分くらいだった。それより長くも短くもならなかった。

「千夏ちゃん、いい子だね」

 七月の二回目の木曜日、栞ちゃんが言った。

「まあ、いいやつではある」

「ESの志望動機、何回直しても、最後に『食べることが好きだから』に戻ってくるの」彼女は少し笑った。「でも読んでると、ほんとに好きなんだなって分かる」

「なんでも話してんすね」

「律くんの話も、よくしてるよ」

「悪口でしょ」

「半分くらい」

 分かれ道で「また明日っす」と言うと、彼女は「じゃあね」と手を振った。残りの半分は何なのか、聞きそびれた。


   *


 次の木曜日のことだった。

 ゼミが終わって教室を出ようとすると、栞ちゃんに呼び止められた。

「これ」

 差し出されたのは細長い封筒だった。中に写真展のチケットが二枚入っていた。恵比寿の写真美術館でやっている、久世遼一という写真家の回顧展。タイトルは『不在の肖像』。来週の土曜日までだった。

「どうしたの、これ」

「内定先の人にもらったの。でもその土曜、研修で行けなくて」栞ちゃんは言った。「千夏ちゃんと行ってきたら。久世遼一、見たいって言ってたよ」

「千夏?」

「千夏ちゃん、一年のときから律くんの写真を見てるんでしょ。テニスのほうのサークルで、写真の話ができるの、千夏ちゃんだけだって聞いた」

「いや、それはそうだけど」

 封筒を持ったまま、なんとなく引っかかった。

「俺のことふっといて、千夏と行ってこいって。それ、けっこうひどくないすか」

 冗談のつもりで言ったのに、思ったより尖った声になった。廊下にいた何人かが振り向いた。栞ちゃんは目を丸くした。

「ふってないよ」

「好きにならないでって言ったじゃないすか」

「それは言った」と彼女は言った。「でも、それとこれは別。久世遼一、いいよ。行かないともったいない」

「じゃあ栞ちゃんが行けばいいじゃん」

「研修だって言ったでしょ」

 彼女は封筒をもう一度、俺のほうへ押した。

「千夏ちゃんと行ってきて。感想、聞かせて」

 そう言って彼女は廊下の向こうへ歩いていった。


   *


「行く行く。ちょうど見たかったやつ」

 次の日の夜、飲み会のあとのラーメン屋で千夏に封筒を見せると、千夏は即答した。

「水無瀬さんにもらったんでしょ。私と行けって」

「なんで知ってんの」

「ES見てもらってるとき、久世遼一の話になったの。チケットあるけど行けないって。律に渡しとくから、二人で行ってきたらって」

 れんげでスープをすくいながら、千夏はなんでもないことみたいに言った。

「勘違いしないでよ。律とデートとか、ありえないから。チケットもったいないし、久世遼一は見たいし。それだけ」

「千夏、写真とか見るんだ」

「見るよ。律の写真もずっと見てるじゃん」千夏は麺をすすりながら言った。「一年のとき、サークルの部屋で律が見せてくれた写真、全部どこかの壁とか、電柱とか、人のいない道ばっかりでさ。チャラいくせにこんなの撮るんだって、なんか、いいなって思った」

 知らなかった。千夏がそんなふうに見ていたなんて。

 千夏はスープを最後まで飲み干した。

「律のことは、手のかかる弟みたいなもんだからさ」

 千夏はそう言ってれんげを丼のふちに置いた。

「一年のときから、ずっとね」

 ずっと、のところで、ほんの少しだけ間があった。千夏はすぐにいつもの声で「土曜の十時、恵比寿の改札ね。私、四時からバイトだから、それまで。遅れたら次のラーメンおごり」と言った。


   *


 土曜日の写真美術館は思っていたより混んでいた。

『不在の肖像』はその名のとおり、人のいない写真ばかりの展示だった。脱ぎ捨てられた靴。誰も座っていない食卓。窓辺に干されたままのシャツ。どの写真にも、そこにいたはずの誰かの気配だけが写っていて、本人の姿はどこにもない。

 千夏は一枚ずつゆっくり見ていった。玄関に脱ぎ散らかされた大きさの違う二足の運動靴の前で、千夏は長いこと立ち止まっていた。

「これ、律の写真に似てるね」

「どこが」

「誰もいないのに、誰かがいた感じがするとこ」

 千夏はそれだけ言って次の写真へ歩いていった。

 二時すぎに、千夏はスマホの時計を見て「やば」と言った。バイトの前に一回家に帰って着替えるらしい。

「律は最後まで見てきなよ。せっかくだし」

「おう」

「水無瀬さんに、ちゃんとお礼言いなよ。チケットの」

 千夏は手を振って出口のほうへ歩いていった。

 ひとりになって残りの展示室を回った。人が少しずつ減って、靴音がよく響くようになった。いちばん奥の部屋まで来たときだった。

 一枚の写真の前に、紺色のワンピースの人が立っていた。

 栞ちゃんだった。

 研修だと言っていた人が、ひとりで、そこにいた。


   *


 栞ちゃんが見ていたのは雨上がりの縁側の写真だった。

 古い木の縁側に湯のみが二つ並んでいる。片方にはまだお茶が残っていて、もう片方の前の座布団には誰も座っていない。軒先から落ちるしずくだけが白く光っていた。

「研修じゃなかったんすか」

 声をかけると、彼女はびっくりした顔で振り向いた。

「午前で終わったの」彼女は少し気まずそうに言った。「ここ、もうすぐ終わっちゃうし。せっかくだから」

「千夏、さっき帰っちゃいましたよ。バイトで」

「そっか」

 彼女はまた写真のほうを向いた。帰るタイミングをなくして、俺も隣に立った。展示室の中は静かで、遠くで誰かの靴音がしていた。

 見ているうちに、この写真の前から動きたくなくなった。

「これ、いいっすね。今日見たやつで、いちばん好きかも」

「うん」

「なんでか分かんないけど」

 言いながら考えた。たぶん、顔が写っていないからだと思った。

「顔が写ってるとさ。その人がいなくなったあとも、写真の中だけでずっと笑ってるじゃないすか。あれ、ちょっときつくて」

 言ってから自分で驚いた。こんな話をするつもりはなかった。

「じいちゃんの遺影、いまだにちゃんと見られないんすよ。仏間の前を通るとき、早足になる。だから人は撮らない。撮ったら、いつかそうなるから」

 言い終わってから急に恥ずかしくなって、俺は笑った。

「なんか重いこと言った。忘れてください」

「重くないよ」

 栞ちゃんは写真から目を離さないまま、それだけ言った。

 どうしてこんな話をしたのか、自分でもよく分からなかった。美術館が静かだったせいかもしれない。ほとんど知らない人だから言えたのかもしれない。航にも千夏にも、話したことはなかった。

「栞ちゃんは、なんでこの写真見てたの」

 靴音が遠ざかってから聞くと、彼女は湯のみのほうを指差した。

「待ってる人の写真だと思ったから」

「待ってる?」

「お茶が残ってるほうの人。もう一人が帰ってくるのを、ずっと待ってるの。お茶が冷めても、ずっと」

 そう言われてから見ると、縁側の写真はさっきまでとまるで違って見えた。誰もいない写真だと思っていた。でもちゃんと誰かがいた。待っている誰かと、帰ってこない誰か。

「待ってるほうは、つらいね」と俺は言った。

「うん」と栞ちゃんは言った。


   *


 美術館を出ると夏の日差しが白く照り返していた。

「ごめんね」と栞ちゃんは言った。「千夏ちゃんのこと。もう、しない」

「うん」

「でも」

「好きにならないで、でしょ」

 先に言うと、彼女は目を見開いて、困ったように笑った。

「うん」

 駅までの坂を二人で下りた。帰りの電車は座れた。並んで座って、やっぱり間にひとり分の隙間があった。

 彼女は鞄から文庫本を出した。ページのあいだから、今日もレシートがはみ出していた。この前と同じ、角の丸くなったレシートだった。

「三十枚あるのに」

「もったいないから」

 彼女はそれだけ言って本を開いた。俺は窓の外を見ていた。乗り換えの駅で同じホームを歩いて、各駅停車に乗って、坂のてっぺんの駅で降りた。分かれ道で、また明日っす、と言った。彼女は「じゃあね」と言った。土曜日なのに、木曜日と同じ十分だった。

 家に帰って、チケットの半券を机の引き出しに放りこんだ。十三枚目のネガを入れた袋の上に落ちた。とっておくつもりじゃなかった。捨てるのを忘れただけだ。

 夜になってアヤカから〈来週の飲み会、来る?〉とLINEが来た。〈行く〉と返して、スマホを伏せた。

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