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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第四章 新たな生活

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一晩で書き換わった「正義」

朝の光が、小さな窓の隙間から細く差し込んでいた。


ルミナは、ベッドの上でまぶたを開けた。天井の木目は、昨夜と同じなのに、胸の中の重さだけが違っている気がする。


床に敷いた毛布の上で、アンリが丸まったまま「うう……」と寝返りを打った。ヒトミはもう起きていて、剣帯を腰に巻き、靴紐を固く締めている。マイは枕元の鞄を開け、紙束を揃え直していた。ヴェイルは壁にもたれた姿勢のまま、目を閉じているのか開けているのか分からない顔で、ただ静かに座っている。


(昨日の広場……)


怒鳴り声。ため息。役人の読み上げる紙の音。

耳の奥に、まだその名残がこびりついていた。


「……下に、行こうか」


第7章 一晩で書き換わった『正義』


朝の光が、小さな窓の隙間から細く差し込んでいた。


ルミナは、ベッドの上でまぶたを開けた。天井の木目は、昨夜と同じなのに、胸の中の重さだけが違っている。


床に敷いた毛布の上で、アンリが「うう……」と寝返りを打った。ヒトミはもう起きていて、剣帯を腰に巻き、靴紐を固く締めている。マイは枕元の鞄を開け、紙束を揃え直していた。ヴェイルは壁にもたれた姿勢のまま、目を閉じて静かに座っている。


(昨日の広場……)


怒鳴り声。ため息。役人の読み上げる紙の音。

耳の奥に、まだ残っていた。


「……下に、行こうか」


ルミナがそう言うと、毛布の塊からぱっとアンリの顔が出た。


「朝ごはん?」


「朝ごはん」


「行く!」


アンリは一瞬で跳ね起きた。


階段を降りると、一階の広間は、昨夜よりも静かだった。


丸い卓も、暖炉も、椅子の位置も変わっていない。変わっていないのに、空気だけが違う。怒鳴り声は飛んでいない。代わりに、押し殺した声が低く漂っていた。


「……だからさ、もうちょっと様子見たほうがいいって」


近くの卓から、男の声が聞こえる。


「勝手に撃ったりしたら、あとで何言われるか分かんねえだろ。罰だの何だのって話まで出てきてんだ」


「昨日と言ってること、逆じゃねえか?」


向かいの男が笑う。


「昨日は『全部やっちまえ』って一番吠えてたくせに」


「状況が変わったんだよ」


言い返す声には、笑いよりも苛立ちが混じっていた。


ルミナたちがいつもの卓に座ると、宿の主人がパンと薄いスープを運んできた。


「おはようさん。……朝から騒がしくて悪いねえ」


「大丈夫です」


ルミナが答えると、主人は困ったように笑った。


「昨日あれだけ言い合ってたろ? 一晩寝たら、今度は違う心配してる」


「違う心配?」


アンリがパンをちぎりながら首をかしげる。


主人は少し声を落とした。


「クマの話を広げすぎると、森の向こうの町との取引がややこしくなるんじゃないかってさ。材木の買い付けだの、道の工事だの……そういう話が、夜のあいだに広まったんだろうよ」


マイの指先が、スプーンの柄の上で一瞬止まる。


「取引、ですか」


「詳しいことは知らないよ。村長と商人と役所の人が頭抱えるような話さ」


主人は肩をすくめた。


「ただ、すごいだろう? 昨日はみんな『クマのせいで暮らせない』って怒鳴ってたのに、今朝は『クマの話しすぎると暮らせない』って顔してるんだから」


そう言って、別の卓の空いた皿を集めに行った。


アンリが、テーブルの上でパンを転がす。


「なんか……ぐるぐるしてきた」


「なにが?」


「クマが怖くて困ってるのに、クマの話のせいで仕事止まるのも困るって……どっちも本当なんだろうけどさ」


アンリは、パンをかじりながら額にしわを寄せた。


「選べないから、みんなその時々で一番大きいほうを口にしてるんでしょうね」


マイが静かに言う。


「昼は怖いほうが勝って、夜になると暮らしのほうが勝つ。揺れてる」


ルミナはスープをひと口飲んだ。温かさが喉を通っていくのに、胸のざわざわは収まらない。


(クマのことだけじゃ、もう考えられないんだ)


森。道。木。仕事。役所。

昨日よりも、絡まった糸の数が増えている。


「とりあえず」


ヴェイルが口を開いた。


「今朝の村の様子を、少し見ておきましょう。昨日から、どう変わっているのか」


「ボク、また広場行きたい」


アンリが手を挙げる。


「昨日、地面に山と里の絵を描いてた子たち、どうしてるかな」


「今回は別々に動きましょう」


ヒトミがカップを置く。


「広場のほうと、外れのほうと」


「外れ?」


ルミナが顔を上げた。


ヴェイルが、卓の上に肘をついて少し身を寄せる。


「昨日の夜、ヒトミとアンリから聞きました。柵の近くへ行く子どもを見たと」


ルミナの心臓が、きゅっと縮む。


「……柵?」


「クマが出てくる斜面の近くです」


ヴェイルの声は落ち着いている。


「細い坂道の先に家が一軒あって、そこにその子が住んでいるらしい。名前は──」


ルミナが、昨日の光景を思い出す。薄い色のワンピース。肩までの髪。包みを抱えた腕。


斜面から現れた子グマと、その前に立っていた小さな背中。


「ツグミ、ちゃん」


ルミナは小さく呟いた。


ヴェイルが頷く。


「昨日、見かけた子ですね」


「あの子が"噂の子"なら……」


マイが、パンを指先でくるりと回した。


「今日のうちに、一度は会っておいたほうがいいと思うわ」


「噂だけで振り回されるの、一番嫌い」


ヒトミが短く付け足す。


「クマのことも、その子のことも、"誰かの話"だけで判断したくない」


アンリが、ぎゅっと拳を握った。


「うん。ボクたちも、できることやる」


ルミナは、しばらく黙ってから口を開いた。


「……わたしも、会いたいです」


自分でも驚くほど、声がはっきりしていた。


「何を言えばいいのかは、まだ分からない。それでも、何も聞かないまま、この村を出たくない」


ヴェイルはルミナを見て、それから他の三人の顔も順に確かめた。


「では、ルミナと私でツグミの家へ行きます。マイたちは、広場と馬車のほうを」


「了解」


マイが頷く。


「村の論調が定まってない。このまま状況が落ち着けば、出入り禁止が解けるかもしれない。馬車も確認しておく」


「ボクも広場に行く」


アンリが椅子から飛び降りる。


「昨日、地面に山と里描いてた子たち、何してるか見てみる」


ヒトミは軽く伸びをした。


「じゃ、一時間後にまたここで」


広場は、昨日とは違う騒がしさがあった。


怒鳴り声ではなく、小さな声の重なりだった。


「だからさ、あんまり派手な真似すんなって。向こうの町の商会が、様子見てるらしいぞ」


「何をだよ」


「クマの話だよ。騒ぎが大きくなりすぎると、道の工事も荷の出入りも止められるって」


「止められて困るのは、こっちだろ」


「だからよ。クマに出てこられても困るし、クマの話で上に止められても困る。どっち向いて怒ればいいか分かんねえ」


別のところでは、昨日の"退治派"の男が、今度は声を落として話している。


「いざってときに斬れりゃそれでいいんだよ。普段から騒いでると、本当に危ないとき誰も信じねえだろ」


「誰に?」


「誰だっていいさ」


男は頭をがりがり掻いた。


「上かもしれねえし、商人かもしれねえし、村の中の誰かかもしれねえ。……もう分かんねえんだよ」


その声を背にして、ルミナとヴェイルは広場を抜けた。


(昨日より、静かなようで、うるさい)


ルミナは、胸のうちで呟く。


言葉の音量は小さくなったのに、誰も口を閉じていない。


「こっちです」


ヴェイルが、村の外れへ続く細い道を指した。


家々の間を抜けると、畑と畑のあいだを通る坂道に出る。

村の中心よりも、風が強い。


坂を登りきったところに、白い壁の小さな家が一軒、ぽつんと建っている。


壁はところどころ灰色にくすみ、屋根の端には苔がついていた。庭と道の境目にある低い柵は、少し傾いている。門は半分開いたままだった。


「ここ、かな」


ルミナは唾を飲み込んだ。


ヴェイルが先に門をくぐり、玄関の前に立つ。


扉は古いが、しっかりした板でできていた。

ヴェイルは軽く拳を握り、二度、こんこんと叩く。


中から、足音が一つ駆け寄ってくる。


「……はい」


扉が、指一本分だけ開いた。


その隙間から覗いた淡い色の瞳に、ルミナは見覚えがあった。


昨日、柵の向こうを見ていた少女。

クマの影と、同じ場所に立っていた小さな背中。


「ツグミ、ちゃん?」


ルミナは思わず名前を呼び、はっとした。


少女は、目を丸くした。


「……だれ?」


ヴェイルが一歩だけ前に出る。


「昨日、柵のそばでお見かけしました。突然押しかけてすみません。少しだけ、お話を聞かせてもらえませんか」


ツグミの喉が、小さく上下する。


扉の隙間が、ほんの少しだけ狭くなった。


「……お母さん、呼んできます」


細い声でそう言って、ツグミは一度扉を閉めた。


木の板の向こうで、小さな足音が遠ざかっていく。


ルミナは両手を胸の前で組み、深く息を吸った。


森のことも、クマのことも、村の怒鳴り声も。

その全部が、あの小さな背中に、どんなふうに乗っているのか。


知りたい気持ちと、聞くのが怖い気持ちが、喉の奥でからまり合う。


やがて、別の足音が近づいてきた。


今度は、ゆっくりとした、大人の歩幅の音。

金具のきしむ音とともに、扉がさっきより大きく開く。


現れたのは、痩せた頬に深い隈を浮かべた女の人だった。

エプロンの端を握りしめ、その後ろから、ツグミがそっと覗いている。


「……村の方ではないですよね」


女の人は、二人の服装と荷物を一度だけ見てから、かすれた声で言った。


「ツグミから聞きました。お話があると」


ルミナは、うなずいた。


言葉を選んでいる間に、胸の鼓動が一つ、二つと数えられる。


「はい。ツグミちゃんのこと、直接お話を聞けたら、と思って」


女の人は、短く息を吐いた。


その吐息には、警戒と、諦めと、ほんの少しの安堵が混じっているように見えた。


「……立ち話もなんですから。大したおもてなしもできませんが、中へどうぞ」


そう言って、扉を横に引く。


ツグミは、母親の後ろで小さく会釈した。

その指先は、エプロンの裾をぎゅっと握ったままだった。


ルミナは、玄関の敷居を見下ろす。


この家の中に、あの子の暮らしがある。


一度だけ外を振り返ってから、ルミナは家の中へ足を踏み入れた。


遠く、森の影は見えない。

見えるのは、村の屋根と、洗濯物と、細い畑の列だけ。


その全部の上に、昨日から引かれ続けている目に見えない線を思い浮かべながら。



その頃、広場では、人の輪が急に膨らんでいた。


マイとアンリとヒトミが広場の端に着いたとき、すでに数十人が集まり、声が飛び交っていた。


「本当か!?」


「畑の近くで襲われたって!」


「誰だ!?」


怒鳴り声。悲鳴に近い叫び。

朝までの「騒ぐな」という空気が、一瞬で吹き飛んでいた。


「何があった?」


ヒトミが近くの男に声をかける。


男は振り返り、震える声で答えた。


「クマだ! さっき、北の畑でクマに襲われた!」


「誰が!?」


「トウマのおやじだ! 朝、畑に出て、そのまま……」


男の声が震える。


アンリの顔が青ざめた。


「死んだの……?」


「いや、まだ生きてる! でも、腕をやられて……血が、すごくて」


マイは、すぐに状況を整理し始めた。


「北の畑って、どのあたりですか」


「柵の外だ! 役人が引いた赤い線の、外側だよ!」


男は吐き捨てるように言った。


「『線の外は守れない』って言われた場所だ! その通りになったってわけだ!」


広場の別の場所から、また声が上がる。


「だから言ったんだ! クマを野放しにするからだ!」


「昨日の夜は何だったんだよ! 『騒ぐな』『仕事が止まる』って!」


「仕事もクソもねえだろ! 人が死にかけてんだぞ!」


さっきまで「取引が」「商会が」と小声で話していた男たちが、今度は別の顔をしていた。


「撃てないなんて、誰が決めたんだ!」


「役人はどこだ! 村長は!?」


「現場に行ってるらしいぞ!」


「全部やっちまえ!」


「クマを残したら、次は誰がやられる!」


ヒトミは、その声を聞きながら、静かに呟いた。


「また変わった」


「何が?」


アンリが聞き返す。


「『正義』よ。血が流れたから、すぐに」


ヒトミは、広場の中心を見据えた。


「昨日の昼は『クマを殺せ』。夜は『騒ぐな』。今はまた『クマを殺せ』」


マイは、眼鏡を押し上げた。


「血が流れたから」


その声は、冷たいほど冷静だった。


「人が傷ついたから、『正義』が動いた。出入り禁止が解ける可能性は、これで消えた」


アンリは、拳を握りしめた。


「ルミナたちに、知らせなきゃ」


「ええ」


マイが頷く。


「ツグミちゃんの家。今すぐ向かいましょう」


三人は、広場の喧噪に背を向けて駆け出した。



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