第3章 雨の日、教会の前で
好きにならないで、と言われてから二か月が過ぎた。
栞ちゃんは言ったとおりの距離を守り続けた。ゼミではいつも俺からいちばん遠い席に座る。目が合えば会釈はする。話しかければ答える。でもそれ以上には一歩も近づいてこない。航に言わせると「教科書みたいな、先輩と後輩の距離」だそうだ。
四月の夜に送ったLINEには次の日の朝に既読がついた。返事はなかった。ゼミのグループに彼女が「了解です」と書きこむのはときどき見かける。俺あての返事だけが、来ない。
四月の二回目のゼミの休み時間に、長谷川さんが先生に頼まれて資料を印刷しようとして、教室のプリンターが紙を詰まらせた。なんで私のときだけ、と言いながら長谷川さんがふたを開けたり閉めたりしていると、栞ちゃんが立っていって、横から黙ってトレイを引き抜いた。くしゃくしゃになった紙が一枚出てきて、プリンターはまた動きだした。
「水無瀬さん、去年もそれやってくれた」
「去年も詰まったからね、これ」
栞ちゃんが笑った。普通の、四年生どうしの笑い方だった。俺は窓と反対側のいちばん端の席からそれを見ていた。
「栞ちゃん、すげえ」
思わず言うと、長谷川さんがこっちを振り向いた。
「芹沢くん、四年をちゃん付け?」
「本人の許可、取ってます」
「好きに呼んでって言っただけ」と栞ちゃんが言った。「許可はしてない」
教室が笑った。北条先生まで笑っていた。栞ちゃんはもうこっちを見ないで、刷り上がった資料をとんとんと机でそろえていた。
ひとつだけ、おかしなことがあった。帰りの電車で彼女はいつも俺と違う車両に乗る。ホームで俺を見つけるとわざわざ二両先まで歩いていく。それなのに乗り換えの駅で人に押されたり、ドアの前が混んでいたりして、なぜか三回に一回は同じ車両になってしまうのだ。
そういうとき彼女は小さくため息をついて、吊り革一本分だけ俺から離れて立つ。文庫本を開いて、降りるまで顔を上げない。
五月の半ばに、車両点検で電車が二十分遅れた日があった。ホームにあふれた人ごと押しこまれて、栞ちゃんとドアの前で向かい合っていた。吊り革一本分どころじゃない。彼女の前髪が俺のシャツの二つ目のボタンのあたりにあった。
「ごめん」と俺は言った。
「芹沢くんのせいじゃないでしょ」
彼女は文庫本を胸の前で守るみたいに持っていた。古い翻訳の小説で、ページのあいだからコンビニのレシートがはみ出していた。
「栞って名前なのに、栞、レシートなんすね」
言ってから、くだらないと思った。彼女は一瞬きょとんとしてから、下を向いて肩を小さく揺らした。
「よく言われる」
「言われるんだ」
「小学校のころから、ずっと。誕生日に、みんな栞をくれるの。引き出しに三十枚くらいあって、もったいなくて使えない」
乗り換えの駅に着くまで、彼女はもう何も言わなかった。俺も黙っていた。ホームを歩きながらレシートの栞を思い出して、一回だけ笑ってしまった。
俺のほうは相変わらずだった。新歓が終わってもサークルの飲み会は週に二回はあった。LINEの友だちは四月から十二人増えた。アヤカとは二回飲んで、三回目の誘いはなんとなく返さないままになっている。既読だけつけて返さないのは、俺も同じだった。
断られている相手のことを考えるより、笑ってくれる相手と飲むほうがずっと楽だった。それなのにゼミのある木曜日だけは、なぜか飲み会の予定を入れなくなっていた。
五月の終わり、二次会のあとで「もう一軒行こ」と腕を引かれた。いつもなら行く。一人で帰る夜より、誰かといる夜のほうが楽だから。
その夜はなぜか終電で帰った。各駅停車の中で、窓に映る車内に紺色を探していた。いるはずがない時間なのに。そんな自分に気づいて、笑えた。
*
五月の最後の日曜日、俺は朝の踏切にいた。ゼミのテーマを考えはじめてから、日曜の朝は踏切に来るようになっていた。桜はとっくに葉桜になって、土手は緑に埋まっている。同じ構図で、同じ時間に、同じ一枚を撮る。祖父が何十年もやっていたことを、せめて一年分自分でもやってみたかった。
ファインダーをのぞいていると、視界の上のほうで何かが動いた。
歩道橋の上に、栞ちゃんがいた。
手すりに両腕をのせて、じっと踏切を見下ろしている。
階段を上がっていくと彼女はびくっとして振り向いた。
「なんでいるの」
「こっちの台詞。俺は毎週ここで撮ってるけど」
「毎週」
「来年の二月まで。ゼミのテーマにしようと思って」
彼女は黙って、踏切のほうに目を戻した。
「栞ちゃんは? 散歩?」
「うん。散歩」
彼女は手すりから腕を下ろした。
「芹沢くん」
「ん」
「しゃがんで撮ってるとき、遮断機に近づきすぎないでね。上から見てると、危なっかしい」
「近づいてたのは栞ちゃんでしょ。四月に」
「そうだね」
彼女はそう言って歩道橋の向こう側へ降りていった。
*
六月の第二木曜日は前期のテーマ発表の日だった。北条ゼミでは一年をかけて撮るテーマをここで決める。秋の中間発表を経て、二月の作品展で形にする。四年にとっては卒業前の最後の作品になる。
「芹沢くん」
「はい。テーマは『踏切の一年』です」と俺は言った。「地元の坂の下の踏切を、来年の二月まで、毎週同じ場所から撮ります。季節で、どう変わるかを記録したくて」
「人は入れる?」と北条先生が聞いた。
「入れないです。踏切だけ」
「芹沢くんらしいね」先生は笑ってメモを取った。「でも、一年同じ場所に立っていたら、たぶん誰かが写りこむよ。そのときどうするか、考えておいて」
彼女の番になった。
「水無瀬さん」
「まだ、決まってません」
教室が少しざわついた。四年でこの時期にテーマがないのは彼女だけだった。
「四年は、二月の作品展が最後だよ。間に合う?」
「間に合わせます」と彼女は言った。「二月までには、必ず出します」
*
ゼミが終わって一階まで下りると、ガラス戸の外の空が低くなっていた。予報では夕方から雨だった。
教室のある棟の入口で、栞ちゃんが傘立ての前に立ちつくしていた。
朝、彼女が紺色の長い傘を持ってきていたのを俺は見ていた。その傘立てに、紺色はなかった。ビニール傘が何本かと、知らない誰かの黒い傘があるだけだった。
「傘、なくなった?」
「うん」
「誰かが間違えて持ってったんじゃない。事務室に言えば——」
「いい」
彼女は空っぽの傘立てを見つめたまま、少しだけ笑った。
ガラス戸の向こうで雨が降りはじめていた。最初はぽつぽつと石畳に黒い点をつけていた雨が、見ているうちに白くけむる本降りになった。棟の入口で雨宿りしている学生たちが口々に「うわ」と声を上げた。
俺はリュックから折りたたみ傘を出した。カメラを濡らすな、というのが祖父の口ぐせだったから、傘だけは毎日持ち歩いている。チャラいくせに傘だけは几帳面、と千夏には笑われる。
「入ってく?」と俺は言った。「駅まで送るよ。どうせ同じ電車だし」
女の子にこう言って断られたことはあまりない。
「いい」
「いや、よくないって。この雨だよ。風邪ひくって」
「ひかない」
「一本しかないけど、二人なら入れるから」
「だから、いいの」
彼女は俺を見なかった。雨の向こうの、正門のほうを見ていた。
「芹沢くんは、それ差して帰って。カメラ、濡らしちゃだめでしょ」
そう言うと彼女はトートバッグを頭の上に掲げて、雨の中へ走り出した。
「ちょっ——」
追いかけようとして一歩踏み出したときだった。
「律!」
背中から声が飛んできた。振り向くと千夏が棟の奥から駆けてくるところだった。両腕にコンビニのビニール袋を三つもぶら下げている。
「ちょうどよかった、傘貸して! 今日の飲み会の買い出し、私の当番なの。お酒濡らしたら先輩に殺される」
俺は雨の向こうを見た。紺色の背中はもう正門を出かけていた。
追いかければたぶん間に合う。傘を差しかけて家まで送って。それで何かが変わるのかどうかは分からないけれど。いつもの俺なら迷わず追いかけていたと思う。
でも、彼女は「だから、いいの」と言った。あれは照れて断るときの言い方とは違った。
千夏の腕のビニール袋を見た。
「ほら」
傘を開いて千夏に渡した。
「ありがと! 飲み会で返す!」
千夏は袋を胸に抱えて、サークルの部屋のある棟のほうへ駆けていった。
ひとりで入口に残されて、俺はもう一度正門のほうを見た。
彼女がいた。
正門を出たところの、教会の入口の小さな屋根の下に立って、こっちを見ていた。髪も肩もずぶ濡れで、顔は雨にけむってよく見えなかった。でも、こっちを向いているのは分かった。
四月の踏切でも中庭でも、去りぎわに一度も振り返らなかった人が、振り返っていた。
目が合ったと思う。ほんの数秒だった。彼女は何かを言うみたいに唇を動かして、また雨の中へ走っていった。
俺はカメラだけを上着の内側に抱えて、濡れながら駅まで歩いた。ホームに彼女の姿はもうなかった。
その夜の飲み会には行かなかった。家に着くと千夏からLINEが来ていた。
〈傘ありがと〉〈律来ないから、月曜に返す〉〈てかさっき教会の前にいた紺色の人、律が中庭でふられてた先輩?〉〈めっちゃこっち見てたよ〉
ふられてない、とだけ返して、濡れたシャツのまま部屋の床に座りこんでいた。どうして追いかけなかったのか考えていた。千夏に傘を渡したことを後悔しているわけじゃない。ただ、教会の前で振り返った彼女の顔が、雨でよく見えなかったことだけが、ずっと引っかかっていた。
*
次の週の月曜日、学食で栞ちゃんと千夏が同じテーブルに座っているのを見つけた。思わず二度見した。千夏が一方的に話しかけて、栞ちゃんが困ったように笑っている。
「あ、律。ちょうどいいとこに」と千夏が手を振った。「今ね、律をふった先輩と話してたとこ」
「ふってない」と栞ちゃんが言った。「好きにならないでって、言っただけ」
「それ、ふったって言うんですよ、ふつう」
千夏が笑った。栞ちゃんも困ったように笑った。
千夏によると、俺に傘を返そうと文学部の棟の前で待っていたら、ちょうど栞ちゃんが出てきたので、「この前、教会の前にいましたよね」とそのまま捕まえてお昼に誘ったらしい。
「律のどこがだめだったんですか。チャラいとこ?」
「チャラいとこは、ちょっとね」
「ほら」と千夏が俺を見た。
「でも、だめってほどじゃないよ。後輩としては、いい子だと思う」
栞ちゃんはあっさりそう言ってお茶を飲んだ。後輩としては、のところだけ、やけにはっきり聞こえた。千夏が「よかったね、後輩」と俺の肩をたたいた。
「水無瀬さんも今度、ラーメン行きません? 飲み会のあとに、律と行くとこ」
「油多めでいいなら」
「油多め派なんだ」と俺は言った。
「うん」
「胃、強そうな顔じゃないのに」
彼女は一瞬だけ俺を見て、口の端をほんの少し上げた。
「油多めは、おいしいから」
理由になっていない理由だった。千夏が「律と真逆じゃん」と笑った。
「律ね、一年の最初のころは、こんなんじゃなかったんですよ」と千夏が急に言った。「新歓の飲み会でも、ずっと隅っこで黙ってて。話しかけても、目も合わせないの。それが夏休み明けたら急に——」
「千夏」
俺が名前を呼ぶと、千夏はぴたりと口を閉じた。それから「はいはい、言いませんよ」と肩をすくめた。
栞ちゃんは、そうなんだ、とだけ言って味噌汁を飲んだ。
千夏がトートバッグから俺の折りたたみ傘を出した。
「はい、これ。ちゃんと乾かしといたから」
栞ちゃんはその傘をちらっと見て、トレイを持って立ち上がった。
*
その日の帰り、坂のてっぺんの駅で降りると雨は上がっていた。梅雨の晴れ間で、濡れたアスファルトが光って坂の上の空が白く明るかった。栞ちゃんは坂を下りはじめた。俺もなんとなく、少しうしろを下りた。
「この前さ」と俺は言った。「振り返ってたよね。雨の日」
「振り返ってない」
「振り返ってた。教会のとこで」
彼女は答えなかった。坂を半分くらい下りてから、前を向いたまま言った。
「傘、千夏ちゃんに貸したんだね」
「飲み会の酒、濡らしたら殺されるって言うから」
「そっか」
彼女は小さく息を吐いた。
「よかった」
「よかった?」
「千夏ちゃんが、濡れなくて」
分かれ道で彼女は立ち止まった。
「また明日っす」
四月の駅前で彼女に言われてから、別れぎわにそう言うのが癖になっていた。彼女のほうは、あれから一度も言わない。
「じゃあね、律くん」
そう言って彼女は歩いていった。
初めて、下の名前で呼ばれた。
俺は分かれ道に立って、彼女の背中を見ていた。今度は、彼女は振り返らなかった。
学食で千夏が律、律って呼ぶのを横で聞いてたからだ。分かってる。分かってるのに、家までの坂を下りながら何回か思い出した。




