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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第四章 新たな生活

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黄昏の噂

広場から離れた場所で、ルミナたちは立ち止まった。


さっきまで人でいっぱいだった輪は、ゆっくりと解けていく。

畑へ戻る者、家に駆け込む者、井戸のほうへ向かう者。

怒鳴り声やため息だけが、まだ石畳の上に薄く残っているように感じられた。


「……しばらく、この村を出られそうにありませんね」


ヴェイルが、低くそう言った。


門のほうから、御者の怒鳴り声が聞こえてくる。

馬車の荷台には布に包まれた荷物が、まだ山のように積まれたままだ。馬も落ち着かない様子で、蹄をコツコツと鳴らしているが、出発の気配はどこにもない。


「クマの件が落ち着くまで、出入りを絞るそうです」


マイが、さっき役人と村長が話していた内容をなぞるように言う。


アンリが荷物の紐を持ち上げ、そのままぐったりと肩から下ろした。


「つまり、足止め?」


「足止めっていうより、封鎖ね」


ヒトミが空を見上げる。

昼はとうに過ぎ、太陽は村の真上からほんの少しずれている。影が、気づかないうちに長くなりはじめていた。


「嫌な時間だわ。まだ明るいのに、もう夕方の気配がする」


ヴェイルは、門と広場のあいだの通りを一度見渡し、わずかに息を吐いた。


「人の声が減ったのに、ざわつきは増えている。情報が曲がり始めてます」


「どういうこと?」


ルミナが顔を向けると、ヴェイルは静かに答えた。


「事実は一つなのに、聞いた人の数だけ別の話になる」


喉の奥がきゅっと縮むのを、ルミナは自覚した。

門のところで話した、自分の言葉。

それがどこまで届くのか、まだ想像できていない。


「二人ずつで動きましょう」


ヴェイルが言う。


「離れすぎないように。今は、空気の流れを知っておくべきです」


「はいはい、了解。じゃ、ボクは――」


「アンリは私と」


ヒトミが即座に制した。


「ひとりでふらふら歩かせたら、絶対に何か拾ってくるもの」


「え、拾わないよ? ……たぶん」


「"たぶん"がいちばん危ないの」


ヒトミは笑って、アンリの頭をぽんと叩く。


「ルミナとマイは?」


「じゃあ、わたしたちは宿のほうと、市場通りを見てきます」


ルミナが答えた。


「さっきの話を聞いた人たちが、どんな顔をしているのか、気になっていて」


マイは「そうね」と呟き、眼鏡の位置を指先で直した。


「一時間後に、宿の前で。……それまでに大きな騒ぎが起きていないことを祈るわ」


「祈るだけで済めば、いちばん楽なんですけどね」


ヴェイルが、かすかに口元を緩めた。


それぞれ、別の方向へ歩き出す。



宿の前の通りは、広場ほどではないが、いつもより人が多かった。


さっきまで宿の中にいたであろう村人たちが、入口のあたりで立ち止まり、煙草をふかしながら空を見上げている。誰も大きな声では話していない。ぽつりぽつりと交わされる言葉が、すぐに消えていく。


「お嬢さん方、お疲れでしょうに」


宿の主人が、桶の水を運びながら声をかけてきた。


「さっきは……変な場面を見せちまって、悪かったね」


「変じゃないですよ」


ルミナは首を横に振る。


「みんな、必死でした」


主人は苦笑した。


「そう言ってもらえるのは助かるけどね。外から来た人に見られると、自分たちのちっぽけさばかり目についちまって」


「ちっぽけ、ですか?」


「森のことも、役所のことも、よく分からない。それでも、目の前の畑と家族は守らなきゃならない」


主人は桶を地面におろし、腰を伸ばした。


「誰かが『こうしろ』って決めてくれりゃ楽なんだがね。クマのことも、森のことも。……まぁ、そんな都合のいい話はないけどさ」


マイが、その言葉に反応した。


「ええ。でも、そういう人がいたとしても、きっと誰かは不満を持つんでしょうね」


彼女は、宿の軒からのびる影を見上げる。


主人は苦笑して、桶をまた持ち上げた。


「せいぜい、猟師のじいさんと、村長くらいのもんさ。上を見ながら、足元も見てくれるのは」


そう言って、宿の裏手へと消えていく。


「今はきっと、誰よりも頭を抱えているはずよ」


マイは通りの向こうを眺める。


「役人が来て、地図を広げて、それでも村は何も決まらない。今日のあれは、話の"始まり"に過ぎないもの」


ルミナは、ふとさっきの広場の光景を思い出した。


怒鳴る人。震えながら聞いている人。

立つ猟師。紙を読んで頭を下げる役人。


そのどこにも、自分たちの居場所はないように見えた。


「マイさんは、もしあの中に立たされていたら、どうしますか?」


「嫌な質問ね」


マイは苦笑し、少しだけ考えてから答えた。


「たぶん、『全部分かってるから任せて』って顔は、できないわ」


「じゃあ、なんて?」


「『今はこうするしかない。でも、全部うまくいくとは限らない』くらいね」


マイは、握っていた荷物の紐を持ち直した。


「言葉は、伝わる途中で勝手に形を変えるの。さっきの話も、きっともうどこかで変わり始めてる」


「さっきの……クマと女の子の、話ですか」


喉の奥が熱くなるのを、ルミナは意識した。


自分たちが門のところで伝えた、「見たこと」。

あれはただの報告で、誰も責めるつもりなんてなかった。


(でも、それを聞いた人が、また誰かに話して)


それぞれの言葉や不安が、くっついたり削れたりしながら広がっていく。


「行きましょう」


マイが市場通りのほうを顎で示した。


「今のうちに、様子を見ておきたいわ」



通りを抜けると、露店がいくつか並んでいる場所に出た。


野菜を積んだ台、干し肉を吊るした棚、編みかごに入った卵。

いつもならもっと賑やかなのだろうが、今日はどの店にも客は少ない。


そのかわり、店先の影に、子どもたちが固まっていた。

遊んでいるというより、大人たちの話から逃げ場を探しているようだった。


「ねえ、ほんとに外出ちゃだめなの?」


「クマに食べられたら、どうするのよ!」


「でもさ、クマって、全部で何匹いるんだっけ」


「三匹? 四匹?」


「さっき、隣の家の人が"五匹"って言ってたよ」


「五匹!? そんなにいるの?」


「うちのお父さんは"二匹"って言ってた」


「結局、誰も本当の数、知らないんじゃん」


声が、風に乗って届いてくる。


ルミナは足を止め、そのまま聞いていた。


「ねえ、村のはずれの子、クマにパンあげてるんだって」


一番端にいた少年が、小声で付け足した。


「またその話?」


「うん。うちの母ちゃんが言ってた。『あの子、また行ってたんだって』って」


「どの子よ」


「ほら、お母さんと二人だけで暮らしてる……」


「ああ、ツグミか」


別の子どもが顔をしかめる。


「それ、見つかったら絶対怒られるって」


「怒られるくらいで済めばいいけどさ」


最初の少年が、足先で石を蹴った。


「クマがツグミのこと覚えちゃったらどうすんの? 家まで来るかもしれないじゃん」


「うちの畑のほうにも来るかもしれないだろ」


「でもさ、ツグミの気持ちも分かるかも」


ぽつりと、別の声が混じる。


「クマ、お腹すいてたんだろ。母ちゃん、いつも言うじゃん。『お腹すかせてるの見るのが、いちばんつらい』って」


「だからって、危ないもんは危ないんだよ!」


声が段々大きくなり、近くの大人が「こら、静かにしなさい」と注意する。


子どもたちは口を閉じるが、その目だけは落ち着きなく揺れていた。


「……もう、"クマにパンをあげる子"というレッテルがついたのね」


マイが、低く呟いた。


「クマの数も、話すたびに増えてる」


「今、聞いた話は、わたしたちが話したことと、ずいぶん違いました」


ルミナは胸のあたりを押さえた。


「わたしたち、そんなふうには言ってなくて……でも、ちゃんと止めたわけでもなくて」


門の前で、猟師と話したときの自分の声が、耳によみがえる。


"女の子が、柵のそばでパンをあげていました"


ただの事実として言ったつもりだった。

そこに、自分の評価や責める気持ちを混ぜたくなくて。


(でも、誰かが「危ない」と足して、別の誰かが「馬鹿だ」と足して、今はもう)


「噂ってね」


マイが、子どもたちから少し離れた場所で立ち止まった。


「"誰が最初に言ったか"より、"誰がどう受け取って伝えたか"のほうが、ずっと影響が大きいの」


「受け取って……」


「さっきの子たちを例にすると」


マイは目線を落としたまま、さらりと続ける。


「一人目は『パンをあげてる子がいる』と聞いた。二人目は『怒られる』を足した。三人目は『家まで来る』を足した。今の時点で、"クマにパンをあげてる子は、みんなを危険にさらしてる"って話に変わってる」


ルミナの喉が、ごくりと鳴った。


「このまま放っておけば、『その子をやめさせろ』って声と、『あの子を守れ』って声がぶつかるわ」


マイは、遠くの空を一度だけ見上げる。


「クマそのものより先に、噂のほうが人を傷つけ始めるわ」


「噂が……先に」


ルミナは、自分の言葉が伝わっていって、誰かの口からまったく別の形で出ていく様子を想像した。


("見た"って言っただけなのに)


その"だけ"が、思ったより重い。



一方その頃、ヒトミとアンリは、村のはずれのほうへ向かって歩いていた。


畑と畑のあいだに通された細い道。

草の匂いと、乾いた土の匂いが混ざり合っている。村の真ん中よりも、風がよく通る場所だった。


「さっきの集まり、疲れたね」


アンリが、大きく伸びをした。


「何に疲れた?」


「なんか……みんな正しいこと言ってるみたいなのに、ずっと喧嘩してるとこ」


アンリは、空に手を伸ばしてみせる。


「ボク、ああいうの苦手。どっちかがすごく間違ってて、どっちかがすごく正しいなら、まだ分かりやすいのに」


「そんなに単純な話なら、とっくに決着ついてるわよ」


ヒトミは、道端の石をつま先で蹴りながら言う。


「"どっちも少しずつ正しくて、どっちも少しずつ間違ってる"から、ああなるの」


「ヒトミは、どっち寄り?」


アンリが横から覗き込むように尋ねる。


「クマ守る派? クマ全部やっちゃえ派?」


「どっち寄りに見える?」


「……ボクの知ってるヒトミなら、"守りたいほう"寄り」


「正解」


ヒトミは、唇の端をわずかに上げた。


「ただし、守りたいものが増えれば増えるほど、守れないものも増える」


「ややこしいこと言わないでよ」


アンリが顔をしかめる。


「ヒトミ、クマは好き?」


「好きとか嫌いとかじゃないわ」


ヒトミは空を見上げた。


「危険よ。ただ、理解してる。何がどう危険かわかっていれば、問題ない」


「さっきの猟師さんも、そんな感じだったね」


アンリは、門のそばで槍を持っていた男を思い出す。


「クマの味方ってわけでもないけど、"全部悪い"って言ってなかったし」


「現場で向き合ってる人は、大体そうなるのよ」


ヒトミは、頬の傷を指先でなぞった。


「昔ね、噂が先に走って、まだ何もしてない人が"敵"にされたことがある」


「……ヒトミの、前いたところで?」


「そう」


ヒトミは、それ以上詳しくは語らなかった。


「誰かが『あいつは危ない』って言った。最初はそれだけ。次の日には、『この前も怪しかった』が足されて、その次の日には、『前からそうだった』に変わった。最後は――」


そこで言葉を切り、肩をすくめる。


「"みんながあいつは危ないって言ってた"になってたわ」


アンリは足を止めた。


「その人、どうなったの?」


ヒトミは、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「……生きてるかどうかも、もう知らない」


風が、ふっと強くなった。


「噂が人を殺す、って、そういうこと」


ヒトミは言う。


「だから私は、クマより先に噂のほうを警戒する」


アンリは、少し黙ってから口を開いた。


「……ルミナたち、見ちゃったんだよね。あの子のこと」


「ええ」


「大事なのは、そのあと」


ヒトミは、村の外れに続く坂道を見上げた。


「噂がどう広がるかを見て、必要なら止めること」


坂の途中に、誰かの背中が見えた。


「あ」


アンリが声を漏らす。


薄い色のワンピース。肩までの髪。

斜面のほうをじっと見つめている少女。


さっき柵のそばで包みを抱えていた子だ。


「行く?」


ヒトミが尋ねる。


アンリは一瞬迷い、それから首を横に振った。


「……今は、見てるだけ」


「そう」


ヒトミは、それ以上何も言わなかった。


少女の手には、何も持たれていない。

ただ、柵の向こうをじっと見ている。


そこに、クマの影はない。

乾いた草が揺れ、遠くで鳥の声がした。


やがて少女は、踵を返した。


村へ戻る足取りは、重くはないけれど、弾んでもいなかった。

途中で行き合う大人たちが、一瞬だけ目を細める。


(あの子かもしれない)


そんな視線だけを、少女は敏感に感じ取っていた。

何の噂かまでは知らない。ただ、「見られている」ことだけが分かる。


アンリは、その背中を見送りながら、小さく息を吐いた。


「……あの子と、話したほうがいいかな」


「明日ね」


ヒトミが答える。


「今日はもう、噂が先に回りすぎてる。今近づいたら、逆に目立つわ」


「明日……」


アンリは空を見上げた。


夕暮れの光が、雲の端を赤く染め始めている。


「明日になったら、もっと悪くなってたりしないかな」


「なってるかもしれないし、なってないかもしれない」


ヒトミは、村のほうへ歩き出した。


「でも、今日よりマシになることは、たぶんないわ」


その声には、経験から来る重さがあった。



日が傾きはじめると、村の空気がまた変わった。


通りの子どもたちは家の中へ押し戻され、戸口にはカンヌキがかけられる。

畑から戻る人の足も早くなり、門のほうからは時折、見張りの槍が石壁を叩く音が聞こえた。


宿の前で、五人は再び合流した。


「こっちは、噂がだいぶ広がってたわ」


マイが簡単に報告する。


「『クマにパンをあげてる子どもがいる』『クマが何匹いるか分からない』『門の近くで襲われかけた』――全部、出どころは同じ光景なのに」


「こっちは本人らしき子を見た」


ヒトミが、村の外れ、柵から続く坂道を顎で示した。


「さっき見た。何も持ってなかったし、クマもいなかった。でも――」


ヒトミは、少しだけ言葉を切る。


「村の人たちの視線が変わり始めてる。疑われ始めてる」


ルミナは、小さく息を吐いた。


無事だった、と安堵するには、状況があまりにも重い。


「間に合うかどうかは、明日次第よ」


ヒトミが言う。


「でも、時間があるからといって、必ず止められるとは限らない」


ヴェイルが、門のほうへ目を向けた。


「村の噂は、クマの数も少女の姿も、もう現実から離れ始めています」


彼は静かに続ける。


「"クマにパンをあげる子"が、"村を危険にさらす裏切り者"として語られ始めている」


「噂が立つと、クマより人間のほうが厄介だ」


低い声が横から挟まった。


振り向くと、門のほうから戻ってきた猟師が、槍を肩に担いで立っていた。


「山のクマより厄介だ」


ヴェイルが問いかける。


「あなたも、そう思いますか」


猟師は鼻を鳴らした。


「クマは腹が減りゃ食い物を探すし、怖けりゃ逃げる。それだけだ。噂は、腹が減ってなくても人を走らせる」


彼は、宿の軒先に集まる人影を一瞥した。


「今のうちに止まればいいがな」


その言葉には、止まらなかった場面を知っている者の重さがあった。


猟師はそれ以上何も言わず、広場のほうへ歩き去っていく。


ヴェイルは、彼の背中を見送りながら、小さく頷いた。


「私たちは、どう動きますか?」


ルミナの問いに、ヴェイルは考えてから答えた。


「今のところ、村の決定に先回りして介入するつもりはありません。ですが――」


「ですが?」


「目の前で、人が殺されそうになっていたら、それは別です」


ヴェイルの声ははっきりしていた。


「クマであろうと、人であろうと。守れる命が目の前にあるなら、見ているだけにはしない」


ルミナは、その言葉を胸の奥で反芻した。


(見て、覚えておくだけじゃなくて。

 どこかで、動かなきゃいけない時がくる)


風が吹き抜ける。


遠くの森のほうから、何かが軋むような音がした。

それが木の枝なのか、古い柵なのか、獣の声なのか。


このときの誰にも、はっきりとは分からなかった。


「あの子の家」


マイがぽつりと呟いた。


「明日、行ってみるべきかしら」


「行ったところで、何が変わるかは分からないけどね」


ヒトミが肩をすくめる。


「でも」


ルミナが言う。


「あの子と、お母さんが、どんなふうに暮らしているのか。それを知らないまま、この村のことを考えたくない」


ヴェイルは、頷いた。


「では、明日。一度、訪ねてみましょう」


アンリが、宿の扉を見上げた。


「……今日、もう一回、広場のほうに行ってもいい?」


「何しに?」


「ちょっと、気になることがあって」


アンリは、視線を地面に落とした。


「子どもたちが、あの子のこと、どう話してるか。聞いてきたい」


ヒトミが、アンリの肩を軽く叩く。


「じゃあ、私も行くわ。日が暮れる前に戻ってくるのよ」


二人が駆け出していくのを見送り、ルミナは空を見上げた。


黄昏の光が、村の屋根を斜めに撫でていく。

その光の下で、クマと少女の話は、形を変えながら、静かに村全体へ染み広がりつつあった。



夜が近づくにつれ、宿の広間にも人が戻り始めた。


けれど、昼間のような怒鳴り声は聞こえてこない。

代わりに、押し殺した声が、あちこちで交わされている。


「……だからさ、あんまり騒ぎ立てるなって」


「なんでだよ。クマが出てんだろ?」


「出てるけどな。上の商会が様子見てるって話なんだ。騒ぎが大きくなりすぎると、道の工事も止まるかもしれねえ」


「工事が止まって困るのは誰だよ」


「こっちだよ、こっち。材木も運べなくなるし、荷も出せなくなる」


別の卓では、昼間「退治派」だった男が、今度は声を落として話している。


「いざってときに斬れりゃそれでいいんだよ。普段から騒いでると、本当に危ないとき誰も信じねえだろ」


「誰に?」


「誰だっていいさ。上かもしれねえし、商人かもしれねえし……」


ルミナは、その声を背にして階段を上がった。


部屋に戻ると、マイが窓の外を眺めていた。


「……昼間と、言ってることが変わってますね」


ルミナがそう言うと、マイは振り返った。


「昼間は"クマが怖い"が勝って、夜は"仕事が止まる"が勝ったのよ」


「どっちも本当なんですよね」


「ええ。どっちも嘘じゃない。だから、人は揺れる」


マイは窓枠に手を置いた。


「揺れてる人たちの真ん中で、一つだけ揺れないものがある」


「一人?」


「噂よ」


マイは、遠くの森の影を見つめた。


「噂だけは、止まらない。大きくなる一方」


ルミナは、ベッドに腰を下ろした。


窓の外では、村の灯りが一つ、また一つと灯り始めている。


(明日、あの子の家に行く)


その決意だけが、胸の中で静かに固まっていく。


黄昏が夜に変わるまでの、わずかな時間。

村の空気は、一晩でどこまで変わるのだろう。


ルミナは、窓の外の暗闇を見つめながら、そっと目を閉じた。

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