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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第四章 新たな生活

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紙の上の安全、土の上の怒り


広場の真ん中に、人の輪ができていた。


門から戻ってきたときには、もう村のほとんどの人が集まっていた。


畑帰りの土のついた靴のままの人、腕まくりを解き忘れた大工、子どもを家の中に押し戻してきたらしい


母親たち。さっきまで荷車が行き来していた場所が、いつの間にか集会場に様変わりしている。


「村の者は、できるだけここに」


輪の中心から、低い声が響いた。


声の主は、背の低い、肩幅だけが妙にがっしりした男だった。擦り切れた帽子、腰の鍵束。村の長。


その隣に、見慣れない服の男が立っている。


薄い灰色の上着に、胸元には知らない紋章。短く刈り上げた髪。両腕には、巻物がいくつも抱えられてい

た。


「……あれ、やっぱり役人?」


アンリが、ルミナの袖をつまんでささやく。


「そうね。領の役所から来た人」


マイが眼鏡の位置を直すふりをして、そっと視線を送る。


「胸の紋、前に書類で見たわ。後ろで腕組んでるのが三商会の人たち」


ヴェイルが、輪から少し外れた木陰を顎で示した。


「私たちはあそこから見よう。全体が見えるし、邪魔にもならない」


ルミナたちは言われた場所に並んだ。


門で話をした猟師も、少し離れたところで槍を突き立てて立っている。


彼だけが、輪の中にも外にも属さない位置にいるように見えた。


村長が咳払いをひとつ。


「……もう来れん者はおらんだろうな。じゃあ、始めようか」


村長の視線を受けて、役人が一歩前へ出た。


抱えていた巻物を一本だけ選び、端を指で押さえながらそっと地面に広げる。


中から現れたのは、厚い紙を継ぎ合わせた、大きな地図だった。


「……あれが、村?」


ルミナは、輪のいちばん外側から背伸びをして覗き込む。


紙の上には、家並み、畑、川、森の稜線。


見慣れた屋根の並びが、小さな四角い印になり、道が一本の線に細められている。


けれど、紙の上の森は、何もなかった。


門から見たときの、風に揺れる木々の暗さも、斜面を流れる水のきらめきも、そこにはない。


ただ濃い緑色の塊と、境界線だけが、静かに広がっている。


役人は、丸めてあった細い棒を取り出し、紙の上をなぞるように動かした。


「まず、こちらをご覧ください。これが、この村と周辺の地形になります」


棒の先が、村のまわりを一周して止まる。


そこに、赤いインクで太く引かれた線があった。


「この線から内側が、“安全な範囲”として指定されます」


ざわ、という音が、人の輪のあちこちから起きる。


息を呑む音、舌打ちする音、誰かの小さな笑い。


「線の内側では、領として柵の補強や見回りを優先的に行います。兵も増員されます。これによって、ク

マが里に近づく危険を最小限に――」


「ちょっと待てよ!」


輪の中ほどから、声が飛んだ。


痩せた体に筋張った腕。


ルミナは、宿の食堂で、斜面の畑の話をしていた農夫だと気づく。


男は人の肩をかき分け、紙の近くまで出ていった。


「ここ、この印がうちの畑だろ?」


彼は指先で、地図の端を叩く。


「線の“外側”じゃねえか。安全だの何だのって言ってるの、村の真ん中だけか?」


役人は一瞬目を伏せ、それから穏やかな調子を作って口を開いた。


「線の外を『守らない』と言っているわけではありません。ただ、人手や資源には限りがありまして―

―」


「つまり、何かあっても“仕方ない”ってことだな」


農夫の声が、ひとつ高くなる。


「柵を直してもらえる家と、そうじゃない畑が、紙切れ一枚で分けられてるって話だ」


輪のあちこちから、低い賛同の唸りが漏れた。


「うちも外だぞ」


「線の内だけ守ってりゃ、それでいいのかよ」


マイは、紙の端をじっと見つめていた。


線の長さ、家の数、門の位置、柵の記号。


頭の中で数字を並べ、距離を測り直していく。


「どう?」


ルミナが小声で尋ねる。


「計算は正しい。でも――」


マイは短く息を吐いた。


「見回りに割ける人数、柵の補強に使える木材。全部足して引いて、"守れるギリギリ"で線を引いてる


「じゃあ……これでいいってこと?」


「いいかどうかは、別問題」


マイは視線を紙から離し、輪の中の人々を見た。


怒鳴る人。唇を噛んで黙る人。腕を組む猟師。


「この線の中に押し込められてるのは、“計算上守れるもの”であって、みんなの暮らしの全部じゃない

の」


ヴェイルは、腕を組んだまま黙って様子を見ていた。


紙の地図。赤い境界線。責任範囲。


どれも彼には見慣れたものだ。


中央の部屋で、何度も広げられてきた図。


(こういう線を使って、“どこまで守るか”を決めてきた)


その線のおかげで誰かが助かったことも知っている。


しかし同時に、その線の外で、静かに切り捨てられていく背中も覚えていた。


(これは――“守るための線”というより、“責任を分ける線”だ)


喉まで上がった言葉を、ヴェイルは飲み込んだ。


今ここでそれを口にすれば、自分がどちら側の人間なのかをはっきりさせることになる。まだ、その時で

はない。



「静かに!」


村長が帽子のつばを押さえ、声を張った。


小柄な体を、精一杯大きく見せるように胸を反らして立つ。


「まず、話を最後まで聞こうじゃないか」


「もう十分聞いたさ!」


さっきの農夫が、肩で息をしながら返す。


「紙の上では安全だって言われたけどな、土の上じゃ違うってことくらい分かってる。柵の外に出て、あ

んたらの引いた線の外側に立ってみろよ」


その言葉に、猟師が眉をわずかに上げた。


「……やめとけ」


彼は広場の隅で、槍を杖代わりにしながら低く呟く。


「線の外で一晩立っていられるやつなんざ、そうはいねえ。紙の線と違って、あっちの境は、風と匂いで

いつでも動く」


「動く?」


アンリが小さく首をかしげる。


猟師は柵のほうを顎でしゃくった。


「クマの通り道も、風の抜ける筋も、その日のうちに変わる。深くまで入ったことのねえ連中ほ

ど、"線"ってもんを引きたがるんだ」


短い言葉だったが、広場の空気がゆらりと揺れた。


紙の上の線と、土の上の境目。


両方を知っている者の声だった。


役人は眉間に皺を寄せながら、それでも表情を崩さないようにしている。


「もちろん、現場の皆さまの感覚は大切にしたいと考えております。ただ、森をすべて“安全”にはできま

せん。領としても、責任を持って守れる範囲をはっきりさせる必要が――」


「はっきりさせたいのは、“守る範囲”じゃなくて、“責任を取る範囲”なんじゃないのかね」


怒鳴り声を断ち切るように、静かな声が響いた。


輪の端に立っていた年配の女だった。


髪をきつく後ろで束ね、腕には小さな子どもがしがみついている。


女は抱いた子どもの頭を撫でながら、役人をまっすぐ見た。


「紙に線を引いて、『ここまでならやりました』『ここから先は知りません』って。そうやって、責任逃

れしたいだけじゃないのかね」


役人の喉が、わずかに動いた。


その横で、村長が慌てて口を挟む。


「森を使わんわけにもいかんだろ。薪も炭も、全部よそから買うわけにはいかん。だからこうして、話し

合って――」


「話し合ってる間にも、クマは動いてるんだよ!」


別の男が叫んだ。


「山の上じゃ、もう柵が壊されたって話だ! 畑を荒らされてる家もある! 紙の上で線を引いてる暇が

あったら、そっちをどうにかしてくれ!」


「クマを全部山の奥へ追い込めないのか!」


「撃つなって言われたら、どうしろってんだ!」


「人間の子守るのと、クマ守るのと、どっちが先だよ!」


怒鳴り声が幾つも重なり、輪が内側から膨らむ。


輪の外側にいるルミナには、そのどれもが「誰かを守りたい」と叫んでいるように聞こえた。


(この人たち、怖い“大人”なんじゃなくて)


アンリが、ぎゅっとルミナの袖を握る。


「……みんな怒ってるのに」


声は震えているのに、目は真剣だった。


「家とか畑とか、家族のこと……守りたいだけなんだよね」


ルミナはうなずいた。


怖さと同じくらい、その必死さが胸に刺さる。



輪から少し離れた場所で、ひときわ静かな親子が身を縮めていた。


薄い色のワンピースを着た少女と、その肩に手を置く母親らしい女。


あのとき、柵のそばで包みを抱えていた少女だ。


少女は唇を噛みしめ、視線を地面に落としている。


母親の指先には、見えない力がこもっている。


「……話、広がってるかもね」


ヒトミが小さくつぶやく。


「“クマを見た”だけじゃなくて、あの子が“何してたか”まで」


ルミナの心臓が、どくんと跳ねた。


門の前で話した出来事が、今ここで別の形になろうとしている。


(三人で決めて、きちんと話したこと)


「……わたしたち、話さないほうがよかったのかな」


ルミナの声が小さく震えた。


「あの子のこと、黙ってたら……」


「違うわ」


マイが、ルミナの肩にそっと手を置いた。


「見たこと自体は、あなたのせいじゃない。黙ってたら、あの子がもっと危ないことになってた」


アンリは少し離れたところで、広場のほうをじっと見ていた。


ヒトミは何も言わず、頬の傷跡に指先を触れた。大人たちの怒声に混じって、別の種類の“戦いの匂い”が混ざり始めている。


(戦う相手が、クマだけじゃない)


ヒトミはその気配を知っていた。



「――とにかく、今すぐクマをどうこうする決まりは出せません」


押し寄せる声を、役人がどうにか押し返した。


細い棒を握る手が、わずかに震えている。


「私にはここで『撃て』『撃つな』と命じる権限がありません。できるのは、領の方針を伝え、皆さまの

意見と状況を記録して、上に報告することだけです」


「それで、何か変わるのかい」


広場の端にいた老人が、静かに問いかけた。


「紙に線を引いたところで、実際に何が変わるんだね」


役人は答えられなかった。


沈黙が重く落ち、その重さに耐えきれないように、村長が口を開く。


「……今日は、ここで一度切り上げよう」


その声には、はっきりと疲れが滲んでいた。


「クマをどうするか、すぐには決められん。だが――子どもだけで山に近づかせないこと。日が落ちたら

外を歩かないこと。それだけは今日から徹底しよう。いいな」


誰も「いい」とは答えなかった。


代わりに、重い吐息があちこちから漏れる。


「それと、もうひとつ」


役人が巻物を束ね直しながら続けた。


「クマの件が落ち着くまで、この村の出入りを絞ることになりました。門の開閉は見張りの判断で行い、

よそからの出入りも最小限に」


「最小限って、どういうこった」


農夫が顔をしかめる。


「商売で来てる連中は? 旅人は?」


「旅の方々には、ご不便をおかけします」


役人が、ルミナたちのほうを見て、深く頭を下げた。


「状況が落ち着くまでのあいだ、この村で待っていただくことになります」


「つまり、『クマがどうなるか決まるまで足止め』ってことね」


ヒトミが淡々とまとめる。


その横で、アンリが「えええっ」と情けない声を上げた。


「ボクたちも? 悪いことしてないのに?」


「“悪いことしたから”じゃないわ」


マイが肩をすくめる。


「“外から来た人が多いほど、噂も混乱も増えるから”よ」


ヴェイルは短くうなずいた。


「ここにいる間は、少なくとも状況を見届けられる。悪いばかりとは言い切れません」


「よくもないけど」


アンリが頬をふくらませる。


「だって、クマがどうなるか決まるまで帰れないってことでしょ。……決めるの、クマじゃないのに」


そのつぶやきが、妙に真ん中を射抜いた。


ルミナの胸にも、ちくりと同じ痛みが灯る。


クマがどうなるか。森がどうなるか。村がどうなるか。


どれも、紙の上の線と、大人たちの声で決められようとしている。


「――解散だ」


村長の言葉を合図に、人の輪がゆっくりほどけていった。


怒鳴っていた男たちは、まだ何か言いたげに手を振り回しながら、仲間に肩を掴まれて散っていく。


子どもを抱えた女は、猟師のほうに一度だけ視線を送り、それから家のほうへ足早に向かった。


猟師はその背中を見送り、静かに槍を肩に担ぎ直す。


踏み固められた土の上には、棒でなぞられた線の名残だけが、かすかに残っていた。


「……何も、決まってないね」


アンリがぽつりと漏らした。


「話して、怒鳴って、ため息ついて、それで終わり」


「決まったこともあるわ」


マイが答える。


「『子どもを山に近づけない』『夜は外に出ない』『出入りを絞る』。今はその程度しかできない」


ヒトミが、広場の真ん中を見つめた。


「「クマと人。村の外と内。……線はいつも、血が流れてから引かれる」


その声は静かだったが、ひとつひとつの言葉は重かった。


ルミナは、広場に残されたものを見下ろした。


踏み荒らされた土。消えかけた棒の跡。入り混じる足跡。


(地図の線と、暮らしの線)


森と村を分ける線。


守ると決めたものと、諦めるしかないものを分ける線。


大人たちが声を張り上げるたび、その線は少しずつ滲んだり、濃くなったりしている。


どちらも、誰かを守ろうとして引かれている。


どちらも、誰かをこぼしてしまう。


誰も悪くない。


誰も、全部を守る力を持っていない。


そのことだけが、やけにはっきりと胸の中に残った。


ルミナたちは、広場から少し離れたところまで歩き、一度立ち止まる。


さっきまで人でいっぱいだった輪は、もう解散していた。


輪の形だけが、土の上にうすく残っている。


(いつか、わたしたちも、どこかで“線を引く側”に立たされるのかな)


ルミナは、そんな予感を振り払うように、そっと息を吸った。


その息の重さを抱えたまま、彼女たちは広場に背を向けた。



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