怒りの行き場
ルミナたちは家の中に入った。
「狭いところで悪いね」
ツグミの母親は、そう言いながら奥の部屋を手で示した。頬はこけているが、部屋はきちんと片づいている。洗った木の食器が布の上に伏せられ、壁際には古びた棚がひとつ。
ツグミは、暖炉の近くにちょこんと座っていた。昨日と同じ薄い色のワンピース。足先だけ、床の上で落ち着きなく揺れている。
ヴェイルは入口に近い場所に立った。いつでも動けるように——兵士としての習慣だった。ルミナはツグミの近くに座り、威圧しないよう少し斜めの位置から、優しく微笑みかけた。
母親が口を開いた。
「旅の方がお話を、と……ツグミから聞きました」
「突然押しかけてしまって、すみません」
ヴェイルが頭を下げる。
「ツグミさんのことは、村の人たちの噂でしか知らなかったので。直接お話を伺いたくて」
「噂、ね」
母親は疲れたように笑った。
「ここ数日、その言葉ばかり聞いています」
「……昨日、森の近くでクマを見ました」
ルミナが切り出した。
「痩せた子熊が……誰かから食べ物をもらっていました」
母親の肩が、わずかに震えた。
ツグミも、動きを止める。
「それが……ツグミさんではないかと」
ルミナはツグミの顔を、真正面からではなく、視界の端で捉えた。
ツグミは唇を噛んでいた。何かを飲み込むように喉が動く。
「ツグミ」
母親が名前を呼ぶ。
「話せる?」
しばらくの沈黙のあと、ツグミはうなずいた。
「……最初は、ほんとに、ちょっとだけのつもりだったの」
か細い声が、部屋の中に落ちた。
「畑の向こうまで、母ちゃんの手伝いで行ったとき、山のほうから、変な鳴き声がして……見ちゃったんだ。ちっちゃいクマ」
ルミナは息を詰める。
「すごく痩せてて。足、細くて……骨が見えそうなくらいで」
ツグミの指先が、自分の腕をぎゅっと掴んだ。
「怖い、って思った。でも……かわいそうって思った。だって、立ち上がろうとして、何回も倒れてたから」
母親が目を閉じる。母親の横顔には、光景を想像してしまった人の影が浮かんでいた。
「近づくなって、前から言われてたのは知ってた。山のほうで見かけたら、静かに離れろって。走って逃げたら追いかけてくるから、背中を向けるなって。でも、そのとき……動けなくて」
ツグミは俯いたまま、続ける。
「うち、あの日、パンが余ってて。母ちゃんが『固くなってきたから、明日の朝スープに入れよう』って言ってたやつ」
「あれは……」
母親が何か言いかけて、口をつぐんだ。
「それ、こっそり持って行って……柵の向こうから投げたの。『食べたら、もう山のほうに戻ってね』って、言ったんだけどね」
ツグミは顔を上げない。
その声の震えは、昨日の風よりも細かった。
「最初は警戒してたんだけど、匂いかいで……食べた。それ見たら、なんか、『ああ、よかった』って思っちゃって」
「それで、また同じことを?」
ヴェイルの問いは責めるようではなく、確認するような響きだった。
ツグミはうなずく。
「日にちをあけて、何回か。いつも同じ場所に行けば、いるんじゃないかって……思うようになって」
「最初に話を聞いたときは、わたしも驚いたよ」
母親が、両手をエプロンの上で握りしめた。
「怒った。『何やってるの』って。クマは危ないって、あれだけ言われてたのに。でも、ツグミが『お腹すかせてたんだよ』って、泣きながら言うから……」
そこまで言って、目を伏せる。
「怒るのと同じくらい、何も言えなくなったんです」
ルミナの胸に、ちくりとした痛みが走る。
「噂が広がったのは、いつ頃からですか?」
ヴェイルが尋ねると、母親は考え込んだ。
「二週間くらい前でしょうか。誰かが見ていたんでしょうね」
母親の声に、苦いものが混じる。
「『どこの子だ』って探される前に、『うちの子だ』って、わたしから言いました。隠していたら、もっと大ごとになると思って」
「それから……」
ルミナは、器の縁を指でなぞりながら、聞いた。
「村の人たちは、何て?」
「いろいろです」
母親は、天井の一点を見た。
「『ちゃんと躾けろ』『子供が何やってるか見てないのか』『クマが里まで下りてくるようになったらどうする』……」
「『町に知られたら、道の工事に響く』『伐採の許可が止められたらどうする』」
ツグミが、小さな声で言葉を継いだ。
「『だから、これ以上は絶対やるな』『誰かに聞かれても何も言うな』って……何回も」
ルミナは、喉の奥が苦くなるのを感じた。
クマの話をしているようでいて、実際に口にされているのは、道のこと、工事のこと、町のこと。
そのはざまで、ツグミの「したこと」だけが、責め言葉の真ん中に引きずり出されている。
「ツグミさんは……どう思っていますか?」
ルミナの問いに、ツグミは少しだけ顔を上げた。
瞳の色は、森の影よりも淡い。
「わかんない」
正直すぎる答えが、ぽつりと落ちる。
「クマにご飯あげたの、間違いだったのかもしれないって思う。村のみんなが怖がってるのも、本当だし。でも……あのまま見てるだけだったら、それはそれで、やだった」
ツグミは、自分の膝に目を落とした。
「『何もしなかったら、よかった』って言われたら……どうしたらよかったのか、わかんない」
その震えは、怒りでも、後悔でもなかった。
「ツグミさん」
ルミナは、なるべくまっすぐな声で言った。
「わたしは、クマにパンをあげることが"正しい"とも、"間違い"とも、今は言えません」
ツグミの肩が、ぴくりと動く。
「でも……クマを見て、何かしたいと思った気持ちが、"いけないこと"だとは思いたくないです」
「ただ、その気持ちのせいで、誰かがもっと怖い思いをするなら……次は、やり方を変えなきゃいけないんだと思います」
「やり方……」
ツグミが繰り返す。
「はい。ひとりだけで抱え込まない方法とか。クマのことを話しても、すぐに怒鳴られない相手とか」
ルミナは、自分のほうをじっと見ている母親の目も感じている。
「わたしたちは、長くここにいられないです。でも、今ここで見たことは、ちゃんと覚えておきます。森のことも、クマのことも、ツグミさんのことも」
母親が、かすかに笑った。
それは涙の気配を含んだ笑いだ。
「変な旅人さんですね」
母親は、ツグミの頭に手を置いた。
「ツグミ。あんたのしたこと、わたしも、全部は分からない。でも……」
そこで一度言葉を切り、深く息を吸う。
「怖かったのは、本当だよ。クマも、村も、あんたのことも。だから、怒鳴って、黙り込んで、また怒鳴って……」
「母ちゃん……」
ツグミの声が震える。
「でも、誰かを責めるだけで終わりにしても、何も変わらない。クマはまた来るかもしれない。村の人たちも怖いまま。あんたも……だから……」
母親は、ルミナとヴェイルのほうを見た。
「上の人たちが何を決めるかは、わたしたちには分からない。三つの商会がどう動くかも。でも、あの山の近くで何が起きてるかを見てくれる人がいるなら、少しだけ、頼りたいと思います」
「見ます」
ヴェイルが短く言った。
ルミナは、その言葉に心の中でうなずいた。
ツグミは両手で器を握りしめたまま、小さな声で呟いた。
「……あの子、もう、ここには来ないよね」
「わかりません」
ルミナは正直に答えた。
「でも、もし来ても、前とまったく同じにはならないと思います。ツグミさんも、昨日のわたしたちも、もう"何も知らない"ままじゃないから」
ツグミは、ほんの少しだけ頷いた。
その頷きは、答えではなく、「これから考える」という約束だった。
◇
その時、激しいノックの音が扉を揺らした。
ドン、ドン、ドン。
母親の顔が強張る。ツグミが小さく身を縮めた。
ヴェイルが立ち上がる。
「開けます」
母親が頷き、ゆっくりと扉に近づく。
扉を開けた瞬間、男たちが押し入ろうとした。
五人。
手には、鍬。鎌。木の棒。農具が、武器のように握られている。
先頭の男が叫ぶ。
「おい! トウマがクマに襲われたぞ! 死にかけてんだ!」
四十代くらいの男。土と汗で汚れた服。顔は怒りで赤く染まっている。鍬を片手に握りしめている。
その後ろから別の男が声を上げる。
「お前んとこの娘のせいだ! クマに餌やったんだろ!」
「だから村に下りてきたんだ!」
「責任取れ!」
男たちが家の中に踏み込もうとした瞬間、ヴェイルが立ちはだかった。
そして、フードを脱いだ。
露わになった顔に、男たちの息が止まった。
完璧な造形。透き通るような肌。吸い込まれるような深い瞳。
絶世の美女、という言葉以外に表現のしようがない顔だった。
だが、その美しい顔に浮かぶ表情は、冷徹そのものだった。
男たちが一瞬、見惚れる。
その隙に、ヴェイルは低く言った。
「大人が寄ってたかって押しかけるような無礼は許しません」
ヴェイルの声は低く、静かだった。
だが、その声には有無を言わさぬ力があった。
「まずは私が話を聞きます」
先頭の男が怯む。
その美しい顔は、まるで氷の彫刻のように冷たかった。
美しいからこそ、余計に恐ろしい。
「どけ! 娘を出せ!」
別の男が叫ぶが、声が上ずっている。
ルミナが入口に立った。
母親は奥の片隅で、ツグミを抱くように守っている。ツグミは母親の胸に顔を埋め、小さく震えていた。
「話があるなら、ここで言ってください」
ヴェイルは一歩も引かない。
「この家の中には、入れません」
男たちは農具を握りしめたまま、戸惑っている。
五人がかりで押し入ろうとすれば、物理的には可能かもしれない。
だが、ヴェイルの目を見た瞬間、誰もが本能的に後ずさった。
「トウマさんが襲われたのですね」
ヴェイルは静かに言った。
「それは深刻な事態です。ですが——」
「深刻だと分かってんなら、責任取らせろ!」
一人の男が叫ぶ。
「うちの子も危ねえんだぞ!」
「落ち着いてください」
ヴェイルの声は低く、静かだった。
「この子がクマに餌をやったことと、トウマさんが襲われたことに、本当に関係があるのですか?」
「決まってんだろ! 餌付けしたから、クマが村に来るようになったんだ!」
その時、外から別の声が響いた。
「何してるんですか!」
マイたち3人が駆けつけてきた。
「こんな大人数で押しかけて、何してんの!」
マイの鋭い声に、男たちが振り返る。
「関係ねえ! 邪魔するな!」
一人の男が、襲いかかるような勢いでマイに詰め寄る。
マイの腕を掴もうとした瞬間、マイが動いた。
掴まれた手首を捻り、男の体勢を崩す。
そのまま流れるように男を投げ飛ばした。濃茶のショートボブが一瞬舞い、眼鏡が光る。
男が地面に転がる。
「関係あるわよ」
マイは眼鏡を押し上げた。冷静な仕草。
その時、別の男がアンリに掴みかかった。
「ガキが!」
アンリは素早く後ろに飛びのいた。金髪が揺れる。華奢な体が、俊敏に動く。
男が追いかける。
アンリは地面に落ちていた鍬を拾い上げ、男の足元に滑り込ませた。
男が躓いて前のめりに倒れる。
「暴力で解決しようとしても、何も変わらないよ!」
アンリはあっけらかんとした声でいった。
拳を握りしめて男の前に立ちはだかった。目を見開いて、まっすぐに男を見つめる。
「ボクたちも広場で聞いた。トウマさんが襲われたって」
マイが続ける。
「でも、それとツグミちゃんに怒鳴り込むことに、どんな関係があるの?」
「決まってんだろ!」
別の男が叫ぶ。
「この子がクマに餌やったから——」
「クマは餌をもらったから人を襲ったの?」
マイの質問に、男たちが言葉に詰まる。
「それとも、お腹が空いてたから? 縄張りを追われたから? それともたまたま?」
「そんなこと……」
「分からないでしょ」
マイは冷静に続けた。
「あなたたちが怒ってるのは分かる。トウマさんが傷ついたのは事実。でも、その怒りを全部、この子一人にぶつけるのは——」
「理屈じゃねえんだよ!」
先頭の男が怒鳴った。
「お前らみたいな旅の者には分かんねえ! ここで暮らしてる俺たちの怖さが!」
男たちは再び前に出ようとする。
「お前の娘が余計なことしなけりゃ、トウマは怪我しなかった!」
「認めろ!」
「謝って済むと思ってんのか!」
一人の男が、鎌を振り上げた。
ヴェイルが一歩前に出る。
その瞬間、別の男が棒を振り上げた。
ヒトミが動いた。
黒と赤のメッシュが一瞬揺れ、その妖艶な動きで男の背後に回り込む。
棒を振り上げた男の腕を掴み、一瞬で関節を極める。
「っ!」
男が呻く。
ヒトミは無言のまま、男を地面に押さえつけた。その動きに無駄がない。
「何しやがる!」
他の男たちが襲いかかろうとする。鍬を構え、残りの棒を振り上げる。
ヒトミは男を押さえつけたまま、振り返った。
その目を見た瞬間、男たちの動きが止まる。
冷たく、鋭い目。
農具を持っていても、その目の前では意味がない。
「暴力はやめてください」
ヒトミの声は低く、冷たかった。
「離せ! 仲間に何してやがる!」
一人の男が叫ぶ。
「この人が先に手を出したから、止めました」
ヒトミは淡々と言う。
「もう一度、誰かが手を出すなら、全員まとめて止めます」
男たちの顔が青ざめる。
ヒトミの目には、迷いがなかった。
五人全員を相手にしても、勝てる——その確信が、立ち姿から滲んでいた。
一人、また一人と、農具を下ろす。
「離します。でも、落ち着いてください」
ヒトミが手を離すと、男はその場に膝をついた。
肩で息をしている。
他の男たちも、後ずさる。
「……畜生」
男が拳で地面を叩く。
「畜生……畜生……」
その声は、怒りというより、絞り出すような悲鳴に近かった。
アンリが一歩前に出た。
「あなたたちが怖いのは、分かるよ」
その声は、静かだった。
「次は自分の子どもかもしれない。次は自分かもしれない。そう思うと、誰かのせいにしたくなる。でも……」
アンリは、入口の向こう、家の片隅で母親に抱かれて震えているツグミを見た。
「この子だけのせいにしても、クマは消えない。森も変わらない。何も、解決しないんだ」
男たちは黙ったまま、地面を見つめている。
家の中から、震える声が聞こえた。
「わたしも……怖かったです」
母親だ。
男たちが顔を上げる。
入口の向こう、母親がツグミを抱いたまま、立ち上がっていた。
「ツグミがクマに食べ物をやってると知ったとき……村の人たちから聞いたとき、怒鳴りました。『あなたが襲われたらどうするの』『危ないでしょう』『なんでそんなことしたの』って、何度も」
母親は目を伏せる。
「でも……この子だけ責めて、それで終わりにしても、何も解決しない」
そこで言葉が詰まる。
「クマはまた来るかもしれない。わたしたちも怖いまま。それじゃ……なんか、違う気がするんです」
先頭の男は拳を握りしめたまま、立ち上がった。
しばらく黙って地面を見つめていた。
「……すまなかった」
その声は小さく、絞り出すようだった。
「俺たちも、怖かったんだ。トウマが血だらけで運ばれてきて……次は誰だって、頭がいっぱいになっちまって」
男は母親の方を向いた。
「お前んとこの娘だけが悪いわけじゃ、ねえ。分かってる。でも……」
そこで言葉が詰まる。
「怒りの持っていき場所が、なかったんだ」
母親が震える声で答えた。
「わたしも……怖いです。でも……」
母親はツグミの方を見た。入口の向こう、家の片隅で小さく丸まっている娘。
「この子を、守らなきゃいけない。それだけは、分かってます」
「もう二度と、クマには近づくな。約束しろ」
母親が頷く。
「約束します」
先頭の男が深く息を吐いた。
「……今日のことは、悪かった」
他の男たちも、重い足取りで背を向けた。
農具を引きずるような音を立てて、五人が重い足取りで去って行った。
足音が遠ざいていく。
ルミナが声をかける。
「大丈夫ですか」
「ありがとうございます……」
母親は震える声で答えた。
ツグミは、母親の胸に顔を埋めたまま、小さく震えていた。




