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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第四章 新たな生活

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怒りの行き場

ルミナたちは家の中に入った。


「狭いところで悪いね」


ツグミの母親は、そう言いながら奥の部屋を手で示した。頬はこけているが、部屋はきちんと片づいている。洗った木の食器が布の上に伏せられ、壁際には古びた棚がひとつ。


ツグミは、暖炉の近くにちょこんと座っていた。昨日と同じ薄い色のワンピース。足先だけ、床の上で落ち着きなく揺れている。


ヴェイルは入口に近い場所に立った。いつでも動けるように——兵士としての習慣だった。ルミナはツグミの近くに座り、威圧しないよう少し斜めの位置から、優しく微笑みかけた。


母親が口を開いた。


「旅の方がお話を、と……ツグミから聞きました」


「突然押しかけてしまって、すみません」


ヴェイルが頭を下げる。


「ツグミさんのことは、村の人たちの噂でしか知らなかったので。直接お話を伺いたくて」


「噂、ね」


母親は疲れたように笑った。


「ここ数日、その言葉ばかり聞いています」


「……昨日、森の近くでクマを見ました」


ルミナが切り出した。


「痩せた子熊が……誰かから食べ物をもらっていました」


母親の肩が、わずかに震えた。


ツグミも、動きを止める。


「それが……ツグミさんではないかと」


ルミナはツグミの顔を、真正面からではなく、視界の端で捉えた。


ツグミは唇を噛んでいた。何かを飲み込むように喉が動く。


「ツグミ」


母親が名前を呼ぶ。


「話せる?」


しばらくの沈黙のあと、ツグミはうなずいた。


「……最初は、ほんとに、ちょっとだけのつもりだったの」


か細い声が、部屋の中に落ちた。


「畑の向こうまで、母ちゃんの手伝いで行ったとき、山のほうから、変な鳴き声がして……見ちゃったんだ。ちっちゃいクマ」


ルミナは息を詰める。


「すごく痩せてて。足、細くて……骨が見えそうなくらいで」


ツグミの指先が、自分の腕をぎゅっと掴んだ。


「怖い、って思った。でも……かわいそうって思った。だって、立ち上がろうとして、何回も倒れてたから」


母親が目を閉じる。母親の横顔には、光景を想像してしまった人の影が浮かんでいた。


「近づくなって、前から言われてたのは知ってた。山のほうで見かけたら、静かに離れろって。走って逃げたら追いかけてくるから、背中を向けるなって。でも、そのとき……動けなくて」


ツグミは俯いたまま、続ける。


「うち、あの日、パンが余ってて。母ちゃんが『固くなってきたから、明日の朝スープに入れよう』って言ってたやつ」


「あれは……」


母親が何か言いかけて、口をつぐんだ。


「それ、こっそり持って行って……柵の向こうから投げたの。『食べたら、もう山のほうに戻ってね』って、言ったんだけどね」


ツグミは顔を上げない。


その声の震えは、昨日の風よりも細かった。


「最初は警戒してたんだけど、匂いかいで……食べた。それ見たら、なんか、『ああ、よかった』って思っちゃって」


「それで、また同じことを?」


ヴェイルの問いは責めるようではなく、確認するような響きだった。


ツグミはうなずく。


「日にちをあけて、何回か。いつも同じ場所に行けば、いるんじゃないかって……思うようになって」


「最初に話を聞いたときは、わたしも驚いたよ」


母親が、両手をエプロンの上で握りしめた。


「怒った。『何やってるの』って。クマは危ないって、あれだけ言われてたのに。でも、ツグミが『お腹すかせてたんだよ』って、泣きながら言うから……」


そこまで言って、目を伏せる。


「怒るのと同じくらい、何も言えなくなったんです」


ルミナの胸に、ちくりとした痛みが走る。


「噂が広がったのは、いつ頃からですか?」


ヴェイルが尋ねると、母親は考え込んだ。


「二週間くらい前でしょうか。誰かが見ていたんでしょうね」


母親の声に、苦いものが混じる。


「『どこの子だ』って探される前に、『うちの子だ』って、わたしから言いました。隠していたら、もっと大ごとになると思って」


「それから……」


ルミナは、器の縁を指でなぞりながら、聞いた。


「村の人たちは、何て?」


「いろいろです」


母親は、天井の一点を見た。


「『ちゃんと躾けろ』『子供が何やってるか見てないのか』『クマが里まで下りてくるようになったらどうする』……」


「『町に知られたら、道の工事に響く』『伐採の許可が止められたらどうする』」


ツグミが、小さな声で言葉を継いだ。


「『だから、これ以上は絶対やるな』『誰かに聞かれても何も言うな』って……何回も」


ルミナは、喉の奥が苦くなるのを感じた。


クマの話をしているようでいて、実際に口にされているのは、道のこと、工事のこと、町のこと。


そのはざまで、ツグミの「したこと」だけが、責め言葉の真ん中に引きずり出されている。


「ツグミさんは……どう思っていますか?」


ルミナの問いに、ツグミは少しだけ顔を上げた。


瞳の色は、森の影よりも淡い。


「わかんない」


正直すぎる答えが、ぽつりと落ちる。


「クマにご飯あげたの、間違いだったのかもしれないって思う。村のみんなが怖がってるのも、本当だし。でも……あのまま見てるだけだったら、それはそれで、やだった」


ツグミは、自分の膝に目を落とした。


「『何もしなかったら、よかった』って言われたら……どうしたらよかったのか、わかんない」


その震えは、怒りでも、後悔でもなかった。


「ツグミさん」


ルミナは、なるべくまっすぐな声で言った。


「わたしは、クマにパンをあげることが"正しい"とも、"間違い"とも、今は言えません」


ツグミの肩が、ぴくりと動く。


「でも……クマを見て、何かしたいと思った気持ちが、"いけないこと"だとは思いたくないです」


「ただ、その気持ちのせいで、誰かがもっと怖い思いをするなら……次は、やり方を変えなきゃいけないんだと思います」


「やり方……」


ツグミが繰り返す。


「はい。ひとりだけで抱え込まない方法とか。クマのことを話しても、すぐに怒鳴られない相手とか」


ルミナは、自分のほうをじっと見ている母親の目も感じている。


「わたしたちは、長くここにいられないです。でも、今ここで見たことは、ちゃんと覚えておきます。森のことも、クマのことも、ツグミさんのことも」


母親が、かすかに笑った。


それは涙の気配を含んだ笑いだ。


「変な旅人さんですね」


母親は、ツグミの頭に手を置いた。


「ツグミ。あんたのしたこと、わたしも、全部は分からない。でも……」


そこで一度言葉を切り、深く息を吸う。


「怖かったのは、本当だよ。クマも、村も、あんたのことも。だから、怒鳴って、黙り込んで、また怒鳴って……」


「母ちゃん……」


ツグミの声が震える。


「でも、誰かを責めるだけで終わりにしても、何も変わらない。クマはまた来るかもしれない。村の人たちも怖いまま。あんたも……だから……」


母親は、ルミナとヴェイルのほうを見た。


「上の人たちが何を決めるかは、わたしたちには分からない。三つの商会がどう動くかも。でも、あの山の近くで何が起きてるかを見てくれる人がいるなら、少しだけ、頼りたいと思います」


「見ます」


ヴェイルが短く言った。


ルミナは、その言葉に心の中でうなずいた。


ツグミは両手で器を握りしめたまま、小さな声で呟いた。


「……あの子、もう、ここには来ないよね」


「わかりません」


ルミナは正直に答えた。


「でも、もし来ても、前とまったく同じにはならないと思います。ツグミさんも、昨日のわたしたちも、もう"何も知らない"ままじゃないから」


ツグミは、ほんの少しだけ頷いた。


その頷きは、答えではなく、「これから考える」という約束だった。



その時、激しいノックの音が扉を揺らした。


ドン、ドン、ドン。


母親の顔が強張る。ツグミが小さく身を縮めた。


ヴェイルが立ち上がる。


「開けます」


母親が頷き、ゆっくりと扉に近づく。


扉を開けた瞬間、男たちが押し入ろうとした。


五人。


手には、鍬。鎌。木の棒。農具が、武器のように握られている。


先頭の男が叫ぶ。


「おい! トウマがクマに襲われたぞ! 死にかけてんだ!」


四十代くらいの男。土と汗で汚れた服。顔は怒りで赤く染まっている。鍬を片手に握りしめている。


その後ろから別の男が声を上げる。


「お前んとこの娘のせいだ! クマに餌やったんだろ!」


「だから村に下りてきたんだ!」


「責任取れ!」


男たちが家の中に踏み込もうとした瞬間、ヴェイルが立ちはだかった。


そして、フードを脱いだ。


露わになった顔に、男たちの息が止まった。


完璧な造形。透き通るような肌。吸い込まれるような深い瞳。


絶世の美女、という言葉以外に表現のしようがない顔だった。


だが、その美しい顔に浮かぶ表情は、冷徹そのものだった。


男たちが一瞬、見惚れる。


その隙に、ヴェイルは低く言った。


「大人が寄ってたかって押しかけるような無礼は許しません」


ヴェイルの声は低く、静かだった。


だが、その声には有無を言わさぬ力があった。


「まずは私が話を聞きます」


先頭の男が怯む。


その美しい顔は、まるで氷の彫刻のように冷たかった。


美しいからこそ、余計に恐ろしい。


「どけ! 娘を出せ!」


別の男が叫ぶが、声が上ずっている。


ルミナが入口に立った。


母親は奥の片隅で、ツグミを抱くように守っている。ツグミは母親の胸に顔を埋め、小さく震えていた。


「話があるなら、ここで言ってください」


ヴェイルは一歩も引かない。


「この家の中には、入れません」


男たちは農具を握りしめたまま、戸惑っている。


五人がかりで押し入ろうとすれば、物理的には可能かもしれない。


だが、ヴェイルの目を見た瞬間、誰もが本能的に後ずさった。


「トウマさんが襲われたのですね」


ヴェイルは静かに言った。


「それは深刻な事態です。ですが——」


「深刻だと分かってんなら、責任取らせろ!」


一人の男が叫ぶ。


「うちの子も危ねえんだぞ!」


「落ち着いてください」


ヴェイルの声は低く、静かだった。


「この子がクマに餌をやったことと、トウマさんが襲われたことに、本当に関係があるのですか?」


「決まってんだろ! 餌付けしたから、クマが村に来るようになったんだ!」


その時、外から別の声が響いた。


「何してるんですか!」


マイたち3人が駆けつけてきた。


「こんな大人数で押しかけて、何してんの!」


マイの鋭い声に、男たちが振り返る。


「関係ねえ! 邪魔するな!」


一人の男が、襲いかかるような勢いでマイに詰め寄る。


マイの腕を掴もうとした瞬間、マイが動いた。


掴まれた手首を捻り、男の体勢を崩す。


そのまま流れるように男を投げ飛ばした。濃茶のショートボブが一瞬舞い、眼鏡が光る。


男が地面に転がる。


「関係あるわよ」


マイは眼鏡を押し上げた。冷静な仕草。


その時、別の男がアンリに掴みかかった。


「ガキが!」


アンリは素早く後ろに飛びのいた。金髪が揺れる。華奢な体が、俊敏に動く。


男が追いかける。


アンリは地面に落ちていた鍬を拾い上げ、男の足元に滑り込ませた。


男が躓いて前のめりに倒れる。


「暴力で解決しようとしても、何も変わらないよ!」


アンリはあっけらかんとした声でいった。


拳を握りしめて男の前に立ちはだかった。目を見開いて、まっすぐに男を見つめる。


「ボクたちも広場で聞いた。トウマさんが襲われたって」


マイが続ける。


「でも、それとツグミちゃんに怒鳴り込むことに、どんな関係があるの?」


「決まってんだろ!」


別の男が叫ぶ。


「この子がクマに餌やったから——」


「クマは餌をもらったから人を襲ったの?」


マイの質問に、男たちが言葉に詰まる。


「それとも、お腹が空いてたから? 縄張りを追われたから? それともたまたま?」


「そんなこと……」


「分からないでしょ」


マイは冷静に続けた。


「あなたたちが怒ってるのは分かる。トウマさんが傷ついたのは事実。でも、その怒りを全部、この子一人にぶつけるのは——」


「理屈じゃねえんだよ!」


先頭の男が怒鳴った。


「お前らみたいな旅の者には分かんねえ! ここで暮らしてる俺たちの怖さが!」


男たちは再び前に出ようとする。


「お前の娘が余計なことしなけりゃ、トウマは怪我しなかった!」


「認めろ!」


「謝って済むと思ってんのか!」


一人の男が、鎌を振り上げた。


ヴェイルが一歩前に出る。


その瞬間、別の男が棒を振り上げた。


ヒトミが動いた。


黒と赤のメッシュが一瞬揺れ、その妖艶な動きで男の背後に回り込む。


棒を振り上げた男の腕を掴み、一瞬で関節を極める。


「っ!」


男が呻く。


ヒトミは無言のまま、男を地面に押さえつけた。その動きに無駄がない。


「何しやがる!」


他の男たちが襲いかかろうとする。鍬を構え、残りの棒を振り上げる。


ヒトミは男を押さえつけたまま、振り返った。


その目を見た瞬間、男たちの動きが止まる。


冷たく、鋭い目。


農具を持っていても、その目の前では意味がない。


「暴力はやめてください」


ヒトミの声は低く、冷たかった。


「離せ! 仲間に何してやがる!」


一人の男が叫ぶ。


「この人が先に手を出したから、止めました」


ヒトミは淡々と言う。


「もう一度、誰かが手を出すなら、全員まとめて止めます」


男たちの顔が青ざめる。


ヒトミの目には、迷いがなかった。


五人全員を相手にしても、勝てる——その確信が、立ち姿から滲んでいた。


一人、また一人と、農具を下ろす。


「離します。でも、落ち着いてください」


ヒトミが手を離すと、男はその場に膝をついた。


肩で息をしている。


他の男たちも、後ずさる。


「……畜生」


男が拳で地面を叩く。


「畜生……畜生……」


その声は、怒りというより、絞り出すような悲鳴に近かった。


アンリが一歩前に出た。


「あなたたちが怖いのは、分かるよ」


その声は、静かだった。


「次は自分の子どもかもしれない。次は自分かもしれない。そう思うと、誰かのせいにしたくなる。でも……」


アンリは、入口の向こう、家の片隅で母親に抱かれて震えているツグミを見た。


「この子だけのせいにしても、クマは消えない。森も変わらない。何も、解決しないんだ」


男たちは黙ったまま、地面を見つめている。


家の中から、震える声が聞こえた。


「わたしも……怖かったです」


母親だ。


男たちが顔を上げる。


入口の向こう、母親がツグミを抱いたまま、立ち上がっていた。


「ツグミがクマに食べ物をやってると知ったとき……村の人たちから聞いたとき、怒鳴りました。『あなたが襲われたらどうするの』『危ないでしょう』『なんでそんなことしたの』って、何度も」


母親は目を伏せる。


「でも……この子だけ責めて、それで終わりにしても、何も解決しない」


そこで言葉が詰まる。


「クマはまた来るかもしれない。わたしたちも怖いまま。それじゃ……なんか、違う気がするんです」


先頭の男は拳を握りしめたまま、立ち上がった。


しばらく黙って地面を見つめていた。


「……すまなかった」


その声は小さく、絞り出すようだった。


「俺たちも、怖かったんだ。トウマが血だらけで運ばれてきて……次は誰だって、頭がいっぱいになっちまって」


男は母親の方を向いた。


「お前んとこの娘だけが悪いわけじゃ、ねえ。分かってる。でも……」


そこで言葉が詰まる。


「怒りの持っていき場所が、なかったんだ」


母親が震える声で答えた。


「わたしも……怖いです。でも……」


母親はツグミの方を見た。入口の向こう、家の片隅で小さく丸まっている娘。


「この子を、守らなきゃいけない。それだけは、分かってます」


「もう二度と、クマには近づくな。約束しろ」


母親が頷く。


「約束します」


先頭の男が深く息を吐いた。


「……今日のことは、悪かった」


他の男たちも、重い足取りで背を向けた。


農具を引きずるような音を立てて、五人が重い足取りで去って行った。


足音が遠ざいていく。


ルミナが声をかける。


「大丈夫ですか」


「ありがとうございます……」


母親は震える声で答えた。


ツグミは、母親の胸に顔を埋めたまま、小さく震えていた。


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