第2章 暗室の赤い光
翌朝、俺はいつもより一時間早く家を出た。フィルムの残りの二十三枚を外濠の土手で使い切るためだ。散りはじめた花びらが水面に浮かんで、堀がところどころ薄い桃色になっていた。三十六枚目を撮り終えて巻き戻しのクランクを回すと、カリカリという手応えのあとでふっと軽くなった。
フィルムは今、一本二千円を超える。現像の薬品だって安くない。新宿の中古カメラ店でのバイト代は、半分がフィルムに、残りの半分が飲み代に消えていく。母には「その趣味、お金かかるね」と言われる。そのたびに祖父のころは一本五百円もしなかったらしい、と答えている。
写真サークルの部室はキャンパスの端にある古い部室棟の三階だ。奥の物置を改造した暗室があって、窓には黒いカーテンが二重にかかっている。薬品のつんとした匂いには二年通ってもまだ慣れない。
「おはよう。早いじゃん、めずらしい」
代表の宮坂さんが黒いスーツの上からエプロンをかけて、現像液を量っていた。四年生で、内定先は去年の秋にもう決まっている。今日は午後からその内定先の集まりがあるらしい。それでも新歓の日だけは来る、と前から宣言していた。
「昨日のフィルム、現像していいすか」
「どうぞ。午後の焼き付けの実演、律の担当ね」
宮坂さんはそう言って量り終えた現像液をタンクの横に置いた。
フィルムを現像タンクに移すところまでは、ダークバッグという黒い袋の中で、手探りでやる。光が入るとフィルムがだめになるからだ。最初の年は何本もだめにしたけれど、今は目をつぶっていてもできる。
現像液、停止液、定着液。タイマーを見ながらタンクを逆さにしては戻す。水で洗ってふたを開けると、細長いフィルムが灰色がかって透けていた。光にかざすと小さな四角がずらりと並んでいる。明るいところが暗く、暗いところが明るい。ネガだから全部が反対だ。
十三枚目を探した。
踏切。遮断機。舞い上がる花びら。その真ん中に、髪を広げた人の形があった。顔はブレていて分からない。反転した世界の中で、その人だけが白く浮かんでいるように見えた。
*
新歓のブースは中庭の隅にあった。テントの下に長机をひとつ置いて部員の写真を並べる。俺が出したのは去年の春の踏切の一枚だった。祖父と同じ構図の、遮断機と桜。
昼前、ブースの前を紺色が通りかかった。彼女は俺に気づかなかった。気づいたのは机の上の写真のほうだった。足が止まる。去年の踏切の桜を、彼女は少しのあいだ見ていた。
「あれ、水無瀬さん?」
宮坂さんが顔を上げた。
「一年のとき、英語のクラスが一緒だった宮坂。覚えてる?」
「宮坂さん。覚えてる」
「知り合いなんすか」と俺は聞いた。
「一年のとき、ちょっとね。律は?」
「ゼミの先輩っす。昨日から。ね、栞ちゃん」
「もうちゃん付け?」宮坂さんがあきれた顔をした。「早っ。水無瀬さん、こいつ、気をつけたほうがいいよ」
「うん」と栞ちゃんは言った。「そんな気がする」
昨日の今日でずいぶんな言われようだった。
「午後、暗室で焼き付けの実演やるんだけど、見に来ない? 律が焼くよ」
「行かない。写真、撮られるの苦手だから」
「撮らない撮らない」と俺は言った。「人は撮らない主義だって、昨日言ったでしょ」
「昨日、聞いた」
そう言って彼女は人の流れの中へ戻っていった。
「あんなにはっきり断る子だったかな」と宮坂さんがつぶやいた。「前は、もっと、なんていうか、よく笑う子だった気がするけど」
*
学食は混んでいた。航と二人でカレーの列に並んでいると、トレイを持った紺色が目の前を通り過ぎた。
「栞ちゃん! こっち空いてる」
気づいたらもう手を上げていた。
「お前、もう呼んでんのかよ」航が小声で言った。「手え出すなって言ったろ」
「出してないって。呼んだだけ」
彼女は一瞬困った顔で立ち止まって、諦めたようにこっちへ来た。
「こんにちは」
「律の友達の大河内です」航が頭を下げた。「こいつが、すみません」
彼女は俺の向かいではなく、航の隣に座った。俺からいちばん遠い席だった。
「水無瀬さん、サークルどこなんですか」
「文芸。同人誌を作るところ。もう引退したけど」
「来年の四月から、出版社で編集者なんすよね」と俺は言った。「かっこいいじゃん」
「どうかな」と彼女は笑った。
「ねえ栞ちゃん」俺は身を乗り出した。「俺の好物、当ててみてよ。当たったら今度デートね」
「お前な」と航が言った。
栞ちゃんは俺のトレイを見た。
「……カレー」
「はずれ。これは、たまたま」
「じゃあ、デートはなしね」
栞ちゃんは笑った。その笑い方が昨日より自然で、俺はうっかり見とれかけた。
「正解、ラーメンなんすけど。四ツ谷の駅の向こうの、家系の」
「ふうん」
それだけだった。航が吹き出した。
「水無瀬さんも午後の暗室、来ません?」と航が誘いはじめた。「律が焼くんですって」
「さっきも断ったんだけど」
「こいつには撮らせませんから。焼くとこ見るだけ」
栞ちゃんは黙ってカレーをスプーンでつついていた。
「見るだけなら」
*
午後の暗室は、赤かった。
安全灯という、印画紙が反応しない色の電球が天井でぼんやり光っている。新入生が三人と航と、いちばん後ろに栞ちゃん。赤い光の下で見るとみんな古い写真の中の人みたいに見えた。宮坂さんは内定先の集まりに出る前の三十分だけ、と言って入口の近くで腕を組んでいた。
引き伸ばし機に乾いたネガをセットする。十三枚目は選ばなかった。約束したからだ。選んだのは三月の終わりに撮った一枚だった。夕方の坂。うちの前から駅のほうを見上げた構図。電線と、坂のてっぺんに沈みかけた夕日。祖父が好きだった時間帯だ。
光を当てた白い印画紙を現像液のバットに沈める。
「ここから、ゆっくり揺らします」
バットの端を持ち上げて液を小さく波立たせる。何も写っていなかった紙に、じわじわと影が浮かんできた。最初に電線。それから坂の輪郭。最後に、夕日の周りの白く飛んだ空。
「おお」と新入生のひとりが声を上げた。航も「すげえ、出てきた」と言った。写真サークルでもないのに、いちばん楽しそうだった。
いちばん後ろで栞ちゃんが少しだけ身を乗り出していた。紙の上に景色が浮かんでくるのを、息をひそめるようにして見つめている。
「きれい」
小さなつぶやきだった。俺と目が合うと彼女は何事もなかったような顔で、また一歩うしろへ下がった。
「ずっと揺らしてないと、ムラになるんだよね」
栞ちゃんの声だった。
宮坂さんが顔を上げた。「詳しいね。経験者?」
「前に、ちょっとだけ」
「どこで?」
「教えてもらったことがあって」
タイマーが鳴った。トングで印画紙を引き上げ、停止液に移した。
定着液に沈めた写真を、栞ちゃんはずっと見ていた。赤い光の中で、まばたきもしないで夕方の坂を見ていた。
「この坂、いいね」
ぽつりと、彼女が言った。
「でしょ。うちの前なんすよ」
彼女はこっちを見なかった。
「そうなんだ」
定着が終わると印画紙を水洗のトレイごと、暗室の外の部室へ運んだ。ここから先は明るくても大丈夫だ。蛍光灯の白さに少し目がくらんだ。新入生たちがトレイのまわりに集まって、水に浮かんだ坂をのぞきこんだ。
カシャ、と音がしたのは、そのときだった。
振り向くと宮坂さんがスマホを構えていた。
「ごめん、記録用。新歓の活動報告に——」
「消してください」
栞ちゃんの声が、狭い部室に響いた。昨日、踏切で「消して」と言ったときより、ずっと硬い声だった。
「お願いします。消してください」
宮坂さんは驚いた顔をしたけれど、すぐに画面を栞ちゃんのほうへ向けて指で消してみせた。
「消したよ。ほら。ごめんね、勝手に」
「ううん。私こそ、ごめん」
栞ちゃんは頭を下げた。その手が細かく震えているのが、蛍光灯の下ではっきり分かった。
「先に帰ります。ありがとうございました」
部室のドアが閉まる音が、思ったより大きく響いた。
「俺、なんかしました?」と航が言った。
「してないよ」と宮坂さんが言った。
新入生たちは顔を見合わせて、水に浮かんだ坂の写真のほうへ戻っていった。宮坂さんはスマホの画面を見ていた。消した一枚がもうどこにもないのを確かめるみたいに。
宮坂さんは腕時計を見て、エプロンを外した。ていねいにたたんで棚に置いた。
ドアのところで宮坂さんは振り返った。
「律。さっきの子、あんまり追いかけないであげてね」
「追いかけてないっす」
「知ってる。いちおうね」
宮坂さんが出ていくと、部室には薬品の匂いと新入生たちのはしゃぐ声だけが残った。俺はバットを洗ってトングを拭いて、乾燥棚に印画紙を一枚ずつ吊るした。夕方の坂は少し焼きすぎていて、空の白く飛んだところが思っていたより広かった。
*
その夜はサークルの新歓だった。一次会が終わって二次会へ流れていく人たちと別れると、千夏が「ラーメン」とだけ言って俺の袖を引いた。一年のときからの決まりごとだ。
駅の向こうの家系ラーメンは、夜の十一時でも半分くらい席が埋まっていた。食券を買ってカウンターに並んで座る。
「麺かため、味濃いめ、油少なめ」
俺がそう言うと隣で千夏が「同じので」と言った。千夏も一年のときから俺と同じ頼み方をしている。理由を聞いたら「考えるのがめんどくさいから」だそうだ。
ほんとは油多めのほうがうまい。分かってはいるけれど、多めにすると次の日の昼まで胃が重たい。一年の夏に一回やって、バイト中ずっと胃をさすっていた。それからは少なめにしている。
千夏はカウンターに肘をついてスマホの画面をにらんでいた。
「何見てんの」
「ES。締め切りの早い会社のが、明日の昼までに三本。食品メーカーばっか」千夏はため息をついた。「志望動機、全部『食べることが好きだから』になっちゃう。小学生か」
「いいじゃん、本当のことなら」
「本当のことだけじゃ、通らないんだよ。夏のインターンは」
そう言って千夏はスマホを伏せた。いつも笑っている千夏がこういう顔をするのは珍しかった。
「なあ、千夏」
「ん?」
「俺って、カレー好きそうな顔してる?」
「は?」千夏は眉を寄せた。「してない。ラーメンの顔してる」
「なんだよ、ラーメンの顔って」
「油少なめの顔。なんで?」
「今日、ほとんど初対面の人に、カレーって言われた」
千夏は一瞬きょとんとして、にやっと笑った。
「女の子?」
「先輩。昨日、中庭で」
「ああ、律がふられてた人だ。年上だ。めずらしい」千夏は目を細めた。「どうせまた、すぐ飽きるんでしょ。女の子にはすぐ飽きるくせに、このラーメンだけは二年飽きないんだから」
「ラーメンは、急にいなくなったりしないだろ」
言ってから、余計なことを言ったと思った。千夏は一瞬だけ真顔になって、すぐにいつもの顔に戻った。
「で、その先輩は?」
「飽きるも何も。好きにならないでって言われた」
千夏はぽかんとした。それから店じゅうに響く声で笑った。カウンターの向こうで店員さんがこっちを見た。
「律が? 言われたの? 最高。その人に会ってみたい」
今度紹介してよ、律をふった先輩、と千夏は言った。ふられてない、と言い返す前にラーメンが来た。
*
終電で家に帰って乾いたネガを机のライトにかざした。
十三枚目。反転した踏切。白く浮かんだ人の形。
焼かない、と約束した。だから焼かない。でも、捨てることもできなかった。ネガを保存用の袋に入れて机の引き出しの奥にしまった。
目を閉じると、白い蛍光灯の下で細かく震えていた彼女の手が浮かんだ。




