一晩で書き換わった「正義」
朝の光が、小さな窓の隙間から細く差し込んでいた。
ルミナは、ベッドの上でまぶたを開けた。天井の木目は、昨夜と同じなのに、胸の中の重さだけが違っている気がする。
床に敷いた毛布の上で、アンリが丸まったまま「うう……」と寝返りを打った。ヒトミはもう起きていて、剣帯を腰に巻き、靴紐を固く締めている。マイは枕元の鞄を開け、紙束を揃え直していた。ヴェイルは壁にもたれた姿勢のまま、目を閉じているのか開けているのか分からない顔で、ただ静かに座っている。
(昨日の広場……)
怒鳴り声。ため息。役人の読み上げる紙の音。
耳の奥に、まだその名残がこびりついていた。
「……下に、行こうか」
第7章 一晩で書き換わった『正義』
朝の光が、小さな窓の隙間から細く差し込んでいた。
ルミナは、ベッドの上でまぶたを開けた。天井の木目は、昨夜と同じなのに、胸の中の重さだけが違っている。
床に敷いた毛布の上で、アンリが「うう……」と寝返りを打った。ヒトミはもう起きていて、剣帯を腰に巻き、靴紐を固く締めている。マイは枕元の鞄を開け、紙束を揃え直していた。ヴェイルは壁にもたれた姿勢のまま、目を閉じて静かに座っている。
(昨日の広場……)
怒鳴り声。ため息。役人の読み上げる紙の音。
耳の奥に、まだ残っていた。
「……下に、行こうか」
ルミナがそう言うと、毛布の塊からぱっとアンリの顔が出た。
「朝ごはん?」
「朝ごはん」
「行く!」
アンリは一瞬で跳ね起きた。
階段を降りると、一階の広間は、昨夜よりも静かだった。
丸い卓も、暖炉も、椅子の位置も変わっていない。変わっていないのに、空気だけが違う。怒鳴り声は飛んでいない。代わりに、押し殺した声が低く漂っていた。
「……だからさ、もうちょっと様子見たほうがいいって」
近くの卓から、男の声が聞こえる。
「勝手に撃ったりしたら、あとで何言われるか分かんねえだろ。罰だの何だのって話まで出てきてんだ」
「昨日と言ってること、逆じゃねえか?」
向かいの男が笑う。
「昨日は『全部やっちまえ』って一番吠えてたくせに」
「状況が変わったんだよ」
言い返す声には、笑いよりも苛立ちが混じっていた。
ルミナたちがいつもの卓に座ると、宿の主人がパンと薄いスープを運んできた。
「おはようさん。……朝から騒がしくて悪いねえ」
「大丈夫です」
ルミナが答えると、主人は困ったように笑った。
「昨日あれだけ言い合ってたろ? 一晩寝たら、今度は違う心配してる」
「違う心配?」
アンリがパンをちぎりながら首をかしげる。
主人は少し声を落とした。
「クマの話を広げすぎると、森の向こうの町との取引がややこしくなるんじゃないかってさ。材木の買い付けだの、道の工事だの……そういう話が、夜のあいだに広まったんだろうよ」
マイの指先が、スプーンの柄の上で一瞬止まる。
「取引、ですか」
「詳しいことは知らないよ。村長と商人と役所の人が頭抱えるような話さ」
主人は肩をすくめた。
「ただ、すごいだろう? 昨日はみんな『クマのせいで暮らせない』って怒鳴ってたのに、今朝は『クマの話しすぎると暮らせない』って顔してるんだから」
そう言って、別の卓の空いた皿を集めに行った。
アンリが、テーブルの上でパンを転がす。
「なんか……ぐるぐるしてきた」
「なにが?」
「クマが怖くて困ってるのに、クマの話のせいで仕事止まるのも困るって……どっちも本当なんだろうけどさ」
アンリは、パンをかじりながら額にしわを寄せた。
「選べないから、みんなその時々で一番大きいほうを口にしてるんでしょうね」
マイが静かに言う。
「昼は怖いほうが勝って、夜になると暮らしのほうが勝つ。揺れてる」
ルミナはスープをひと口飲んだ。温かさが喉を通っていくのに、胸のざわざわは収まらない。
(クマのことだけじゃ、もう考えられないんだ)
森。道。木。仕事。役所。
昨日よりも、絡まった糸の数が増えている。
「とりあえず」
ヴェイルが口を開いた。
「今朝の村の様子を、少し見ておきましょう。昨日から、どう変わっているのか」
「ボク、また広場行きたい」
アンリが手を挙げる。
「昨日、地面に山と里の絵を描いてた子たち、どうしてるかな」
「今回は別々に動きましょう」
ヒトミがカップを置く。
「広場のほうと、外れのほうと」
「外れ?」
ルミナが顔を上げた。
ヴェイルが、卓の上に肘をついて少し身を寄せる。
「昨日の夜、ヒトミとアンリから聞きました。柵の近くへ行く子どもを見たと」
ルミナの心臓が、きゅっと縮む。
「……柵?」
「クマが出てくる斜面の近くです」
ヴェイルの声は落ち着いている。
「細い坂道の先に家が一軒あって、そこにその子が住んでいるらしい。名前は──」
ルミナが、昨日の光景を思い出す。薄い色のワンピース。肩までの髪。包みを抱えた腕。
斜面から現れた子グマと、その前に立っていた小さな背中。
「ツグミ、ちゃん」
ルミナは小さく呟いた。
ヴェイルが頷く。
「昨日、見かけた子ですね」
「あの子が"噂の子"なら……」
マイが、パンを指先でくるりと回した。
「今日のうちに、一度は会っておいたほうがいいと思うわ」
「噂だけで振り回されるの、一番嫌い」
ヒトミが短く付け足す。
「クマのことも、その子のことも、"誰かの話"だけで判断したくない」
アンリが、ぎゅっと拳を握った。
「うん。ボクたちも、できることやる」
ルミナは、しばらく黙ってから口を開いた。
「……わたしも、会いたいです」
自分でも驚くほど、声がはっきりしていた。
「何を言えばいいのかは、まだ分からない。それでも、何も聞かないまま、この村を出たくない」
ヴェイルはルミナを見て、それから他の三人の顔も順に確かめた。
「では、ルミナと私でツグミの家へ行きます。マイたちは、広場と馬車のほうを」
「了解」
マイが頷く。
「村の論調が定まってない。このまま状況が落ち着けば、出入り禁止が解けるかもしれない。馬車も確認しておく」
「ボクも広場に行く」
アンリが椅子から飛び降りる。
「昨日、地面に山と里描いてた子たち、何してるか見てみる」
ヒトミは軽く伸びをした。
「じゃ、一時間後にまたここで」
広場は、昨日とは違う騒がしさがあった。
怒鳴り声ではなく、小さな声の重なりだった。
「だからさ、あんまり派手な真似すんなって。向こうの町の商会が、様子見てるらしいぞ」
「何をだよ」
「クマの話だよ。騒ぎが大きくなりすぎると、道の工事も荷の出入りも止められるって」
「止められて困るのは、こっちだろ」
「だからよ。クマに出てこられても困るし、クマの話で上に止められても困る。どっち向いて怒ればいいか分かんねえ」
別のところでは、昨日の"退治派"の男が、今度は声を落として話している。
「いざってときに斬れりゃそれでいいんだよ。普段から騒いでると、本当に危ないとき誰も信じねえだろ」
「誰に?」
「誰だっていいさ」
男は頭をがりがり掻いた。
「上かもしれねえし、商人かもしれねえし、村の中の誰かかもしれねえ。……もう分かんねえんだよ」
その声を背にして、ルミナとヴェイルは広場を抜けた。
(昨日より、静かなようで、うるさい)
ルミナは、胸のうちで呟く。
言葉の音量は小さくなったのに、誰も口を閉じていない。
「こっちです」
ヴェイルが、村の外れへ続く細い道を指した。
家々の間を抜けると、畑と畑のあいだを通る坂道に出る。
村の中心よりも、風が強い。
坂を登りきったところに、白い壁の小さな家が一軒、ぽつんと建っている。
壁はところどころ灰色にくすみ、屋根の端には苔がついていた。庭と道の境目にある低い柵は、少し傾いている。門は半分開いたままだった。
「ここ、かな」
ルミナは唾を飲み込んだ。
ヴェイルが先に門をくぐり、玄関の前に立つ。
扉は古いが、しっかりした板でできていた。
ヴェイルは軽く拳を握り、二度、こんこんと叩く。
中から、足音が一つ駆け寄ってくる。
「……はい」
扉が、指一本分だけ開いた。
その隙間から覗いた淡い色の瞳に、ルミナは見覚えがあった。
昨日、柵の向こうを見ていた少女。
クマの影と、同じ場所に立っていた小さな背中。
「ツグミ、ちゃん?」
ルミナは思わず名前を呼び、はっとした。
少女は、目を丸くした。
「……だれ?」
ヴェイルが一歩だけ前に出る。
「昨日、柵のそばでお見かけしました。突然押しかけてすみません。少しだけ、お話を聞かせてもらえませんか」
ツグミの喉が、小さく上下する。
扉の隙間が、ほんの少しだけ狭くなった。
「……お母さん、呼んできます」
細い声でそう言って、ツグミは一度扉を閉めた。
木の板の向こうで、小さな足音が遠ざかっていく。
ルミナは両手を胸の前で組み、深く息を吸った。
森のことも、クマのことも、村の怒鳴り声も。
その全部が、あの小さな背中に、どんなふうに乗っているのか。
知りたい気持ちと、聞くのが怖い気持ちが、喉の奥でからまり合う。
やがて、別の足音が近づいてきた。
今度は、ゆっくりとした、大人の歩幅の音。
金具のきしむ音とともに、扉がさっきより大きく開く。
現れたのは、痩せた頬に深い隈を浮かべた女の人だった。
エプロンの端を握りしめ、その後ろから、ツグミがそっと覗いている。
「……村の方ではないですよね」
女の人は、二人の服装と荷物を一度だけ見てから、かすれた声で言った。
「ツグミから聞きました。お話があると」
ルミナは、うなずいた。
言葉を選んでいる間に、胸の鼓動が一つ、二つと数えられる。
「はい。ツグミちゃんのこと、直接お話を聞けたら、と思って」
女の人は、短く息を吐いた。
その吐息には、警戒と、諦めと、ほんの少しの安堵が混じっているように見えた。
「……立ち話もなんですから。大したおもてなしもできませんが、中へどうぞ」
そう言って、扉を横に引く。
ツグミは、母親の後ろで小さく会釈した。
その指先は、エプロンの裾をぎゅっと握ったままだった。
ルミナは、玄関の敷居を見下ろす。
この家の中に、あの子の暮らしがある。
一度だけ外を振り返ってから、ルミナは家の中へ足を踏み入れた。
遠く、森の影は見えない。
見えるのは、村の屋根と、洗濯物と、細い畑の列だけ。
その全部の上に、昨日から引かれ続けている目に見えない線を思い浮かべながら。
◇
その頃、広場では、人の輪が急に膨らんでいた。
マイとアンリとヒトミが広場の端に着いたとき、すでに数十人が集まり、声が飛び交っていた。
「本当か!?」
「畑の近くで襲われたって!」
「誰だ!?」
怒鳴り声。悲鳴に近い叫び。
朝までの「騒ぐな」という空気が、一瞬で吹き飛んでいた。
「何があった?」
ヒトミが近くの男に声をかける。
男は振り返り、震える声で答えた。
「クマだ! さっき、北の畑でクマに襲われた!」
「誰が!?」
「トウマのおやじだ! 朝、畑に出て、そのまま……」
男の声が震える。
アンリの顔が青ざめた。
「死んだの……?」
「いや、まだ生きてる! でも、腕をやられて……血が、すごくて」
マイは、すぐに状況を整理し始めた。
「北の畑って、どのあたりですか」
「柵の外だ! 役人が引いた赤い線の、外側だよ!」
男は吐き捨てるように言った。
「『線の外は守れない』って言われた場所だ! その通りになったってわけだ!」
広場の別の場所から、また声が上がる。
「だから言ったんだ! クマを野放しにするからだ!」
「昨日の夜は何だったんだよ! 『騒ぐな』『仕事が止まる』って!」
「仕事もクソもねえだろ! 人が死にかけてんだぞ!」
さっきまで「取引が」「商会が」と小声で話していた男たちが、今度は別の顔をしていた。
「撃てないなんて、誰が決めたんだ!」
「役人はどこだ! 村長は!?」
「現場に行ってるらしいぞ!」
「全部やっちまえ!」
「クマを残したら、次は誰がやられる!」
ヒトミは、その声を聞きながら、静かに呟いた。
「また変わった」
「何が?」
アンリが聞き返す。
「『正義』よ。血が流れたから、すぐに」
ヒトミは、広場の中心を見据えた。
「昨日の昼は『クマを殺せ』。夜は『騒ぐな』。今はまた『クマを殺せ』」
マイは、眼鏡を押し上げた。
「血が流れたから」
その声は、冷たいほど冷静だった。
「人が傷ついたから、『正義』が動いた。出入り禁止が解ける可能性は、これで消えた」
アンリは、拳を握りしめた。
「ルミナたちに、知らせなきゃ」
「ええ」
マイが頷く。
「ツグミちゃんの家。今すぐ向かいましょう」
三人は、広場の喧噪に背を向けて駆け出した。




