第1章 踏切の朝
その一枚を焼くまでに、一年かかった。
坂の下の踏切には毎年、町でいちばん早く桜が咲く。線路沿いの土手に一本だけ立っている古い木で、誰が植えたのかは知らない。祖父は「あれは線路より先にあった」と言い張っていたけれど、本当かどうか確かめないうちに、祖父は三年前に死んだ。残ったのはその話と、俺の首にかかったままの祖父のフィルムカメラだけだった。
そのカメラを最初に首にかけてもらったのは中学二年の冬だった。俺がしばらく学校に行かなかった時期だ。祖父は理由を聞かなかった。ただ、ファインダーをのぞいていれば、誰とも目を合わせなくて済むことを教えてくれた。
四月四日は、目覚ましより先に目が覚めた。そういう朝は一年でこの日くらいしかない。
台所では母がもう弁当を詰めていた。パートに出る日は父と自分の分を毎朝作る。俺の分はない。大学に入ってすぐ、学食で食べるからいいと言ったら、それきりになった。
「桜?」と母が言った。
「うん」
「おじいちゃんの日だもんね」
母は卵焼きを切る手を止めなかった。居間では父がテレビの天気予報を見ていた。晴れ、午後から風が強まるでしょう、と予報の人が言った。父は音を少し下げて、こっちを見ないまま「気をつけてな」と言った。何に気をつけるのかは言わなかった。父はだいたいそうだ。
玄関へ行く途中に仏間がある。襖が細く開いていて線香の匂いがした。母が毎朝あげている。中に祖父の遺影があるのは知っている。俺は襖の前を、いつもどおり少しだけ早足で通りすぎた。
カメラを首から下げて坂を下りた。家から踏切までは歩いて五分。この町は多摩川に向かってゆるく傾いていて、どの道を選んでも最後は下り坂になる。自転車のブレーキがすぐ減る町だと母はよく文句を言う。
桜は満開だった。あとは散るだけという顔をしている。本当は満開の少し手前の、これからもっと咲くという顔をした桜のほうが好きだ。でもこの桜を撮る日は毎年、祖父が撮っていた日に合わせることにしている。
ポケットの中でスマホが震えた。ゆうべのサークルの飲み会で連絡先を交換した子からだ。テニスサークルという名前の、ほとんどテニスをしないサークルで、一年のときから入っている。写真サークルとは掛け持ちだ。その子の名前はたしかアヤカだったと思う。返事はあとでいい。この時間だけは誰にも邪魔されたくなかった。
土手の下にしゃがみこんでファインダーをのぞく。手前に遮断機、奥に線路、その上に桜の枝。いつもの構図だ。去年もおととしも同じ場所から撮った。祖父が撮っていた構図を俺はそのままなぞっている。この三年撮ってきたのは、ほとんどが祖父の撮っていた場所だった。
人は撮らない。撮ってと頼まれても断ることにしている。
カン、カン、カン、と警報機が鳴りはじめた。黄色と黒の棒がゆっくり下りてくる。電車が来る前の数十秒が、この踏切はいちばんきれいだ。赤いランプが交互に光って、その前を花びらが横切っていく。
そのとき、ファインダーの中に人が入ってきた。
女の人だった。紺色のスプリングコートに、腰まである黒い髪。遮断機のすぐ前に立って線路を見ている。近い。
俺はカメラを下ろした。
電車の音が近づいてくる。彼女は気づいていないみたいだった。
「ちょ、危ないって」
声をかけたのと急行が目の前を走り抜けたのは、ほとんど同時だった。
風が来た。花びらがいっせいに舞い上がって、彼女の髪がほどけるように広がった。俺は思わずシャッターを切っていた。カシャ、という古い機械の音は電車の音にかき消された。
電車が行ってしまうと急に静かになった。遮断機が上がる。
彼女がこちらを振り返った。
目が合った。
彼女は少しのあいだ、何も言わずに俺を見ていた。目のふちが赤かった。花びらが入ったのかもしれない。
「大丈夫?」
近づくと彼女は一歩下がった。指先で目もとを押さえて、小さく息を吐いた。俺の肩ごしに桜を見上げる。
「桜、まだ咲いてるね」
そう言って彼女は笑った。
そうだね、と俺は答えた。いつもならここで気の利いたことのひとつくらい言える。なぜか、何も出てこなかった。
彼女の視線が俺の胸元のカメラに落ちた。
「今、撮った?」
「あー、ごめん。入っちゃったかも」
「消して」
即答だった。
「フィルムだから、消せないんだよね」
「現像しても、誰にも見せないでくれる?」
「見せない見せない。焼かないし。てか、たぶんブレてるし。人を撮るつもりなかったから、ピントも合わせてない」
「そっか」
遮断機はとっくに上がっていて、自転車が何台か踏切を渡っていく。彼女はくるりと向きを変えて線路沿いの道を歩きはじめた。その先には線路の向こう側へ渡る歩道橋がある。
女の子と別れるとき、たいてい一度は振り返られる。自慢じゃなくてそういうものだと思っていた。
彼女は、一度も振り返らなかった。
俺はその場から動けなかった。遮断機がもう一度下りて、上りの各駅停車が通って、また上がった。犬を連れたおじいさんが踏切を渡りながら桜を見上げて、今年は早いなあ、と誰に言うでもなく言った。高校生の自転車が二台、ブレーキをきしませて坂を下りていった。町はいつもの朝に戻っていた。
家に戻ると母はもうパートに出たあとだった。台所のテーブルに、ラップをかけたおにぎりが二つ置いてあった。俺の分はないはずだった。立ったままひとつ食べて、もうひとつはリュックに入れた。
*
大学は四ツ谷にある。坂のてっぺんの駅から各駅停車で乗り換えの駅まで出て、そこから中央線に乗る。片道一時間と少し。都心の大学に受かったとき、一人暮らしを勧めてくれる人もいたけれど、俺は家から通うことにした。この町の写真をまだ撮り足りない気がしていたからだ。それを言うと笑われそうだったので、親には「家賃がもったいない」とだけ言った。浮いたお金はだいたい飲み代に消えている。二年が過ぎて、この春、俺は三年になった。
四ツ谷駅の改札を出ると通りの向こうに教会の塔が見える。その隣が俺の通う大学だ。外濠の土手は桜でほとんど白かった。
三年の春からゼミが始まる。俺が選んだのは新聞学科の北条先生の「記録と映像」というゼミだった。写真やドキュメンタリーを題材にしていて、三年と四年が同じ教室で一緒に学ぶ。今日は授業が始まる前の顔合わせの日だった。顔合わせまでまだ三十分あった。
中庭のベンチで缶コーヒーを飲んでいると、見覚えのある紺色が目の前を横切った。
腰まである黒い髪。紺色のスプリングコート。
今朝、踏切にいた人だった。
同じ大学だったのか。そう思うより先に立ち上がっていた。こういうときに迷わないのが俺の数少ない取り柄だ。
「ねえ」
声をかけると彼女が足を止めた。振り向いた顔を明るいところで初めてちゃんと見た。可愛い、と思った。踏切ではそれどころじゃなかったけれど、改めて見ると、かなり。
「今朝の踏切の人でしょ。同じ大学だったんだ」俺は笑った。「これ、運命じゃない?」
彼女はあきれたみたいに笑った。
「運命じゃないよ」
「えー、じゃあ偶然? 偶然でもいいや。何年? 学部どこ? LINE交換しよ」
「しない。急いでるから」
そう言って彼女は教室のある棟のほうへ歩いていった。今朝と同じように、一度も振り返らずに。
「律、今ふられてたでしょ」
後ろから笑い声がした。千夏だった。小田切千夏。一年のときから同じサークルの同期で、俺の女癖にいちばんあきれている女友達だ。
「ふられてない。急いでるって」
「それ、ふられたって言うの」
千夏は紙パックのいちごオレをすすりながら、紺色の後ろ姿を目で追った。
「きれいな人。律、ああいうのタイプだっけ」
「タイプとかないよ、俺」
「知ってる。だから、めずらしいなと思って」
千夏はそう言って新歓のビラを配る人たちのほうへ歩いていった。
「律」
教室のある階の廊下で航に呼び止められた。大河内航。中学からの腐れ縁で、なぜか大学も学科も同じになった。俺と違って真面目なやつで、高校のころから同じ彼女と付き合っている。ゼミだけは別々になった。
「ゆうべの飲み会、どうだった」
「ふつう。三人とLINE交換した」
「お前さあ」航はため息をついた。「そろそろ誰か一人に本気になれよ」
「なれたら、なってるって」
航は中学のころの俺を知っている数少ないやつだ。だからたまにこういうことを言う。
「あと、北条ゼミの四年にきれいな先輩がいるらしいけど、手え出すなよ。ゼミが気まずくなるから」
「出さない出さない」
さっき中庭で出しかけた、とは言わなかった。航は疑わしそうな顔のまま自分の教室へ消えていった。
北条ゼミの教室には長机が四角く並べられていて、十人ちょっとが座っていた。
そして、見つけた。
窓際のいちばん奥の席。紺色のスプリングコートを椅子の背にかけた、腰まである黒い髪の人。今朝、踏切にいた人。さっき、中庭で声をかけた人だった。
ドアの開く音に彼女が顔を上げた。目が合っていたのは一秒くらいだったと思う。彼女はすぐに手元の紺色の手帳に目を落とした。
北条先生は新聞社で二十年カメラマンをしていた人だ。白髪まじりの短い髪で、いつも同じ灰色のジャケットを着ている。声は小さいのに教室の端までよく通った。
顔合わせは自己紹介から始まった。名前と学年と、今いちばん撮りたいもの。北条先生がそう決めた。
三年の佐伯は「実家の酒屋の帳場です」と言った。継ぐかどうかはまだ決めていなくて、決める前に撮っておきたいのだそうだ。言いながら頭をかいていた。
順番が回ってきて、俺は「三年の芹沢律です。地元の踏切ばっかり撮ってます。人は撮らない主義なんで、撮ってって言われても断ります」と言った。何人かが笑って、隣の女子が「もったいなーい」と言った。
四年の長谷川さんは「地元の商店街。シャッターが全部閉まる前に」と言った。笑いながら言ったけれど、冗談には聞こえなかった。
何人か過ぎて、窓際の彼女が立ち上がった。
「四年の水無瀬です」
下の名前は言わなかった。
「撮りたいものは、今は特にないです」
「水無瀬さんは、もう内定も出てるんだったね。出版社だっけ」と北条先生が言った。
「はい」
四年生。ひとつ上の先輩だった。つまり俺はさっき中庭で、ゼミの先輩にタメ口でLINEを聞いていたことになる。航の「手え出すなよ」が頭の中で鳴った。
そのあと一年間の予定表が配られた。前期はそれぞれのテーマを決める。夏に合宿、秋に中間発表。そして二月に、ゼミの作品展。
最後に四年の長谷川さんが「ゼミのLINEグループ作ったんで、入ってくださーい」と、QRコードを表示したスマホを机から机へ回した。俺も読みこんでグループに入った。メンバーの一覧に海の写真のアイコンがあった。名前の欄には「しおり」とだけあった。
北条先生が、自分の古い一眼レフでゼミの集合写真を撮ろうとした。みんなが窓際に集まるなか、彼女だけが「私が撮ります」と言って先生のほうへ手を出した。先生は笑ってカメラを渡した。
*
顔合わせは昼過ぎに終わった。四ツ谷駅のホームで電車を待っていると、隣に誰かが立った。紺色のスプリングコート。
「あ、さっきはすみませんでした。先輩だと思わなくて」
「いいよ」
彼女は前を向いたまま言った。
同じ電車に乗り、乗り換えの駅で同じホームに降りて、同じ各駅停車に乗った。三駅、四駅と過ぎても彼女は降りなかった。
「水無瀬さんも、この線なんすか」
「うん。一年のときから、あの町に住んでる」
「大学から遠くないっすか。一人暮らしなら、もっと近くにも住めそうなのに」
「家賃。四ツ谷のあたりは、高すぎて」
昼過ぎの各駅停車は空いていて、俺たちは並んで座った。並んで座ったけれど、間にひとり分の隙間があった。彼女がそこを空けたのだ。窓の外を桜がちらちら流れていく。
「芹沢くん、写真はいつから?」
「中学から。じいちゃんのお下がりのカメラで」
たいていの女の子はここで「なんで始めたの?」と聞く。聞かれたら「じいちゃんがかっこよかったから」と答えることにしている。嘘ではないけれど、全部でもない。
彼女は聞かなかった。
「そっか」とだけ言って、少しのあいだ俺の首のカメラを見ていた。
「今朝も、あの踏切を撮ってたよね」
「毎年撮ってるんすよ。あの桜」
「そうなんだ」
「てか、水無瀬さんって、下の名前なんていうんすか。自己紹介で言わなかったでしょ」
「栞」
「栞ちゃん」
口が勝手にそう呼んでいた。年上だろうと何だろうと、女の子をちゃん付けで呼ぶのは俺の癖みたいなものだ。
「水無瀬さん、でいいよ」
「えー、硬い。栞ちゃんでよくないすか」
彼女は何か言いかけて、やめた。窓の外に目をやって小さく息を吐いた。
「好きに呼んで」
窓に映った横顔が少しだけ笑ったように見えた。
「てか、さっきのグループから、栞ちゃんのこと友だち追加しちゃったんすけど」
四ツ谷駅のホームで電車を待つあいだにもう追加していた。海の写真のアイコン。
「知ってる。『知り合いかも』に出てた」
「追加し返してくれないんすか」
「しない」
「即答」俺は笑った。「じゃあ、彼氏いるんすか」
彼女は答えなかった。窓の外を住宅街の屋根が流れていった。答えないのが答えなのかどうか、俺には分からなかった。
うちの最寄り駅は坂のいちばん上にあって、ホームからは町が多摩川に向かって下っていくのが全部見える。坂の下には今朝の踏切があって、桜の木がここからだと白い煙みたいに見えた。
改札を出たところで彼女が立ち止まった。
「芹沢くん」
「はい」
「ひとつだけ、お願いしてもいい?」
来た、と思った。追加し返してくれる気になったのかもしれない。それとも今度ごはんとか。そういう流れには慣れている。
彼女はまっすぐに俺を見た。今朝、踏切で振り返ったときと同じ目だった。
「私のこと、好きにならないでね」
駅前のロータリーをバスがゆっくり回っていった。
「……え、俺?」
「お願い」
思わず笑ってしまった。
「あ、中庭とか、さっきの彼氏とかのこと気にしてる? あれはノリっていうか。ならないならない、安心して。てか、初対面でそれ言われたの初めてなんだけど」
彼女は笑わなかった。
「ならないなら、それでいい。じゃあね。また明日」
そう言って彼女は坂を下りていった。途中の分かれ道で、線路から離れていく道へ曲がった。
バスがもう一台回っていくまで、俺はロータリーの前に突っ立っていた。
*
その夜、部屋でカメラを手に取った。フィルムカウンターは「14」を指していた。今朝踏切で撮った一枚は、たぶん十三枚目だ。花びらと風と、ブレた紺色のコート。まだ現像していないから、どう写っているかは分からない。
人の写真を、撮ってしまった。撮るつもりなんて、なかったのに。
スマホにはゆうべの子から通知が二件たまっていた。それは開かないまま、海の写真のアイコンとのトーク画面を開いた。
〈今日はいろいろすみませんでした。三年の芹沢です〉
少し迷ってから、送った。既読は、つかなかった。
階下から母がテレビを見て笑う声がした。父はもう寝ているのだろう。祖父がいたころはこの時間でも居間で誰かが話していた。今はテレビの音しかしない。にぎやかな場所から一人の部屋に戻ってくるこの瞬間が、俺は昔から苦手だ。だからなるべく一人にならないようにしている。
好きにならないで、と頼まれたのは生まれて初めてだった。
ならないよ、と俺は答えた。本気でそう思っていた。誰かを本気で好きになったことなんてたぶん一度もない。これからもないと思っていた。断られると余計に気になる。たぶん、それだけのことだ。
布団に入ってもあの声が耳に残っていた。好きにならないでね。目を閉じるとまぶたの裏に、遮断機の前に立つ紺色の背中が浮かんだ。
頼まれなければ、たぶん考えもしなかった。
頼まれたせいで、俺は彼女のことばかり考えていた。




