土に引かれた境界線
第4章 獣の線
見回りの男の顔から、さっと血の気が引いた。
「……子どものクマと、女の子?」
見回りの男はルミナの言葉を繰り返した。
「どこで見た」
声が低くなった。
ルミナは喉のひりつきを感じながら答えた。
「村の外れの畑の先です。柵のそばに平たい石があって……その上に女の子が包みを置いて、子グマがそこで食べていました」
「距離は?」
「手を伸ばせば届きそうな距離です。でも、柵があるから、触れないくらい」
見回りの男は短く息を吸い、門の内側を振り返った。
「一匹か?」
今度はヴェイルを見る。
「見えたかぎりでは一匹だけでした」
ヴェイルは落ち着いた声で答える。
「近くに他の影はありませんでした」
見回りの男はうなずいた。
「……分かった。ちょっと待ってろ。森のことを分かってるやつを連れてくる」
そう告げて、見回りの男は門の中へ駆けていった。
「おーい」
門のほうから、アンリの声がした。ヒトミと一緒に走ってくる。
「何かあった? 見回りの人が慌ててたけど」
「クマを見たの。あの女の子が、クマに餌をあげてるところ」
ルミナが答えると、アンリの目が丸くなった。
「噂になってたやつだ」
「黙ってるより、ずっといいわ」
ヒトミが応じる。右頬の傷が強く見える。
マイは何も言わず、門の中を見つめていた。
しばらくして、見回りの男が戻ってきた。
その後ろに、もう一人、年配の男がついてくる。髪と髭に白いものが混じり、腰には刃こぼれの目立つ山刀、肩には長い槍が掛けられていた。
「この人は、この辺りの獣のことをよく知ってる」
見回りの男がそう紹介すると、年配の男は軽く顎を引いた。
「猟師だ。この辺りの山は長い。……話を聞かせてもらえるか」
声は低く、重い。
「どこで、何を見たのか。そのまま話してくれ」
ルミナはうなずいた。
柵の位置、石の形、包みを置いた少女の手つき。
斜面の陰から現れた子グマの大きさ。
パンを食べる様子。少女の声。
順を追って、ひとつずつ説明していく。
猟師は、途中で口を挟まなかった。
ときどき短くうなずくだけだ。
最後まで聞き終えると、猟師は息を吐いた。
「……何度目だろうな」
「何度目……ですか?」
アンリが問い返す。
「人と獣が近づくのは、何度も見てきた」
「始まりは、たいてい優しさからだ」
猟師は口の端をわずかに持ち上げた。笑っているようでいて、笑っていない。
「だが人の世界と獣の世界は、本来交わらんほうがいい。自然の掟には、人のルールは通用せんからだ」
彼は門の外、村の外れを顎で示す。
「そのクマは、怖がってる様子はなかったんだな?」
「はい。石の上の包みだけ見てて。女の子のことも、逃げずに見ていました」
ルミナは胸を押さえる。
少女の背中が、まだはっきりと浮かぶ。
「まるで友達のようでした」
「そうか」
猟師は、肩の槍を少し持ち直した。
「それが、いちばん厄介なんだ」
ヒトミが反応する。
「"慣れてる"ってこと?」
「慣れかけてる、だな」
猟師は空をちらりと見上げる。
「人の匂いと食い物の匂いを一緒に覚え始めてる」
「誤学習……」
マイが呟いた。
アンリが首をかしげる。
「ごが……なに?」
「本当は覚えないほうがいいことを、"覚えちゃってる"ってこと」
マイはアンリに向き直る。
「本当なら、クマは里の匂いを"怖いもの""近づいちゃいけないもの"として覚えるはず。でも、あの子グマはその逆を覚えかけてる」
「里=食べ物がもらえる場所、ってことね」
ヒトミが短くまとめる。
年配の男は、ゆっくりと頷いた。
「山の餌が減れば、里のほうへ降りてくることはある。それ自体は、珍しい話じゃない」
彼は土の上にしゃがみ込み、人差し指で簡単な印を描いた。
「ここが山、ここが里だとする」
地面の左側に丸をひとつ、右側に丸をひとつ。
そのあいだを、一本の境界線でつなぐ。
「本来、この境界線は"あまり渡らんところ"なんだ。渡るときは、命がかかってるときだけ」
境界線の上を、指で何度か往復させる。
「ところが、一度『ここに来れば楽に食える』と覚えたらどうなる?」
誰もすぐには答えられなかった。
ルミナは、村の入口で見た痩せたクマを思い出す。
土に伸びていた細い脚。黒ずんだ血の痕。
誰かがかけた布。
「......何度でも、来るようになる」
猟師が、自分で答えを置いた。
「最初はパン一切れかもしれん。次は、別の家の残り物かもしれん。そのうち、人そのものを"怖くないもの"と思い始める」
アンリが、ごくりと喉を鳴らした。
「"怖くない"って、いいことじゃないの?」
「獣にとって"怖くない"は、"もっと近づいてもいい"とほとんど同じだ」
猟師の声は淡々としている。
「近づきすぎて、匂いを確かめようとする。押したり、噛んだりもする。子どものつもりじゃ遊びでも、人の身体はそれに耐えられん」
ヒトミの視線が、少しだけ鋭くなる。
「じゃあ......やっぱり、あの女の子が悪い、ってこと?」
言葉にしたのはアンリだった。
自分で言いながら、顔をしかめている。
年配の男は、首を横に振った。
「悪いかどうかで言えば、誰も悪かない」
きっぱりと言い切る。
「クマは腹を空かせる。子どもは、その腹を見て手を伸ばす。親は危ないから引きはがそうとする。村は、今までどおり畑を守りたいと思う。それぞれ、当たり前のことだ」
彼は、土に描いた境界線を指でこすって消した。
「だがな、一度こうして境界をこすっちまうと、きれいには戻らん」
指先に付いた土を、パンパンと払う。
「いちばん困ってるのは、あの子グマだろうよ。母親もおらん、山の餌場も変わってる、そのうえ里の匂いに引っ張られてる」
「母親が、いないって......」
ルミナは、思わず口を挟んでいた。
「あのクマがひとりだって、どうして分かるんですか?」
猟師は少しだけ目を細める。
「この時期に、その大きさで、一匹だけで動いてるならな」
彼は森のほうを見やった。
「普通は、まだ母のそばにいる。群れで暮らす獣じゃないが、子が小さいうちは一緒にいるもんだ。......門の近くで倒れてたほうの影、見ただろう?」
胸の奥が、きゅっと縮む。
あの痩せたクマ。
布の下から覗いていた毛並み。
誰も近づこうとしなかった輪。
「全部が全部そうとは限らんがな」
猟師は、あえてそこで言葉を濁した。
「ただ、山で見えなくなった大きな影と、里でうろつく小さな影が重なることは、珍しい話じゃない」
マイが、小さく息を吐く。
「母親がいない子どもは、頼れるものを探します」
「それが、たまたま人だったってだけ」
ヒトミが、その続きを静かに受け取る。
「で、その"たまたま"の片づけは、たいてい人間のほうに回ってくる」
猟師は、肩の槍を持ち上げて位置を直した。
「だからと言って、クマを全部突き殺しゃ済む、って話にもならんがな」
彼は苦い顔をする。
「昔は、山で危ない奴を見つけたら、近い者同士で追い払って、それで終わりだった。今は、人も畑も道も増えすぎてな。どこに追い出しても、誰かの暮らしにぶつかる」
ため息とも笑いともつかない息が、口から漏れる。
見回りの男が、腕を組んだまま小さくうなずいている。
「……長々と話したが、あんたらに言いたいのはひとつだ」
猟師は、ルミナたちを順に見た。
「さっき見たことを、『気のせいだった』『勘違いだった』ってことにはしないでくれ。それだけだ」
ルミナは、指を握り込んだ。
「……はい」
本当は、まだ聞きたいことがいくつもあった。
あの女の子のこと。子グマのこと。
山のこと。村の人たちのこと。
けれど、言葉を足すほど、どこか別の境界まで指でこすってしまいそうな気がした。
猟師は、門のほうへ向き直る。
「村の大人たちには、こっちで話す。女の子の心当たりも、まったくないわけじゃない」
見回りの男も、それに続いた。
「君らは馬車のほうを気にしときな。あとは任せてくれ
そう言って、門のほうへ向かいかける。 「……森のほうを見るときは、あまり長く見つめすぎないことだ」 背中越しに、最後の一言を残して、二人は門の内側へ消えていった。そう告げて、二人は門の内側へ消えていった。
静けさが、少し遅れて戻ってくる。
門の外には、相変わらず畑へ向かう人や荷車を押す人の姿がある。
でも、さっきまでより、空気が薄く張り詰めているように感じられた。
「ねぇ、あの女の子……怒られちゃうのかな」
アンリが呟く。
「叱られるくらいで済めば、まだいいほうね」
ヒトミが答える。
「本気で止めようと思ったら、腕をひっぱってでも森から引きはがす。それで全部納得できるなら、こんなにみんな悩んでないはずよ」
「じゃあ、どうしたらいいんだろ」
アンリの問いに、誰もすぐには言葉を返せなかった。
マイが、少し考えてから口を開く。
「"どうしたらいいか"を、今ここで決められる人は、この場にはいないんだと思う」
彼女は門の上の見張り台を見上げた。
「私たちが悩んでも、答えは出ない」
「ルミナ。さっきのこと、誰かに話したの、後悔してる?」
「……してません」
答えは、思ったよりもはっきり口から出た。
「あのまま誰にも言わなかったほうが、きっと後悔しました。あの子が、クマに襲われて怪我をしたら」
ヴェイルがうなずく。
「事実を伝えるかどうかは、私たちの選択だった。どう扱うかは、村の選択になる」
「村の人たちも、大変だね」
アンリが、門のほうを見つめたまま続ける。
「クマも怖いし、女の子も心配だし、畑も守らなきゃだし。全部、大事なんだもんね」
「全部守ろうとして、誰かが犠牲にならなきゃいいけどね」
ヒトミの言葉は冷たく聞こえる。
風が、村のほうから吹いてくる。
土と煙と人の匂いが混じった空気だ。
「……あの子グマは、今、どこにいるんでしょう」
ルミナは、森の稜線を見上げた。
山の影の途中で、不自然に低くなっているところがある。
開拓で木が切り倒された跡。昨日、馬車の中からも見えた場所だ。
門の近くで倒れていた母グマは、もう片付けられている。
里からの匂いだけが、風に乗って届く。
「山と里のあいだで、行き先を見失っているのかもね」
マイが呟く。
「人だって、似たようなものでしょう」
ヒトミが言った。
「思い通りにいかないのは、人も一緒。クマだけの話じゃないわ」
ルミナの胸の奥に、重さが落ちていく。
(境界が、一度ぼやけたら、きれいには戻らない)
猟師の言葉が、耳の奥で反芻される。
山と里の境目。
人と獣の境目。
大人と子どもの境目。
それぞれの境目で、誰かが立ち止まり、揺れている。
門のほうから、「馬車の準備を始めるぞー」という声が上がった。
御者が馬の頭を撫で、荷台の紐を締め直している。
「……行こうか」
ルミナは息を吸った。
あの子グマのことも、女の子のことも、森のことも。
全部を抱えたまま、この村を通り過ぎることになる。
その重さが、どこかで自分の中の何かを変えてしまいそうな予感だけが、静かに残っていた。




